安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年02月

2020.02.09

 NHKの『にっぽん縦断こころ旅(旅人:火野正平)』へ竹原か登場した回がある。2012年夏の「エデンの海パーキング」と2017年春の「成井浄水場横の階段とそこから見下ろす竹原中学校の風景」である。竹原中学校正門前の山には長い石段のある竹原上水道成井配水池があるのだが、小学生時代に1,2度しか訪れたことがない。2015年末の帰省時に再び訪れようとしたが、タイミング悪く下の浄水場へ不審者侵入事件があって断念。浄水槽への異物投入も有り得たらが水質調査の結果異常なしだったようだ。後に不審者が確保されたかはローカルニュースなので知り得ていない。こんな最中に石段を上がる不審者に間違われるわけにはいかなかった。

 そして5年が経過した2017年春、この番組で火野正平さんが石段途中で視聴者からの便りを読んでいた。ならばとその夏に竹原上水道成井配水池へ上がってみたのである。

 石段(正確にはコンクリート製)はかなり急で、手摺りを持たないと危なかしい。途中に3ヶ所踊り場があり、1つ目は168段目、3つ目が217段目で280段目に直角に折れて残る15段を上がれば頂上へ到着する。

 小学生時代には石段などは無く、山道のみだった気もするのだがさすがに憶えてはいない。持って行ったお菓子を食べながらポンプ室前に座って竹原町を眺めていた記憶だけはある。それをもう一度体験したくて息を切らしながら辿り着いのだが、金網フェンスが張られてポンプ室前へは入れない。ならばフェンス脇を回って向こう側へと行こうとしたが、今度は竹製フェンスで先へは行けなかった。監視カメラ設置の警告板もあるのでこれ以上うろうろすると不審者となるため落胆しながら石段を下ることにした。

 読まれた視聴者エピソードには、昭和58年に入学した時の竹中野球部ではこの石段でトレーニングされていたとのこと。竹中外周5周+300段近い急な石段を5往復していたとは・・・これが運動部の現実だったのか。

 竹中時代の嫌な記憶といえば自分の代から通学カバンが帆布地のタスキ掛け型になった事。体操服が学年で色が異なる薄いジャージ(タイツ地に近い)だった事。般若そっくりの先生(後に事件を起こした)が体育祭を仕切っていた事。夏休み中に学校で火薬製造(爆発)をした生徒がいたことで全校生徒が緊急登校させられた事。新築した体育館の床がゴム張りで膝がひどく擦りむけた事。楽しかった記憶といえば、2年生時の卒業式予行演習で LET IT BE が流されビートルズを初めて知った事。その後、木原楽器店で赤いシングルを買ってからはビートル・マニアになってしまった。

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#01:石段への登り口/2015年は見上げただけ(2015/12/30撮影)

#02
#02:石段頂上へ挑戦(2017/05/03撮影)

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#03:石段頂上へ挑戦(2017/05/03撮影)

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#04:石段頂上へ挑戦(2017/05/03撮影)

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#05:ここまでが168段(2017/05/03撮影)

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#06:更に上へ(2017/05/03撮影)

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#07:ここまでが217段(2017/05/03撮影)

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#08:更に上へ(2017/05/03撮影)

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#09:振り向くと竹中校庭が見える(2017/05/03撮影)

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#10:ここまでが280段(2017/05/03撮影)

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#11:下を振り向くと入口は遥か彼方(2017/05/03撮影)

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#12:頂上まであと少し(2017/05/03撮影)

#13
#13:とうちゃこ!(2017/05/03撮影)

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#14:これが揚水ポンプ室かも(2017/05/03撮影)

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#15:立入禁止で向こうへは行けず(2017/05/03撮影)

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#16:仕方なく下る(2017/05/03撮影)

#17
#17:降りる時は急に感じる(2017/05/03撮影)

#18
#18:竹中体育館と校庭がよく見える(2017/05/03撮影)

#19
#19:少しズーム(2017/05/03撮影)

