安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2022年01月

 昨年秋から年末まで、平日でも多くの観光客で賑わって雰囲気が明るくなっていた町並み保存地区。第6波の「まん延防止等重点措置実施区域」に竹原市が指定されてからは、各施設や店舗には「1月11日~31日まで」の臨時休業や閉館の貼り紙が貼られ、再び閑散とした寂しくなってしまった。
 そんな中、竹鶴酒造に新酒が出来たことを告げる緑色の杉玉が2つ吊るされており、酒蔵の辺りでは新酒が搬出されているのか慌ただしく台車が移動していた。(2022/01/11撮影)

 時おり、みぞれが舞う灰色の寒空の町並みに、明るく目立つ緑色の杉玉を見つけた。竹鶴酒造では新酒を搾る時期が年明け直後なのか、真新しい杉玉が見られたのは帰郷後では初めてである。
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 写真でみるより実物は大きい!
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  軒下にはもうひとつ杉玉が吊るされていた。
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 玄関に新酒についての掲示物が無いかを確認し忘れたが・・・・
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 写真を拡大してみると玄関扉に「純米酒 酒粕あります」の貼り紙があった。私の大好きな酒粕がある!それも搾り立ての酒粕だ。「まん延防止」で閉まってないことを祈り、早めにを買いに行くことにしよう。

 場所は小早川神社沿いの賀茂川、昨年8月のブログ記事「砂原橋架設工事 その2(架設完了?)」の続きである。この工期中に橋の東詰めにつながるバイパス道路建設敷地内にて「城ノ本遺跡発掘調査」があったせいか、橋架設工事の外観からは殆ど変化が見られなかったが、久しぶりに近くの駐車帯?を訪れてみたら橋桁に真新しい欄干が取り付けられていた。(2022/01/10撮影)

 工事区画手前から橋桁を眺める。これまでは工事柵と足場が橋桁沿いに組まれていたが、今回は完全撤去されていた。(拡大すると反対側にも同様の欄干が見えた)
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 橋桁の東詰。
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 橋桁の真ん中。
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 橋桁の西詰。
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 右の更地(発掘現場跡)から国道432号を跨いで橋桁東端に接続する新道路が建造されつつある。
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 その道路はこの橋を渡って賀茂川を越え・・・
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 田畑を貫きながら東洋コルク裏を抜けて大福地橋の西詰に接続予定てある。この写真では見辛いが土塁のような盛り土が向の山辺りまで延びている。これが工事車両用の仮設道路なのか新道路のルートなのかは分からなかった。
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 本工事名は「国道432号(竹原バイパス)道路改良工事((仮称)砂原橋PC上部工)その2」で、工期は令和4年3月31日までの予定となっている。令和4年4月からは砂原橋自体の工事が「その3」として継続されるのか、令和3年度で完了となるのか。田畑内の工事区画が徐々に拡張されており、所々に高架道路の橋脚も造られつつあるようだ。来年度になった時点でまた様子を見に訪れる予定ではあるが、新ルートの開通は何年後?いや十何年後になるのだろう・・・。

 昨年9月のブログ記事「耳地蔵(吉名町宗越)」の末尾に書いた御利益についての継続調査だが、光海神社舞殿に掲示されている「吉名の歴史」の複数パネルの中に「耳鳴地蔵(みみなりじぞう)」がある。
このパネルの解説では以下の謂れと御利益が書かれていた。
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天保2年(1831)の建立。
堤防の汐留で少女が犠牲になった夜から、この地の当主の耳鳴りが止まらず、難儀をしましたが、少女の霊を供養しようと地蔵を建立したところ、立ちどころに耳鳴りが止んだそうです。それ以降、地蔵に触り、自分の患部をなでるとその病が治ると噂になり、遠くからも参拝者が訪れるようになりました。耳の病には霊験新たかと評判です。

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また、パネルには「お地蔵さんの両耳は貫通してます。」と書かれた横顔の写真も添えられていた。

前回の参拝では正面からのみの地蔵さんしか撮らなかったので、再度参拝した後に解説パネルと同様に横顔も撮らせて頂いた。(2021/12/30撮影)
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 患部を撫でると治るとのことで、お地蔵様の眼・顎・鼻・額・頭部と耳たぶに撫でたであろう艶が出ていた。お地蔵様をよく見ると手垢による艶は袖や膝に見られることから耳に限らないようである。
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 左耳穴から向こうが見えた。
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 右耳からも。
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 なお、初回参拝の後に購入した『竹原聞きある記』では、第3章12項「宗越の耳地蔵さん」にも以下の謂れが書かれている。こちらでは「耳鳴り」ではなく「激しい腹痛」と書かれていた。
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昔、土地造成のために海岸に堤防の構築を試みたが、決壊すること甚だしく、やむを得ず近所の若い娘さんを人柱という犠牲によって完成し、堤防内を塩田に造成した。
 当主旧家の主人がある夜中、激しい腹痛を患い、その夜の夢枕に、人柱になった娘さんの霊が、地蔵堂を建立して、霊を慰めて欲しいとの願いによって、造仏したのが、天保2年(1831)とのことである。

