安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年04月

 芸陽バス中通車庫隣りの鉄工所(瀧川鉄工所)の道路沿いにそびえ立っていたTOYOタイヤの看板、久しく見なくなっていたので何処かへ撤去されたと思っていたのだが、最近になって地面に横たわっていることが分かった。今回は賀茂櫻酒造の在りし場所を探索に行く途中に立ち寄ってその様子を写真に収めて置いた。(2021/04/20撮影)

 鉄工所の出入口左側(芸陽バス停側)に平成時代まで巨大なタイヤが立てられていた。
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 近寄って覗くとタイヤがスッポリとハメられていた土台は無くなっており、タイヤのみ真横に横たわっていた。土台に見えていた金属製箱状のものは鉄屑入れのようであった。
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 しかし、ここはタイヤ関係、それも特殊車両に使われる巨大タイヤの看板がなぜ鉄工所にて居られていたのだろうか?看板以外の何物でもないと思うのだが、事業所の文字看板やタイヤ自体に名称が書かれている訳でもない。単にタイヤメーカーの「TOYO」があるだけであった。

 それでは在りし日の巨大タイヤ看板の写真を過去にさかのぼって掲載してみる。

(2015/12/31撮影)
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(2012/12/31撮影)
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(2012/01/02撮影)
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(2010/01/01撮影)
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(2003/12撮影)
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(1999/05/08撮影)
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(1999/05/01撮影)
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 この後、賀茂川沿いの東野町を訪れてみたのだが、賀茂櫻酒造らしき痕跡は見つけられなかった。戻ってから竹原書院図書館で「芸南新聞」の縮小版を閲覧したところ以下の酒造が存在している(いた)ことが分かった。(閲覧ヒントは、小僧さんからのコメント・アドバイス)

大正時代からのものから昭和33年(竹原市制元年)の芸南新聞に掲載されていた広告から探してみた。
新聞の大見出しも見ていると、合併寸前で忠海町が悩んでいた頃でもあった。

・中尾醸造株式会社(広島県竹原町):誠鏡
・賀茂櫻酒造株式会社(広島県竹原町東野):賀茂櫻(カモザクラ)
・佐倉井酒造株式会社(広島県竹原町):本福(ホンプク)
・池田酒造株式会社(広島県竹原町):豊田鶴(トヨタツル)
・前田酒造株式会社(広島県竹原町):山陽の光(サンヨウノヒカリ)
・豊田酒造有限会社(広島県竹原町):春の友(ハルノトモ)
・竹鶴酒造株式会社(広島県竹原町):竹鶴(タケツル)
・藤井酒造株式会社(広島県竹原町):宝壽、龍勢(リウセイ)
・関西酒造会社醸(広島県竹原町):関西長

※()内の住所は広告欄記載のものである。
※安芸津町、安浦町、木の江町の酒造については割愛する。
※北崎の東幼稚園奥にあった竹中酒造場の広告は見当たらなかった。

なお、竹原の貴重な最高位の情報源と言える芸南新聞(縮小版)は禁帯出なので借りられなかった。私の旧HP作成活動が掲載されたことがある「タウントーク誌」も所蔵がありそうなので、当分の間は図書館へ通うこになりそうだ。

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 道の駅にある「正一位玉福神社」手前のスロープに「町並み保存地区への順路」案内板が追加されていた。散策途中で何度か立ち寄ってはいたが、この設置工事には気が付かなかった。案内板と支柱のメッキが真新しいことから工事は昨年度中には行われていたようである。(2021/03/30撮影)
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 この案内板は、竹原市内では未だ見たことが無い斬新なデザインの「鳥瞰図(ちょうかんず:上空から斜めに見下ろした地図)」でありながら、大和絵や絵巻などによく描かれている「すやり霞 (すやりがすみ:横長の雲)」に笹の葉をあしらったものである。また、これまでの観光ガイドに有りがちだった中国語とハングルが書かれていないのも興味深い。
 ではなぜここに設置されたのかだが、駐車場から橋を渡ってスロープを上る際に目に付くのと、そのまま神社横から路地を抜けて県道75号を横断して保存地区方面へ向かう人に「横断禁止」を促すためであろう。まぁ、ここに横断歩道を設けるのがベストではあるのだが、信号待ちの車間の陰を歩行者が出入りするのは逆に危険である。
 この赤ラインに沿って行くと村上ベーカリー手前に案内柱が有ったかは憶えていないが、曲がり角の地面に丸い道標が埋め込まれているので迷うことはないだろう。保存地区エリアへは、曲がり角を右折すると笠井邸から始まりとなり、堂面薬局方面へ向かうと坂田時計店から右折してニッポニアホテル辺りからとなる。そこも曲がらずに迷い始めると、エリア外の楠通りや新町・榎町へも入り込んでしまうのだが、またそれも良し。
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 石畳が敷かれた場所全てが保存地区エリア内ではないが、石畳から反れずに散策すれば観光客にとっては「タイムスリップ」感を十分に味わうことができるに違いない。これを撮った時には見落としていたが、この案内板の右横をよく見ると「観光スポット」枠内の5選それぞれにQRコードが描かれていることが分かった。また、「西方寺・普明閣」の英語表記が最近では「Saihouji Temple・Kannon Hall」であることも知ることができた。
 なお、地図の最上部から外れている胡堂と照蓮寺も保存地区のエリア内なのだが、あのCMの「安芸の小京都」と小さく書かれた観光パンフの映像からロケ地の竹原を探し出し、「手裏剣」の場所を聞きまわる人も未だいるようなので、これらが描かれていなかったのが個人的には惜しいところではある。まあ、この案内板の主目的は「横断禁止」なので致し方ない。 続きを読む

