安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年07月

 豪雨災害から約2週間が経過した。あれから竹原市内の至る所で公共工事が行われている。陥没して大穴が開いた舗装道路の仮埋め、河川に50cm以上も積もった砂や石の除去、激流で削がれた川沿い道路の修理など、やっと修復された頃に再び同じ個所が被害に遇う繰り返しのように感じている。
 これまでの帰省の度に「またか・・」と感じていたのが、楠通と榎町に挟まれた本川の護岸修復工事である。3年前の豪雨災害によって欠落していた護岸の完全修復を終えたのが昨年の春過ぎ。今回の豪雨ではそのすぐ隣りの護岸が欠落して民家の庭がごっそり河川内に崩れ落ちた状態となり、数日後には巨大土嚢を積み並べた緊急修理が施されていた。(2021/07/18撮影)

 新町と楠通りの境界に架かる渡逢橋から見た護岸修理の状態。
#01
#02
 ひとつ上流の山陽橋からも土嚢が積まれた護岸の幅広さがわかる。
#03
#04

 前回の修復工事(2度目)が行われていた時の状態(2020/03/24撮影)
#05_20200324
 本川を堰止めての大規模な護岸修復工事だった。
#06_20200324

 3年前の豪雨災害による護岸修復(1度目)を終えた後。(2019/10/17撮影)
#07_20191017

 3年前の豪雨災害より前の状態。(2017/08/11撮影)
#09_20170811

 土嚢が積まれた護岸場所は、再び重機が入れられて修復工事が行われるであろうが、日に2度起こる満潮時には2m程度水かさが増すので長期に渡る再工事となるであろう。洪水ハザードマップに浸水区域の濃い色付けがされた中心に走るのがこの本川である。これからは台風が何度も直撃することも十分考えられるが、大潮による冠水予防の巨大水門設備やボトルネック箇所に詰まる川底のクレソン剥ぎ取りだけでは足らず、更なる大規模な治水対策が望まれる。

 的場海水浴場が先週土曜日にOPEN。本日は日焼けを覚悟で「夏の的場」にて昼間を過ごすことにした。・・とは言え炎天下の砂浜では熱中症(昔で言えば日射病?熱射病?)に成りかねないので、海岸での食事後は西海水浴場へ通じる道の木陰に折り畳み移動。大好物のチョコアイスモナカを食べながら、大崎までを往来しているフェリーや遥か沖の契島などを望遠レンズで撮っていた。(2021/07/20撮影)
#01
 契島へ向かった「とうほう」が接岸した頃に島にある工場建屋の異変に気が付いた。手前に見えていた工場建屋がゆっくりと左側へ移動しているように見えるのである。
#02
 これは・・・工場建屋ではない。スレートで造られた町工場のような船舶が水しぶきをあげながら三原方面へと移動しているのだ。まるで契島の「擬態」である。
#03
#04
 これは本ブログの読者から参考情報を頂いていた瀬戸内海を遊覧している豪華客船「ガンツウ」に違いない。コロナ禍が落ち着いて航行が再開されたら、「エデンの海P」辺りから多々羅大橋をバックに瀬戸内海を遊覧する「ガンツウ」を撮りに行く予定であったが、本日、幸運にも的場にて初めてその実物を目撃することができた。どうやら6月23日に再開していたようである。「ガンツウ」の標準航路を確認したが、この辺りのルートである中央航路では契島前は通らないはずなのだが・・・。
 実物を始めて見た感想だが、・・・悪いが、個人的にはこの「ガンツウ」は船舶名自体も含めて豪華客船のイメージが全く感じられない。因みに「ガンツウ」は瀬戸内海に生息する「イジガニ」から名付けられたとのことであるが、私は本川などの石垣に生息する赤い「ベンケイガニ」を「ガンツー」と呼んでいた。(赤くないのは「クソベンケイ」)

 そしてこれは生野島手前を航行中の「町工場」の様子であるが、どう見ても海岸沿いに建てられた工場建屋にしか見えない。
#06
 望遠レンズで撮って見ると尚更である。
#05
#08

 これならば「船」に見えるであろうか。「ガンツウ」の手前を竹原港へ航行中のフェリーは「ないすおおさき」である。
#07

 今になって思い出したが、航行中の船の諸情報が分るアプリ「Marine Traffic」を使うのをすっかり忘れていた。

 本日、竹原市から届いた「JR呉線三原駅~竹原駅間の試運転について」のメールで、7月8日豪雨災害による復旧作業で不通となっていた状態が現在まで続いていたことを知った。そのメール内容は、災害復旧工事が終って、明日20日に不通だった区間で点検列車による試運転が行われるで、不通区間の線路内には立ち入らないようにとのことであった。

 これまでも呉線が大雨の度に遅延運休となることはよくあったが、本日も竹原駅~広方面の電車が時間通りに走っていたことから、とっくの昔?に全区間復旧しているものと思っていた。
 不通の原因になった災害発生場所が大乗辺りということは知っていたが、NHKニュース・サイトの記事を読んでその場所が「東川」だと分かった。災害場所と復旧工事の様子は国道185号からもよく見え、河川両側沿いの道路が崩れ落ちてしまっていた。この川は天井川となっており、川の下を呉線が走っている場所が少し先にある。

 災害場所の写真は撮っていないが、これは自転車で竹原から長浜まで散策した際に撮った東川である。(2021/02/11撮影)
#06
 こげ茶色の橋が国道185号で左が大乗、右が安芸長浜方面。現在は橋向こうの東川側道(両側)出入口が通行止めになっており、先へは大乗方面から裏道?を迂回するしかない状態である。災害箇所は白い2階建の住宅辺りの法面が崩れて道路が欠落していた。呉線は住宅から更に先の樹が立っている辺りの川底下を交差しており、呉線近くの法面も崩れていたのであろうか。
#07