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 また、耳の病気に御利益があり、現在(平成7年当時?)も参拝者が多いとも書かれていたが、その御利益の謂れについては触れられてはいなかった。
 宗越に住まわれている方から聴いた話では、先ず「宗越」は「むなごえ」と読むとのこと。その地域では「耳鳴り地蔵」ではなく「耳地蔵さん」と親しく呼ばれており、尾道などの他市や他県からも参拝者が多く訪れているそうだが、なぜ「耳」なのかや謂れについては若い頃から聞いたことは無かったとの事である。更に「耳穴が貫通している」理由についても貫通自体御存じないとの事。宗越地区には他に「歯地蔵」もあるらしいのだが、『竹原聞きある記』では小吹林道の「歯地蔵さん」についてのみ書かれており、宗越の「歯地蔵」ではなかった。

 2018年の豪雨災害で市道大井宿根線の西ノ川支流に架かる橋が崩落。再構築された部分に橋桁が架けられたのが2021年10月だったが、12月中旬には未舗装の部分が橋桁にあるものの車両の通行が可能なまでに復旧工事が進捗していた。(2021/12/30撮影)

 直線道路の手前が大井からで先が宿根方面アスファルトが途切れてコンクリート肌になっている部分が新たな橋の橋桁部分である。これまでは右側に造られた弓状の迂回路を通行していたが、段差はあるものの新たに造られた橋を渡ることが可能となった。未舗装の段差は減速させるために敢えて設けてあると推測。
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 工事現場近くには壊れた橋に詰まっていたと思われる樹木の残骸が残されていた。橋桁下にこのようなゴミが詰まれば、溢れた水流が橋の両端部分の道路をえぐりとるであろう。
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 迂回路(右へ反れるルート)は未だ残されていた。
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 迂回路上から新たな橋を見てみた。
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 迂回路から今回通行が可能となった橋を渡ってみる。
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 コンクリート部分が橋桁。アスファルト舗装はされていない。
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 強靭な護岸となった。
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 橋桁部分は独立しているのであろうか。
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 橋上から迂回路を見たらこのようになっていた。
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 橋桁の両端を脇から見てみた。
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 両端の護岸も敢えて狭くしてあるのか特殊な逆ハの字型の傾斜が設けられている。
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 工期は令和3年度末となっており、宿根の大桜が満開となる時季には間に合わないが4月頃に完成した橋を渡って朝日山の頂上を訪れる予定である。

 的場で初日の出を撮った帰りに竹原大橋を渡る際の眺めを撮っておいたので掲載する。時刻は8時13分から19分、日常でこの時間帯にこの区間を道の駅方面へ走ることはほぼ無く、長期に渡り行われている橋脚修復工事による車線規制も解除されていたことから、ただ道を走っているだけの景観だが埋もれさせるのはもったいなかった。(2022/01/01撮影)

:北崎のフェリー乗場から少し過ぎた辺り。
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 国土交通省の交通状況監視カメラがある辺りから路面下は海になっている。
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 朝日を浴びる「たけたろう」と激しく煙を吐く「子たけたろう」に重なる契島へのフェリーの景観は、この一瞬の区間しか見られない。
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 正面の山は鎮海山。これまで頂上の「砦」には二度しか訪れていない。
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 水門が開いているか閉じているかを路上から確認できるのはこの区間のみ。
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 冬季には凍結の危険性がある竹原大橋の呉線高架辺り。
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 朝日に映える朝日山もなかなかのもの。
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 この辺りからアクセルを踏まなくても速度が増す。
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 歩道橋につながる八幡橋は、国道幅が拡張されるまではどうなっていたのだろうか。
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 この辺りの堤防?には異常潮位時に裏の扉を閉じるよう書かれたパネルが取り付けられている。路面の雨水排水口を、異常高潮時には誰かが人力で閉じなければならないようだ。近くい穴が等間隔で開けられている。
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 本川橋を渡って日本橋方面へUターン。
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 この辺りの川面には水蒸気が立ち昇っていたが逆光でうまく撮れなかった。
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 スポーツクラブ「エンジョイ竹原」の駐車場内から朝日を浴びる「たけたろう」を撮って終了。
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 この後は日本橋通りから「あいふる通り」の三叉路へ入り、近末の交差点を渡って新町交差点までの写真も数枚あるが、特筆するほどの景観では無かったので割愛する。

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