 昨日のブログ記事で紹介した「たけはらの神仏を訪ねて」の出番である。以前の記事で触れた「てつや河」の石標横に地蔵尊があることから、さっそく本書の竹原地区章を捲ってゆくとP34に「鉄矢橋 地蔵」が載っていた。俗称は「てつやばし・石標」で、所在地は鉄矢橋屋敷地内で元料理店「うきよ亭」の前、昔は商店が多く賑やかで人通りもあり事故防止の地蔵菩薩と解説されていた。
 これにより、「てつやばし」とは「鉄矢橋屋敷」に由来した名であることが判明。また、私が99年当時に何かの資料で調べて書いた旧HP記事「0395 #6 てつや河とは?」の・・・・
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 この「てつや」とは「徹夜」ではなく「鉄屋」のことである。 昔、このあたりは町工場の数が多く、板金を打ち抜いたり、鋳型に鉄を流し込んで機械や器具を製造していたことから、通称「てつやまち」と呼ばれていたらしい。 現在もその名残を残す町工場が残っており、鉄くずが錆びた水が路上のコンクリに染み込んで茶色になっているところがある。 橋の名前はわからないが、無難なところで「てつや橋」といったところであろう。
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・・・とは相違があることから、お馴染みの昭和55年の市街地図を確認してみると、元料理店「うきよ亭」は「きよ常食堂」になっており、由来の鉄矢橋屋敷は既に無くなっていた。また、この付近に前田鉄工や橋本鉄工があり、「鉄屋」との関係も何かありそうである。

 ということで「てつや河」という名称が正しいかは確定できていないが、内港へ流れ出る入江に架かる橋が「てつや橋」であったことは間違いなさそうだ。

 少し前に河川に架かる橋の欄干に「てつやばし」と書かれたものが無いか探してみたのだが、以下の写真で分かるよう「橋」というレベルの物は無かった。(2021/04/11撮影)

 河川が黒浜側から直角に曲がっている場所が「橋」になってはいるが、欄干ではなくガードパイプのみ。大石地区の危険区域地図もこの通り色褪せて参考にはならなかった。
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 ここで新たな発見、この「橋」の曲がり角にある「竹中酒店」。酒店にしては家屋が奥へと巨大すぎる。前述の市街地図を確認すると「竹中酒造場」と書かれており、どうやらここにも醸造所が有ったようである。
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 直下機に曲がって突き当りが「てつや橋」で、内港側へと川沿いを進んでみる。
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 河川途中の中程へ東幼稚園側から合流しているのが、以前に書いた「楠谷川」である。
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 中程から振り向くとこんな感じ。
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 内港側はこんな感じ。鉄矢橋屋敷跡に「うきよ亭」となり、後に「きよ常食堂」だった場所はポンプ設備になっている。
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 そしてこれが「てつや河」?と彫られている石標と地蔵尊である。
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 この石標だが、裏面を覗くと元々は橋の欄干の柱であったことが分かる。旧道が国道化され桟道になったことで、「てつや橋」が撤去され、その名残りとして欄干の一部が地蔵尊と一緒にここへ残されたのであろう。
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 さて、気になるのが「鉄屋」ではなかった「鉄矢」や「鉄矢橋屋敷」なのだが、どうやっても「金八先生」しか出てこないネット検索では探せなさそうだ。

 本ブログ記事にて度々登場する『たけはらの神仏を訪ねて』(著者:神野 勝)を、ヒョンなことから著者の知り合いの方から実物を借りることができたのである。この著書に初めて出逢えたのは、新町の「日の丸写真館」隣りにある「Cafe & Restaurant HINOMARU」の本棚であったが、店主に入手先を尋ねると頂き物で自費出版による非売品とのことで、帰省時に時々ここへ立ち寄っては読むしか手がなかった。後に竹原市立書院図書館で借りられることが分かり、散策時に訪れた神社仏閣や地蔵尊の諸元?と謂れを知るための貴重な情報源になっている。
 その「ヒョンなこと」とは、家内が知人との食事で「たけはら そば處 手打ち かんの」を訪れた際に『塩が育んだ文化の町  竹原 増訂版』(発行:竹原郷土文化研究会)という本が販売品として置かれているとの連絡があり、未入手本だったことから購入を頼んでおいた。その後、買って帰ったその本と一緒にトートバッグから「ドーン・・・」と出てきたのが、なんと!!あの『たけはらの神仏を訪ねて』なのであった。
 確かこれは非売品だったハズ。家内にワケを訊いたところ、その本の隣りに見覚えのある『たけはらの神仏を訪ねて』が置かれており、店主へ在庫があるかを確認したところ、店のご主人が著者で自費出版で発行した全500冊をすべてを知人へ配られたとのこと。もう残りはないのだが、手持ちの一冊を貸して頂けるとのことで、有難いことに1年でも2年でもじっくりと読んでほしいと仰っしゃっていたと聞く。