 最近、竹原駅に「JR西日本」の幟が立てられており、代行バスらしき車両が停まっているのを時おり見掛けるのだが、そのバスは青と代行として使われる白地にツバメが描かれた「JRバス」ではなく、見たことが無い「中国バス」ばかりである。(2021/07/18撮影)
#01
 これが代行バスと思われる「中国バス」である。
#02
#03
#04
#05
 これも代行バスなのであろうか?芸陽バス停からではなく竹原駅ロータリーから出てきたのだが・・・。「BINGO STAR」と書かれた観光バス風だったが、「6」と「竹原駅行き」の札があることからその可能性はある。しかし、遥か彼方の岡山県から代行用にチャーターされるものだろうか。
#08
#09
 
 竹原町内の至る所に災害ごみの山。床上浸水した家屋の前には積まれた畳や家具なども置かれているのを見掛けるのだが、的場海水浴場が先週土曜日にオープンし、本日は真夏のような蒸し暑さ。この極端な天候の移り変わりでは、これから台風や竜巻が次々に発生するであろう。7月21日(水)から呉線が運転再開することから、明日で「JR西日本」の幟や代行バスは見納めとなるが、再び代行バスが必要となるような大災害が起こらないことを住吉神社の神様にお願いしたい。だか、今年の住吉まつりは中止夏祭り花火大会も中止、中止にならなかった「おうちオリパラ」がうらめしい。

 豪雨災害の後片付け中、近隣の方との談話中に「小早川神社で鉄砲が出たらしいで・・」と聞いた。その後に知人や友人からも同様の話を聞いたのだが、最近になって工事現場の土壌がブルーシートで覆われたことは何度も見ているが「鉄砲」までは知らなかった。複数の話を列記すると・・・
  • 小早川神社(和賀神社)裏の工事現場から鉄砲が見つかった・・らしい
  • 小早川隆景の鉄砲・・らしい
  • 拳銃やライフルではなく火縄銃・・らしい
  • あそこの工事が進まないのは発掘調査をしているから・・らしい
  • 「三本の矢」が「三本の鉄砲」だったら歴史が変わっていたかも・・な
・・と、だいたいこのようなオチで四方山話は完結する。

 その工事現場とは、過去のブログ記事「砂原橋架設工事」の小早川神社後ろ側から賀茂川に架かる橋への新道カーブとなるポイントである。週に1,2度はこの横の国道432号を通っているが、最近になってテントが張られたり、土壌の大半がブルーシートで覆われた状態になっている。

 新庄交差点側から小早川神社BSを過ぎた辺りから工事現場が見え始める。(2021/07/17撮影)
#01
 最近になって、この段差から南側部分の全体がブルーシートで覆われた。コンクリートが流し込まれて固まるまでの雨除けかと思っていたが、国道432号を跨ぐ高架道路になるにしては橋脚部分の基礎だけの保護で良いはず。1段上にはプレハブ事務所ではなくテント(タープ?)が張られていたのも少し変と言えば変かも。(撮った写真にはテントは写ってはいない)
#02
#03

 なぜか Wikipedia では「小早川神社」の詳細記述はされていなかった。「安芸の小京都」(昭和62年発行/ブレーン企画)の解説によると以下の説明がある。
--------
「和賀神社」
小早川神社とも呼ばれ小早川隆景を祀る。
慶長2年(1597)、隆景が三原で没した翌3年、新庄、東野、西野、仁賀及び下野の人々が木村城跡に若宮社を建て隆景を祀った。明治に木村城址にあった若宮社を現在地の城ノ本に移し、明治23年に県社になっていた。大鳥居の「和賀神社」の文字は有栖川宮熾仁親王の筆によると言われている。
--------
 今になって分かったのだが、和賀神社の20m後ろにある拝殿が小早川神社であり、厳密には小早川神社は和賀神社の「またの名」では無かったようだ。3年前の豪雨以前から拝殿辺りの山肌が何度も崩れたままだが、小早川神社が無事なのかが国道からは鬱蒼として分からないし、一度境内を訪れた時に感じたあの威圧感からは再度近寄りたくはない。もしかしたら、ブルーシートで覆われた区画は工事現場ではなく、発掘現場なのかもしれない。

 WEBニュースや Twitter を検索するも「鉄砲(火縄銃)」については全く見つからず。私は単に「3年前に崩れた小早川神社の山肌は大丈夫だろうか?」の話に「そうそう、あそこの工事で鉄砲が出たらしいで・・・」との受け応えは一体どこから仕入れた「ネタ(ソース)」なのだろうか?
 ちなみに毛利元就の時代には火縄銃が既に使用されていたようなので、あの辺りに鉄砲が埋まっていても不思議ではない。まぁ、「三本の矢」のエピソード自体は作り話で、後ちの歴史作家?が中国の諺をモチーフにしたとのことを最近の歴史番組で見たばかりである。さて、「鉄砲が出た・・」の真相は如何に?

 手持ちの昭和55年(1980年)当時の竹原町市街地図から商業施設のみを現在の地図上へ書き写してみた。(一般住宅も載っていたため)
 続いて「あいふる通り」のシオタ~モード大岡~日本橋通り~本川郵便局~シオタの区画を作成したものを掲載。(2021/07/17作成)

 地図をクリックして拡大により参照。
#01


次回は「あいふる通り」のイマイチ~松田酒店~中島医院~出雲神社~西藤プラモデルを囲む区画を作成予定。

↑このページのトップヘ