2020.02.08

 三井金属敷地の西沿いにある江戸堀には、以前よりは減ったものの多くの釣り船やクルーザーが係留されている。ここを利用する場合は有料だったか禁止だったか忘れてしまったが、湾内に長期間放置していると海上保安庁から警告されるようだ。釣り船を持っている同級生が多数いるが竹原沖で釣り三昧できて羨ましい。叶わぬ夢ではあるが船が持てたら高崎沖の阿波島へ上陸したい。だが、あの島は誰が所有しているのか、夏になると水上バイクで砂浜を訪れている若者を多く見かける。

 帰省時には江戸堀を毎回訪れているのだが、通行人に遭遇したことは10年間で2,3人という寂しい場所だ。その2,3人も係留船のメンテと犬の散歩程度の用事であった。この江戸堀で気になるものは2つ。徐々に増えている廃船の朽ち果て具合と、塩田が盛んだった頃に使用されていた釜屋の煙突である。江戸堀は塩田へ海水を導くための水路であり、塩田の鹹水(かんすい=濃くなった塩水)を釜で煮詰めて結晶化させるのが釜屋の役目であった。建物自体は既に無いが傾いた煙突だけが現在まで鉄パイプ枠で補強されながら残されている。呉線に近い場所にも折れて横たわっている煙突があった。

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#01-12:江戸堀(2019/07/25撮影)

2020.02.07

今回は目に留まった写真についてのエピソードを徒然なるままに。

帰郷後は竹原でその日に撮った写真について思うがままに書くブログとなりそうだ。
例えばこの2枚の写真ではこうなる。
#01
#01:神田ぶどう園の消失点(2015/08/10撮影)

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#02:神田ぶどう園の消失点(2019/01/02撮影)

 最近までよく見ていた(寝ているときの)夢には、乗り慣れない電車に乗ってわざわざ遠回りにどこかに辿り着くものが多かったが、このところは何も見なくなってしまった。(正確には起きた時には忘れているらしい)辿り着いた場所では必ずトイレを探しまわるがどこも使用中。さまよっている最中に目が覚めてトイレへ行く。用を足してスッキリしたら目が覚めて「なんだ夢だったのか」と気が付いてまたトイレへ。だが、もしやの寝小便はしていなかった。

 こんな奇妙な夢の見方は「多重夢」といわれているらしいが、その解説が回りくどくて読むのはやめた。「時をかける少女」の目覚めのシーンのようでもあり、電車通勤や遣り甲斐の無い仕事ばかりで疲れている時に見ることが多かったようだ。

 この辿り着く場所には色々なところが登場する。巨大な工場、どこかの駅の構内、会社の寮もよく登場した。たまに幼少の頃からよく見ている「ハチ」の干潟や、そこへ行くために通らなければならなかった「神田ぶどう園」の真っ直ぐな道も何度かある。いくら歩いても終点には辿り着けずに何れは目が覚めてしまうのである。この道の平行線が見えなくなる点を消失点(バニシングポイント)と言うのだが、トンネルの出口が見えず先が点になってしまう様子でもある。それがよくわかる写真がこの2枚で、1枚目は「ハチ」へ行く時、2枚目は「ハチ」から戻る時にみる光景だ。

 それで思い出したが「タイムトンネル」という海外ドラマには、トンネルの先が果てしないし、時をさまよったまま現在へは戻れないままで最終回となった。このドラマと並行して「チックタックのフライマン」という海外ドラマも記憶によみがえるのだが、どんなストーリーだったかまでは思いだせない。ただラムネ菓子を食べて「チックタックのフライマン」と叫びながらジャングルジムから飛び降りて遊んでいたことだけ鮮明に覚えている。何かの錠剤を飲んだら空を飛べたようだが、「タイムトンネル」の地下6000m実験場で行われた「チックタック計画」とは何の関係もなかった。