 もうお分かりの通り、本著書の著者「神野 勝」さんの読みは、これまで勝手に「かみの」さんだと決めつけていたが、保存地区にある「たけはら そば處 手打ち かんの」の「かんの」さんだったのである。

 その本がこれ。(2021/04/16に借りる)
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 訊いた経緯では実質無期限の貸し出しのようなので、私自身が「たけはら そば處 手打ち かんの」を訪れて、しばらくお借りする御礼と著書の撮影や編集の御苦労などをお聞きしたいのだが、いかんせん蕎麦アレルギーなので食事自体が難しい。家内と知人が定期的に店へ食事に訪れているようなので、その際に本件をまかせることとしよう。
  
 そして今回購入した本『塩が育んだ文化の町  竹原 増訂版』がこれである。
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 これは道の駅で売られていたのを憶えているのだが、呑み比べの3銘柄セットを買っただけで、これは買わなくても図書館で借りられるのではと買わず仕舞いになっていた。だが、これまで図書館では本書を見た憶えがない。本書は「竹原の塩田」に特化した極詳細の内容と写真が掲載されており、これを読まずして「竹原の歴史」は語れない程の貴重な情報源といえよう。

 この『たけはらの神仏を訪ねて』と『塩が育んだ文化の町  竹原 増訂版』の2冊によって、本ブログ記事は更にディープな写真掲載と内容も書けそうである。

 国道185号の呉線沿いを走っていると「津波避難区間ここ・・」の標識が所々の架線柱に取り付けられていることが分かった。標識の向きから運転台の運転手や車掌が走行時に確認するものと思われるが、道路上からも見えるので津波の危険区間を自分も走っていることを強く意識してしまう。
 私が定年退職前の在職中は、東日本大震災で津波被害に遇った地域の消防設備や防災設備の設計と現地調整で何度も出張滞在していたことから、津波関連の看板にはとても敏感なのである。
 関東に住んでいた頃は、深度3程度の地震は日常茶飯事であり、いちいちテレビに速報が流されることでこの程度の地震には鈍感になってしまっていた。塩町で「ここは海抜-0.25m」の看板を見つけた時にも「この辺りは海より低いのか・・」ぐらいにしか感じていなかっのだが、この「津波避難区間ここ・・」を見つけたことで「南海トラフ巨大地震」の津波が竹原にも押し寄せることを強く知らしめられた。

 その「津波避難区間ここ・・」の標識設置の一例がこれである。場所は黒浜踏切の東側であり、「津波避難区間ここまで」が架線柱の運転台高に取り付けられている。(2021/04/05撮影)
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 この標識についてはJR西日本の「自然災害に対する安全対策」の「津波対策」にて概要が解説されており、線区の自治体が作成した津波ハザードマップを基に浸水予想エリアとなる箇所に「浸水区間起点・終点標」を設置しているとのこと。そこで竹原市の津波ハザードマップ(PDF形式)を確認すると、大井から黒浜、高崎町と忠海の海沿いが浸水想定エリアであることが分かった。その内、線路沿いの国道からこの標識が見える場所があるようだ。
 ちなみに竹原市の津波ハザードマップでは、塩町や大井新開と高崎町が3~4m未満の想定浸水であり、一般住宅ならば2階屋根までとなるのだが、洪水時の徐々に増す穏やかな浸水なのか、大震災の津波のようなブルドーザ級の力で押されるような破壊波の高さを想定しているのかまでは読み取れなかった。
 このJRの「浸水区間起点・終点標」のデザインが「津波」をイメージしていることから、石巻や女川での広大な瓦礫地帯や見上げるような高さに残っている壁面の浸水跡、地上に横たわる漁船などを実際に目にした私には後者の破壊的な浸水を想定してしまう。
 瀬戸内海による緩衝と遅延時間があることから警報発令から避難完了までに余裕があり、小高い山も近くにあるのが救いではあるのだが、ひとり暮らしの高齢化が進む町なので安全な場所までの避難方法が大きな課題であろう。関東のテレビ番組で耳を疑った「避難方法については、インターネットやスマホのアプリを利用して下さい。」は経験上まったく通用しない。

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