吉名町宗越地区にある「耳地蔵」を遠方からも参拝される方々が多いとの話を最近得たことから、実際に訪れてみた。その場所は吉名魚港から海沿いを西へと伝った宗越、山陽煉瓦株式会社の敷地沿いである。(2021/09/27撮影)

 吉名町平方地区から更に西へ進むと巨大な送電鉄塔がある岬が見えてくる。この辺りが宗越(旧町名)地区であり、昭和30年代頃はこの防潮堤が無く、道幅も狭くて自動車ごと海へ転落する人もおられたそうだ。
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 海沿いをY字路まで進むと山陽煉瓦株式会社があり、ここを左折した先に「耳地蔵」が鎮座している。
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 山陽煉瓦の敷地を貫く特養老人ホーム宗越園バーベキューハウス宗越への道路。その途中右側に見えている緑色(緑青)の屋根が「耳地蔵」の祠である。
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 この祠なのだが、道路側からは地蔵尊が見えなかった。
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 横からも・・・見えず。ということは正面は西側のようだ。
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 車を停めて表側に廻ってみると地蔵尊が2体。どちらが「耳地蔵」様なのだろうか?壁には「謂われ」などの掲示は見当たらず。
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 後ろの正面?に石碑が立てられていた。「三界万霊耳地蔵」と彫られており、ここが「耳地蔵」であることに間違いなし。
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 創建は天保卯年十一月で、建立者は森本屋喜三郎(南涛家)。「天保卯年」は西暦で1831年で令和3年の190年前となる。
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 多用している資料本「たけはらの神仏を訪ねて」(著:神野勝)によると、謂れは、宅地造成に若い娘が人柱にされたことから、南涛さんがその霊を弔う地蔵尊を建立とのことだ。

 「耳地蔵」の祠(裏面)向いには煉瓦の山と係留地がある絶景スポット。資料本によれば再建立は昭和33年なのだが、地蔵尊はなぜ道沿いではなく西側を向かれているのだろうか。昭和33年頃の当時は未だこの道路がなくて海沿いだったのかもしれない。
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 資料本には「地蔵」としての御利益については記述が無く、祀られている地蔵菩薩としての「身代わり、特に子供の苦労を身代わり」のみ。この地域の人から聴けた話では、遠方から遥々「耳地蔵」を拝みに来られるのを良く見掛けるそうで、なぜ「耳・・」なのか、「耳の病い」の治癒を祈願されているのかまでよくは分からないとの事。ただこの地域では「耳地蔵」との愛称?で親しまれていることは間違いないそうである。
 ちなみに「三界万霊」とは供養が目的される碑などに付けられる名称なので、本地蔵尊が謂れ通りの「弔い地蔵」であることは分る。忠海には「清水の耳なし地蔵」があるが、吉名町宗越の「三界万霊耳地蔵」については容易に情報が得られず御利益についての調査を継続する。