約1年前のブログ記事にて道の駅で購入したことを紹介した『塩が育んだ文化の町  竹原 増訂版』。買ってはみたもののパラパラめくる程度で本棚に収納したままであったのだが、改めてページを開いてみればその内容の濃さは海水を煮詰めて塩にする以上に「濃い」ものであった。
 中でも竹原での製塩の歴史においては、田万里町の岡野原遺跡から奈良時代の「製塩土器」が出土、江戸時代から昭和時代までは「入浜式製塩」が盛んに行われて、昭和27年からは生産効率が高い「流下式製塩」が始まったのだが、昭和34年の第三次塩業整備によって竹原市における製塩業に終止符が打たれたことで「流下式製塩」は数年間という極めて短い期間であったことが書かれていた。悲しいことに一部の塩浜においては流下式への切替の最中にいきなり中止となったらしい。
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 そして竹原の製塩が幕を閉じた頃に行われていた「流下式製塩」を復元したのが、吉名町小泊の海沿い(東亜煉瓦跡地)に造られた「NPO法人ネットワーク竹原」による製塩所である。(2022/05/04撮影)
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 ここを訪れたのは今回で2度目であるが、その場所についてはここを運営されている佐渡泰さんに教えて頂いた経緯がある。それまでは東亜煉瓦工場の敷地内でもあり、関係者以外立ち入り禁止の看板があった(残されたまま?)ことで長らく製塩所の存在を知らなかった。

 これが「枝条架」と呼ばれる装置である。竹原の塩田では大規模な枝条架が並んでいたようだ。
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 海から流下盤(下の水色部分)に汲み上げられた海水が、ポンプによって竹製の棚(枝条架)の頂点に汲み上げられて枝伝いに流下盤へしたたり落ちる際中に、太陽光と風の力で海水の水分が蒸発。このループ工程を何度も繰り返すことで高濃度(18%)の塩分となった鹹水(かんすい)となる。
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 この水色部分が流下盤。
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 その右隣りが汲み上げポンプ装置。
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 高濃度の鹹水は奥の家屋内にある煎熬(せんごう)装置で水分が無くなるまで煮詰められ、更に脱水されて海のミネラル豊富な塩となるのである。
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 ここが鹹水を煮詰めて煎熬し、最終的に脱水機で水分を除去する作業場。ちなみに脱水機は二槽式洗濯機(古い時代)の脱水槽を利用。これが壊れてしまうと代替しにくいため1台が隅にストックされていた。我が家の倉庫にも「それ用?」にと完動品を1台保存しているので活用される日が訪れるかもしれない。
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 そしてこの場所は東亜煉瓦跡地であることから、防潮堤がレトロなレンガ製であり、これを含めた瀬戸内海の眺望は竹原市内でも屈指のスポットと言えよう。
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 この『塩が育んだ文化の町  竹原 増訂版』には、他に製塩絡みに付随する興味深い情報も満載である。
  • 1500年頃の竹原は中通辺りから南が竹原湾であった
  • その頃の竹原湾への河川は賀茂川と戸野崎川(現在の本川?)と田野浦川
  • 竹中手前の水源地がある山は「竜王山」という名称
  • 現在の「大井」は「多井」と書かれている
  • 竹原湾の島は横島、丸子山、オイトコ山とコイトコ山
  • 市内には忠海塩田、吉名塩田、築地塩田もあった
  • 賀茂川は成井川とも書かれている
  • 胡堂の鬼瓦(蕪、茄子、鶴、亀)についての解説
  • 竹鶴政孝の母の実家は竹鶴酒造の向いにある角竹邸
  • 竹原塩田浜小唄には浜小唄、はまもち歌、塩田浜小唄と浜小唄がある
  • オイトコ山の漢字表記は「大従弟山」となっていた(竹原市資料では「大糸子山」)
  • 明神の湊神社は、昔は東側を向いていた(現在は南側)
  • 埋め立てられて国道185号になる前の北堀の写真に三津橋という橋が写っている
  • 塩町の側溝には七軒堀時代の石垣が残っている
  • 掛町の本川沿いの道路下に石造りの雁木(河川階段)が埋まっている
等々・・・・