いよいよGW・・・なのだが・・・「ひろしま竹原観光ナビ」によると、帰郷してから毎年中止となっていた「竹まつり」がまた今年も中止とのこと。ここ竹原でも増加傾向のコロナ感染者数なのだが、その詳細や感染経路などが公表されないため、感染者の二の舞にならないようどう行動すればよいのか分からず、GW期間もうがいと使用毒とマスクをしながら人混みを避けて行動するか一日中家に籠るしかない。
 となると午前中は家に籠り、午後からは人混みの多い街並み保存地区を避け、寂れた社寺の境内や秘境を訪れるか、誰も居そうにない山の頂上や海沿いで広島FMを聴きながら「ボーッ」と過ごすことになりそうだ。
 「竹まつり」以外にも有名なイベントの中止が無いかを「ひろしま竹原観光ナビ」で探してみると、「福田の獅子舞」が目に留まったのだが、その開催場所を知ったのは今年になってからである。意外にも福田町は広く狭い路地が毛細血管のように巡っており、福田に住む知人宅を訪れる際に道に迷いながら目印の神社をやっと見付けられたのだが、その神社の鳥居を見れば「稲生社」の扁額があった。
 「福田といえば獅子舞はどこでしょ~るん?」と訊けば「そこの神社の境内でしょ~るんじゃが去年もコロナで中止じゃった。」とのことで、とりあえず鳥居と路上から境内を撮って帰ったのがこれである。(2022/04/11撮影)

 駐車スペースが見当たらなかったので変形十字路の真ん中から鳥居を撮影。
#01
 左の建物が「穀神社」で右側が「稲生社」である。
#02
 この境内にて「福田の獅子舞」が毎年10月に開催される。
#03
 
 「たけはら神仏を訪ねて」の調査によれば・・・
 開催日は10月第一日曜日。昭和52年に「福田のしし舞」として無形文化財に指定されている。江戸中期に四国伊予讃岐地方で盛んに舞われていた獅子舞をこの福田へ移入し、以来毎年10月1,2日に稲生社の祭礼にて厳かに奉納されるもの。その年に12歳になる男児が選ばれ、厳しい訓練を受けた神童の32通りに打ち分ける太鼓の舞に合わせて獅子が戯れて遊ぶ舞の姿は可憐で高雅である。

 「たけはら聞きある記」に掲載された「大乗百年史」による記事・・・(こちらが上記の元情報と思われる)
 竹原市福田町で古くから伝えられている氏神さんへの奉納の芸能で、今からおよそ250年前(江戸中期)、当時四国伊予讃岐地方で盛んに舞われていた獅子舞をこの福田村でも、その頃早魃(かんばつ)や水害などの天災や疾病などが相つぎ悩んでいた人達は、部落の荒神社(稲生神社)ゆ獅子舞を奉納し、五穀豊穣・部落繁栄を祈願したものと伝えられている。
 以来毎年10月1,2日の神社の祭礼のとき、村の若連中により一ヶ月前から代々厳しい訓練を受け継承されたもので、その年に12歳になる(当時疾病で一番多く亡くなったのが12歳であると言われている)男の子の中から選抜されて、太鼓打ちとなった子どもは非常に名誉であり、バチの持ち方、足のはらい方ひとつにも、叱声やムチが飛ぶという厳しい訓練にも耐えて、その年の祭礼の日には聖なる神童として大切にもてはやされた。
 文久3年(1893)ね新しい獅子頭を部落の長老たちが伊予へ購入に行きねその船が福田の沖へ帰り着いたとき、鐘を打ち鳴らして部落の人達みんなで港へ迎えに行ったといわれ、その頃から一層この獅子舞は盛んになったと言われている。
 昭和29年に竹原と合併し、以来福田の祭事であったこの獅子舞が広く竹原の獅子舞として紹介され、一頭の獅子と二人の太鼓打ちの構成もこの頃から倍加し、基本の型も固持しながら次第に華やかさを加えて来た。
 昭和47年に保存会を結成し、ともすれば消えようとする郷土芸能を大切に保存継承している。特に牡丹の花笠を冠った稚児姿、可憐な少年の32通りに打ち分ける太鼓に合わせて獅子がたわむれあそぶという舞姿は可憐で高雅な感じである。
 昭和52年4月24日に県無形民俗文化財に指定される。


 令和3年度においては獅子舞・巫女舞・神輿の巡業がコロナ感染予防のため中止となった。