2020.02.06

町並み保存地区のガイドマップは多数作られているが、以下の2枚は竹中生徒と竹高生徒によるものである。いつ頃入手したかは憶えていないが、マップ裏側に頼山陽スタンプを押していることから、どちらも町並み保存センター内にて配布されたものであろう。作成年は書かれていないが、竹高版には頼山陽像が掛町のシバデン前、竹原警察署が現在の道の駅であることから作成時期は、その場所にあった年代であろうか。
頼山陽像が掛町から新港橋横へ移設されたのが2005年末、竹原警察署が駅前へ移転したのが2004年秋頃なので、マップが作られたのは2004年以前となるのだが、このマップと一緒に保存していたものはすべてが2011年~2014年のもので年代が一致しない。10年前の情報で両マップが作成されはしないだろうから、結局、作成時期は定まらなかった。
竹中マップには「1年生 総合的な学習 町並みマップ制作グループ」と書かれており、マップ黒色部分はコピーだが、カラー部分は手描きによる色付けである。ピンク色の用紙に複数枚コピーしたものへ1枚1枚生徒がラインマーカーで色塗りした完全手描きのもの。
竹高マップには「This guide and map was made by Hiroshima Prefectual Takehara Senior Hischool.(Frontier 21 Program)」と書かれており、用紙はツルツル光沢で透かし調の校章入り、マップ自体は手書きによるもので、説明とナンバリングは英文活字となっている。

さて、あなたはどちらのマップがお好みだろうか?

私は竹中マップだ。
建物の位置や路地が何だか怪しいが、おすすめでは絶対外したくない「普明閣からの眺め」が紹介されており、西方寺の石段部分が76段であることの正確さには驚いている。
この石段の数については「諸説」あり、石段のみでは76段、山門の石の敷居を足せば77段、敷居上の木枠を足せば78段となる。住職自身は段数を確定はしておらず、私が竹小時代にここで「チヨコレイト」「パイナツプル」「グリコ」によるじゃんけん(グリコ遊び)をしていて憶えていた石段自体は76段、山門部分を足せば78段であることから、「西方寺の石段は76段あるいは78段であることを公称値とする」ことで住職から「ならばそれで良い」と公式?に了解を得ている。
この「グリコ遊び」には欠点がある。
「チヨコレイト(チョキ)」と「パイナツプル(パー)」は6文字、「グリコ(グー)」は3文字なのだが、出した手で石段の頂上へ丁度上がるには、6または3の倍数である必要がある。76段だと割り切れないので折り返すも永遠に上がれないが、78段だと 13 と 26 で割り切れるので山門の +2 を使って 78段にしておくしかないのである。もちろん、このような理論を低学年が知るはずもなく、試行の繰り返しから 78段にしていたのであろう。

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#01:竹中生制作のガイドマップ

#02
#02:竹高生政策のガイドマップ

2020.02.05

竹原帰省時の収集品の中に「東永谷製鉄遺跡」のリーフレットを見付けた。初めて聞く竹原の遺跡(たたら製鉄)である。この遺跡が発見されたのは2002年で、場所は大井から宿根へ朝日山への登山道の途中。このリーフレットは「東永谷製鉄遺跡保存会」が作成したものである。
 遺跡の写真を見ると確かに「たたら」の構造である。平成14年に大井谷の山に転がる「鉄かす(製鉄の不純物)」が見つかり、広島大学へ調査依頼をしたところ中世のたたら製鉄跡が発見されたとの経緯が書かれている。2008年に竹原市の史跡として指定され、この遺跡は瀬戸内沿岸で初めて発見された「たたら製鉄遺跡」となった。15,6世紀のもので中国山地で盛んだった「たたら製鉄」が、小早川氏支配領域の大井谷で行われていた歴史浪漫溢れる遺跡のようだ。
#01
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#01-02:「東永谷製鉄遺跡保存会」によるリーフレット

これ以上のことは分からなかったので「東永谷製鉄遺跡」をネット検索してみたところ、何と!私の旧ホームページが上位にヒットした。何のこた~ない、2014年のGWに朝日山への登山道入口で「東永谷製鉄遺跡」と書かれた看板を発見していた。その看板がこれである。しかし、全く覚えていないとはつまらんのぉ~。これでは何も分からないが著書『平成14年竹原市で出土の「東永谷製鉄遺跡発掘概要」』が有るようなので竹原書院図書館にあるか調べてみることにしよう。この看板には「宿長谷遺跡」も書かれている。「永谷」に対して「長谷」とはややこしい。下野町「大井」が昔は「多井郷」だったのもややこしいのに・・・。この「宿長谷遺跡」とは一体何だろう。ネット検索したところ再び私の旧ホームページでの「何だこれ?」だけがヒットした。
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#03-04:「東永谷製鉄遺跡」と書かれた看板(2014/05/05撮影)

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