安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年08月

 竹小から道の駅までの田之浦川に架かる橋の中で特徴があるのが「ちくほはし」と「宗五郎橋」の二本だ。「宗五郎橋」には欄干に「そうごろうばし」と書かれた銘板があるので漢字と平仮名の両方が分かるのだが、「ちくほうはし」には漢字読みが見当たらない。橋の殆どには欄干の端4カ所に橋と川の漢字と平仮名読みがあるのだが「ちくほうはし」には他に「田之浦川」と「たのうらかわ」の3ヶ所のみ。サイドに埋め込まれた石も確認したが橋名ではなかった。(2020/08/23撮影)
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 以下は過去に撮っていた「ちくほはし」と「そうごろうばし」の写真である。どちらの橋名の謂れについてはこの辺りで暮らしている知人も知らないとのことだった。そもそも橋に名称が有った事さえ知らなかったらしい。因みに賀茂川中学校裏の「金九郎橋」は地名だそうなので、こちらも地名の可能性はある。(2011/12/30撮影)
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(2011/01/03撮影)
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(1999/01/03撮影)
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 「ちくほはし」はかなり古そうだが「そうごろうばし」は1999年当時は銘板と塗装が真新しかったので造り直されたか修繕された可能性がある。残念ながら直される前のアップは撮っていない。玉純湯(銭湯)を撮ったものや道の駅ができる前から在った橋から撮ったものには擬宝珠のある欄干が写ってはいるようだ。

(1996/10/13撮影)
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(1996/12/31撮影)
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 その「道の駅」ができる前の警察署時代に撮った橋がこれであるが、その頃から橋名は無い。橋の向こう側の路地が享保町で高いブロック塀は警察署裏のものである。軽自動車が停まっている辺りが現在のタコ焼き「天ちゃん」だ。(1996/12/31撮影)
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 港町(旧地名:北崎大石)にあるキューソー流通システム横の路地へ入ると少し先(東幼稚園跡の向い)に昭和レトロな木造総二階の建物がある。竹小や竹中の旧校舎のような懐かしさを感じる建物で、木製看板には「仲本飲料工場」と彫られていた。以前から気にはなっていたが一般住居のようだったので敢えて撮ってはいなかった。だが、この建物が「工場」であることを今回の散策で看板を見て知ったのである。10年以上前はここまで老朽化はしてはいなかった気がするのだが今更撮っても既に遅し。この「飲料」とは一体何だったのだろうか?過去に誰かから瓶に「ラムネ」を詰めていたような話を聞いたような違うような・・・。(2020/08/23撮影)
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 壁に打ち付けられたブリキに看板も解読不能な状態。フォトショの画像補正にて「交通安全宣言事業場 仲本飲料工場・・・」と一部が読める程度にしてはみたものの飲料と交通安全にどのような関連があったのか、飲料の製造と運搬も行っていたのだろうか。昭和初期の頃ならば木炭車だったのかも。
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 木製看板にも画像補正を施して彫を強調してみたところ「工場」が「ユ、場」となっており、そもそも「工場」なのかも怪しくなってきた。(追記:「ユ、場」は「工場」の崩し文字とのこと)
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 これは何とか読めるようになった。きっと「竹原地区 衛生モデル指定事業場」だろう。
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 真夏の空気が秋へと変わる予報が出ていた日曜日、パンクを修理した自転車で竹原を探索。気が付けば半袖の腕が表側だけ日焼けしていた。的場近くの「骨董屋?」まで行って帰る途中で北崎のフェリー乗り場に寄った。塩分+水分補給しながら駐車場で停泊中のフェリーを眺めていると「第七さんよう」到着か?・・とよく見れば「第五さんよう」であった。
 山陽商船の「第五さんよう」は2010年末頃から「たまゆら」のキャラクターが右舷左舷にラッピングされた「痛フェリー」として約10年間運航されてきた。私は30年以上、電子部品やジャンクを求めて秋葉原へ毎月通っていたので、「痛車」の出現・衰退・消滅を見て慣れていたせいか、竹原に帰省しても「痛フェリー」には違和感は全く感じなかったが、地元ではこの突然の出現がどのように感じられていたのてあろうか。その「第五さんよう」のラッピングがいつしか剥がされ「第七さんよう」と見分けが付け難くなっていたのである。
(2020/08/23撮影)
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 ではいつ頃に剥がされていたのか?過去に撮った写真を遡って見たら2019年正月の中に1枚だけ写っていた。(2019/01/02撮影)
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 ならばラッピングされていた「第五さんよう」を最後に撮ったのは?数千枚から探してみると2018年の正月に1枚見つけた。(2018/01/03撮影)
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 このラッピング自体も変化しており、当初のものから2倍のサイズへと貼り替えられていた。(2017/05/04撮影)
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 2倍サイズとなったのは2011年の後半だったようだ。(2011/12/31撮影)
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 そして初期サイズのものが撮れていたのは以下であった。

