榎町の最北端から交差点を跨いだ本川沿いに古くからある「神谷ガレージ」。昔は地蔵湯という銭湯の川向いで、現在は民家となった住田綿工場(布団わた打ち)の隣りである。このガレージ前の道は私の竹中時代の通学路であり、現在は朝夕の通勤路でもある。これまでの帰省時や現在、ここを通る度にガレージ扉の取替や塗装の塗り直し、ガレージ周辺が徐々に変わって行く様子を時々意識して見てきたが、改めて過去の写真を並べて見るとガレージ自体も変化していることが分かった。
これが最近の状態である。車庫の番号は1~12だが、よく見れば忌み数の4と9がない。また、写真では欠けているが終端の13番目は番号の無いシャッター型扉になっている。(2021/05/04撮影)
最古の写真では、画質が荒く電柱で隠れて4の有無は分からないが5~17になっており、忌み数の9、14が無いようだ。また、並んだ扉には「車 庫 前 に付 駐 車 禁止」と書かれている。(1997/04/30撮影)
これはガレージ手前に在った住田綿工場である。通学していた頃の建物は木造で布団の綿を打つ機械が「パタ・パタ・・」と動いている様子も見ていた。スレートになってからは綿を打つ音は聞いた記憶が無い。(2003/08/10撮影)
2003年までの写真では遠くて分かり辛かったが、ガレージ扉の色や忌み数が無いのと扉は現在と同幅の3枚パネルで構成されていることがわかる。だが、17番まであった車庫が現在では12番と番号無し13番目で終わっていることから、15~17の車庫は後にガレージ横にできた「古庭橋」の登坂路と側道の建設によって削られてしまったようである。古い航空写真と現在の写真地図にてガレージ幅を比べると1~3の幅に対して明らかに短くなっていることが分かる。(2010/04/30撮影)
これは「古庭橋」の建設中時に撮ったものである。なぜか扉番号が13、2、16、無しとなっているが、この時点では17まで在ったようである。(2013/01/01撮影)
まとめれば以下となる。
|| [ 1] → [ 1]
|| [ 2] → [ 2]
|| [ 3] → [ 3]
||[ 5] → [ 5]
||[ 6] → [ 6]
||[ 7] → [ 7]
||[ 8] → [ 8]
||[10] → [10]
||[11] → [11]
||[12] → [12]
||[13] → 番号無しシャッター車庫
||[15] → 解体(古庭橋側道)
||[16] → 解体(古庭橋登坂路)
||[17] → 解体(古庭橋登坂路)
これも「変わらないようで変わっている竹原の『時からのメッセージ』の景観」のひとつである。
これが最近の状態である。車庫の番号は1~12だが、よく見れば忌み数の4と9がない。また、写真では欠けているが終端の13番目は番号の無いシャッター型扉になっている。(2021/05/04撮影)
最古の写真では、画質が荒く電柱で隠れて4の有無は分からないが5~17になっており、忌み数の9、14が無いようだ。また、並んだ扉には「車 庫 前 に付 駐 車 禁止」と書かれている。(1997/04/30撮影)
これはガレージ手前に在った住田綿工場である。通学していた頃の建物は木造で布団の綿を打つ機械が「パタ・パタ・・」と動いている様子も見ていた。スレートになってからは綿を打つ音は聞いた記憶が無い。(2003/08/10撮影)
2003年までの写真では遠くて分かり辛かったが、ガレージ扉の色や忌み数が無いのと扉は現在と同幅の3枚パネルで構成されていることがわかる。だが、17番まであった車庫が現在では12番と番号無し13番目で終わっていることから、15~17の車庫は後にガレージ横にできた「古庭橋」の登坂路と側道の建設によって削られてしまったようである。古い航空写真と現在の写真地図にてガレージ幅を比べると1~3の幅に対して明らかに短くなっていることが分かる。(2010/04/30撮影)
これは「古庭橋」の建設中時に撮ったものである。なぜか扉番号が13、2、16、無しとなっているが、この時点では17まで在ったようである。(2013/01/01撮影)
まとめれば以下となる。
|| [ 1] → [ 1]
|| [ 2] → [ 2]
|| [ 3] → [ 3]
||[ 5] → [ 5]
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||[13] → 番号無しシャッター車庫
||[15] → 解体(古庭橋側道)
||[16] → 解体(古庭橋登坂路)
||[17] → 解体(古庭橋登坂路)
これも「変わらないようで変わっている竹原の『時からのメッセージ』の景観」のひとつである。