忠海町の主要道路を自動車くまなく走っていて偶然見つけた看板「耳無地蔵」。場所はアトムの路地から北東方面の幸崎町に続く道の中程である。
#00

 幸崎町と忠海町の境界へ訪れる際に右側にこの看板を見つけたので、幅広い場所に駐車して徒歩で訪れてみた。(2022/02/23撮影)
#01
 軽自動車なら坂道を下ることはできるが、その先に停めるスペースは無かったので徒歩が正解。
#02
 写真中央に見える御堂風の建物がどうやら「耳無地蔵さん」が奉られている御堂「似心堂」のようだ。
#03
 御堂の左脇には「弘法大師地蔵大菩薩之御彫刻」と彫られた石碑が奉納されていた。
#04
#05
 御堂正面へ回ってみたところ、かなり立派な造りであった。
#06
 屋内両側にはタタミ2畳程度の「こあがり」が設けられており、中央には御香を焚く箱(鉢)があった。
#07
 正面中央のくぼみに小さい地蔵さんが数体置かれていたので、御賽銭を入れて参拝した後に特別な撮影許可を頂いた・・・ような気がした。
#08
#09
 どの地蔵さんが「耳無地蔵」なのだろうか?と悩んでいると正面の巨石に彫られた地蔵さんを見つけた。
市内にある地蔵菩薩では珍しい摩崖仏(石や岩に彫られた仏)である。
#10
 「耳は無いのだろうか?」と確認するも幕に隠れて耳が見えない?そもそも耳が無いから見えるはずはない?
#11

 この時は「御利益」に関して事前知識が無かったので、御堂内の掲示物を探したのだが見当たらず。よく貼られている「オンカカビサンマエイソワカ」を唱えれば良いのだろうか?写真を数枚撮っただけで今回は良しとした。

 帰宅後に『竹原聞きある記』(著:竹原市老人クラブ連合会)を探してみたら「耳なし地蔵」の項に以下の内容が書かれていたので転記した。
----------
 この地蔵さんは忠海町の北東、幸崎町渡瀬に辻る道路下、江の内にある。
 昭和十年忠海町の商工会が配布した「忠海案内」には「昔弘法大師が諸国行脚の際御自作なり。昔此の辺り入海にして平清盛この岩に纜(ともづな)を繋ぎし際此の地蔵を奉じたり」とあるが伝承によると、当時「江の内」辺りはまだ内海で安芸守平清盛がこの地で潮待ちをし、その待つ間に傍の大岩に地蔵さんを刻んだという。ところが耳を彫らない中に潮が満ち、耳のないままで今日に至ったと。人々は「耳なし地蔵さん」と言って拝んでいる。昔から耳の病気にかかった人が、この地蔵さんの耳の部分をなでた手で自分の耳をなでて拝むと病気が治ると信じられていた。またお供えした線香の灰をのむと万病に効くともいわれていた。
 現在はこの地蔵さん両側に「さげ地蔵さん」(さげる-持ち上げる)が五、六体置かれ、お参りの人々は自分で「くちこみ」をたてて願が成就するや否やを伺っている。またこの耳なし地蔵さんの大岩には古い「かきがら」が残っており、古くはこの地が海に臨んでいたことを知る。
《註》「くちこみをたてる」とは願い事を言うこと。

----------
 
 吉名町宗越には「耳地蔵(耳鳴り地蔵)」があり、忠海町江の内には「耳無地蔵」がある。どちらも耳の病に効くとの謂れがある。耳地蔵では「耳以外」を撫でても効くのだが、耳無地蔵は「耳のみ」と思いきや、供えた線香の灰を飲めば万病に効くのであった。これを事前に知っていれば線香とライターを持参していたのに・・・。
 知らなかったのだが忠海駅舎内に解説パネルが有ったようだ。解説を読んでみたら「あれ?由来が違う」のだ。地蔵さんの名は「清水の耳なし地蔵」で「耳を彫る前に潮が満ちた」のではなく「清盛の子の安産祈願に厳島へ向かう際に石工に地蔵を彫らせていたのだが、耳を彫る前に元気な男の子が生まれたので、そのままここへ祀ったとのこと。地蔵の姿形に粗彫りするのではなく巨石の表面に姿を途中まで彫った摩崖仏。この石は船で運んでいたのを忠海に降ろしたのか、江の内のここに元からあった石なのか、黒滝山から降ろしたのか・・・色々と調べるているうちに「忠海」の地名の由来は「清盛さん」の父である「忠盛」から採られたとの話にまで発展(発散?)してしまいそうで、大河ドラマでも紹介されたようで忠海町に住まわれている方々に実際に確認してみないと分からないが、この伝説もこのまま「諸説あり」としておこう。