 2011年の夏の的場で偶然だったか突堤の向こう側を帰港中。(2011/08/14撮影)
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 「たまゆら」がテレビ版化へと進行中だった頃の2011年正月。(2011/01/02撮影)
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 そしてこれがアナログ一眼レフ撮影による最古の「第五さんよう」である。(1988/09/12撮影)
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 因みに今回元の状態に戻っていた「第五さんよう」の接岸を待っていたら背後の東屋付近に人の気配。一眼レフで写真を撮ってそそくさと徒歩で立ち去る方がいたのだが、私の他にも竹原を撮っとそうな人に合えたので少し話してみたかった。

 満潮時になると本川が逆流を始めて水位が2m程度増える。この時に水面ギリギリをゆったりと逃げもせず泳いでいる魚をよく目撃する。体長は40~60cm程度で色は黒と銀、これまでボラではないかと確信は持てなかったが、本日撮った写真とネット画像とを比べてたら何となく一致していた。潮位による水の流れに乗って本川を移動しているようなので正確には「遡上」ではないが、他にその泳ぐ様子が表現できる単語が思いつかなかったのでヨシとして欲しい。
 番屋橋から渡逢橋の区間で確認できたボラは5,6匹で何かの稚魚か雑魚?のクラスターが4つだった。近くで覗いてもボラは逃げないが、稚魚は塊のままで泳ぎ去る。そのボラを何匹か撮った写真だけだと物足りないので満潮時の本川の様子(番屋橋~大広苑裏~古庭橋~山陽橋~楠通りを抜けて渡逢橋)も含めておいた。満潮時の川面は灰色に濁っていた汚水垂れ流しの時期もあったが、昭和時代は川底みで見える時期もあった。平成から現在まではこの程度の低透明度で苔色の日が多いようだ。(2020/08/23撮影)
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 住吉橋から扇橋の区間でも満潮時にボラをよく見かけるが川面が遠くなるので撮りづらい。最近では道の駅敷地を貫いている田之浦川にも巨大なボラが多数出没。昨年、外国人観光客の団体が珍しそうに指をさして何やら奇声を上げていたのを思い出した。現在、ボラは臭くて食べられないとの不人気らしいのだが、的場西海水浴場の正式名「ぼら網」では昭和時代ではボラが大漁だったことを親から聞いた事がある。本川を泳ぐボラの刺身は下水と浄化槽の臭いがしそうでイヤだが、きれいな海で釣れているボラなら食べてみたい。

 このところの暑さのせいで写真を撮りに出掛けることが少なく、ブログ記事ねたの蔵出し状態となってしまった。竹原での暮らしは半年が過ぎたが長らく放置状態だった倉庫のゴミを汗だくで毎週整理。安芸津と吉名の処理場が今年か今年度で閉鎖となり、その後は三永にできる処理場への持ち込みになるらしく、猛暑の最中に重い腰が上がったのである。自転車もパンクが直り、土日から秋の空気に変るらしいので出かけてみようと思う。だが、30分もかけて解説した割には外れて次回に謝る天気予報士、手造り手描きのアナログツールによる臭い演出、天気と無関係のマスコットと並んてみたり、天気予報士の試験にしか用が無い詳細な解説等どうでも良いものばかりで、本当に秋の空気に変わるのか不信たっぷり。天気予報はヤンマーディーゼルの「ヤン坊マー坊天気予報」みたいなもので良い。そこまで凝るのなら三択にしたり、東大王とクイズ芸人で気象予報を競ってみても面白そうだ。

 さて、少し前に地蔵町辺りの記事を書いたが、なぜ地蔵町と呼ばれていたのかは未だ分かっていない。この辺りに住んでいる人に聞いても「地蔵堂があるからかも?」程度の応えばかりである。その地蔵町という地名は本町となって廃止されが、現在も掛町同様に地蔵町で話が通じている。その地蔵堂の境内に久しぶりに入ってみた。(2020/08/02撮影)

 10年程度前に地蔵堂で一番写真に撮られた回数が多いのがこの手前の門柱であろうか。図書館で借りた「たけはらの神仏を訪ねて」によると正式名は「田浦山 地蔵院六済寺」となっている。
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 町並み保存地区が観光化されて見所ポイントに造られたのがこのタイルに印刷された説明碑である。地蔵堂と境内の石碑についての解説が詳細に書かれているが、私が注目したのは「地蔵町4457」である。旧番地なのか市の管理番号なのかは不明だが「地蔵町」という地名の痕跡がここにも残っている。保存地区の地図にも「至地蔵町」がある。だが「至る」ということは、ここは地蔵町の手前ということでエリア外となる矛盾が起こるのだが・・。
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 境内の中に石碑や御地蔵様が多数ある。上解説碑に解説されていたのだが、今回は全文章を撮り忘れたようだ。
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 そもそも地蔵堂といわれるからにはご本尊は御地蔵様であろう。「神仏を・・・」ではご本尊は金剛石・地蔵菩薩とあり、ダイヤモンドの御地蔵様が祀られていることになる。今思えば格子の中を覗いてみればよかったのだが、以前に覗いた時はよく見えなかった。地蔵堂裏の一番奥の地蔵様が「抱地蔵」で、他地区にも多数ある「お抱え地蔵尊」のひとつである。
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