昨年12月末に荘野地区の国道432号沿いで見た幟「初詣は氏神さまへ(総都八幡神社)」だが、これまで参拝したことが無かったので初詣時期が過ぎた年明けに訪れてみた。2年前に神社のある山が崩れた辺りを通ったことが有ったが、現在も災害復旧工事が続いており、遠回りで神社の参道に達した。(2022/01/11撮影)

 参拝してみたくなったきっかけは、1月9日から「まん延防止」でまた人混みの環境へは行けなくなったからであるが、前述の「氏神さまへ」の幟を見ていたこと、荘野地区に住まわれている方から初詣は子供の頃から「総都八幡」へ参拝していると聞いたこと、そして総都八幡神社近くに住まわれていた方から「総都」は昔は「僧都」だったが、神社に寺の「僧」は不釣り合いとのことで「総合の総」に改名された経緯?が聴けたことである。ちなみに「総都」のルビは「そうづ」ではなく「そうず」である。

 この日は天候不安定、竹原町は晴天だったが、神社の舞殿を訪れた時にはみぞれ混じりの雨に見舞われた。国道432号沿いを新庄交差点へ向かう木村城址BSを少し過ぎた新たな分岐を右折。 
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 しばらく走ると「新庄集会所」があり、更に東へと進む。
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 すると北側に災害復旧工事現場が見える。ここは2018年の豪雨災害で崩落したところである。
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 総都八幡神社はこの崩落場所の最上部に鎮座している。
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 工事現場で通行止めだったルートを迂回して神社へと向かう。
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 ここが神社への参道口である。真っ直ぐ行けば国道432号へも戻れる。
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 ゴミステーション向こうに数台停められる参拝者用駐車場?が有ったので駐車。
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 先ずはこの石段を昇る。
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 鳥居の額(扁額)は「増都八幡宮」であり、「総」はなく「増」になっていた。
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 1本目の石段上にある境内から振り向いてみる。石段下の右側は災害復旧工事で通行止め。
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 この1段目境内に「神社の略伝」が設置されていた。
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 この解説には「増都」が明治時代に「総都」に改称されたことのみ記載。改称の経緯については触れられていなかった。由緒には「一日そうつへお参り候刻・・・」と書かれており、どこにこお寺の「僧」の文字は書かれていなかった。だが、愛読書「竹原の神仏を訪ねて(著:神野勝)」では俗称が「僧都八幡宮」となっており、地域住民からは「僧」の文字で親しまれていることがうかがえる。
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 2本目の石段を昇って次の境内へ。
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 振り向いてみる。
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 登りきった境内の石灯籠から先は坂道になっていた。
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 坂道を登りきると第3の境内。
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 真横からは新庄の荘野地区の田畑が広がっている。この辺りは砂原町なのだが、国道沿いのバス停名は境内の解説板に書かれていた「神田(じんでん)」になっている。
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 案外キツイ坂道だった。
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 更に石段を昇る。
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 注連柱をくぐると・・・。
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 神楽殿がある境内に入れた。
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 清めの手洗「手水舎」は蓋がされていたので断念。
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 舞台へは上がれないが周囲から神楽殿をじっくりと観察。
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 ここの額にも「増都八幡宮」と書かれていた。
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 奉納画などが多数掛けられていた。これを撮って最中に雨混じりのみぞれに見舞われた。このような古い絵画は徐々に色褪せたり剥がれ落ちるので、じっくりと撮りたかったが舞台へは上がらなかった。勿論、神楽殿であるから神事に使われる神聖な場所だからである。(吉名の光海神社では神楽殿で展示物が閲覧できたが・・・)
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 胡堂の戎さま大黒さまより迫力がある。
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 この奉納画だけ明治か大正時代の雰囲気。あの旭日旗も描かれている。ボケとハレーションで奉納年が見えない。
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 神楽殿から更に石段を昇ると拝殿がある。
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 拝殿がある境内となる。振り向くと神楽殿がみえる。
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 拝殿にて「二礼二拍一礼」の参拝を済ませ、祭神様へ撮影の御許しを頂く。拝殿の後ろにある本殿を撮らせていただいた。祭神様は解説板に書かれていた通り、仲哀天皇、神功皇后と応神天皇である。
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 拝殿左にも鳥居が有り、併設の祠が鎮座されていた。
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 こちらの神様へも参拝を済ませた。右側の祠1つと・・・
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 左の建物には4つの祠が収納されていた。計5つの祠だが解説板には相殿が4神社書かれていたが、どれがどれなのか分からず。
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 口を閉じている狛犬。
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 口を開けている獅子。
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 また、みぞれが降り出したので帰路へ。
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 地上に着いた頃は周囲は白い雨?が降っていた。
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 拝殿左に併設されていた祠については「竹原の神仏を訪ねて」に写真と神社名が記載されていた。大きな祠が「稲荷神社」、建物の中に収納されていた左端が「常盤神社」、真ん中の小さいのが「竜王社」、右端が「祖霊社」であった。残る真新しい祠については写真には写ってはおらず、解説板にも追加書込みはない。もしかしたら豪雨災害で崩落した区画に鎮座されていた神様をここへ移設された可能性がある。そしてこの地域にて俗称(愛称)が元々の「増」でもなく改称後の「総」でもなく「僧侶」の「僧都」である件については興味の火は未だ消えていない。