No.2019.12.29

 1994年夏の帰省、もう微かな記憶しかないのだが、自家用車で竹原に帰る際中、山陽自動車道の三原辺りから焚火を焼くような臭いと煤が混じる煙に巻かれ、フロントガラスを動かすとワイパーゴムに黒い炭が付着した。本郷ICから空港前を通って河内から竹原に下ると南の上空には灰色の煙が立ち昇っていた。

 既に鎮火したとのラジオかテレビのニュースを聴いてその日は実家で大人しくしていたが、夜中ひっきりなしに消防車がやってくるので外に出てみると、竹小から鎮海山方面がオレンジ色に光っていた。

 次の日に買い物でイズミ*1(現ゆめタウン)の2階建駐車場(当時)へ上がると郵便局側フェンスには人だかり、東側の一連の山から黒煙と赤い炎が目視できる大規模火災になっていた。駐車場まで水色の煙と火の粉が飛んでくる酷さで身の毛がよだつほどであった。いったん鎮火した火災が再燃したようで、このままだと鎮海山から寺山に伝わってきそうな勢いだった。

 この火災は山火事で1994年8月11日に福田町の山中で出火、9日間延焼し続けて20日に完全鎮火となり、自衛隊ヘリがバッグで海水を汲んでは山にかける作業が繰り返されていた。その成果合ってか幸い死者無く人家までの延焼も免れた。

 その時の広島県による報告書(PDF)「竹原市山林火災と緊急砂防事業」があるので興味がある方は読んで欲しい。内容は詳細な調査報告と数多くの生々しい写真入りなのだが、11日の福田町山中での1次出火の原因は調査中であった。後ちに地元で原因を聞いたのだが「タバコじゃと」だった。

 この1994年(平成6年)はデジカメなどない頃。たとえフィルムカメラを持っていたとしても災害進行中を撮れる心境ではなかったと思う。数日間、実家の屋根や庭にも炭状の小枝が降り注ぎ、その中には踏みつけるとまだ火が残っているものも多数あった。よって、この火災を撮った私の写真は存在していない。たぶん・・・

 それより以前の大規模火災の爪痕を撮ったフィルム写真が2枚がある。前述の調査書にも載っている昭和53年の高崎町での山火事の爪痕である。文章だと分り難いので箇条書きにしてみた。

・昭和53年8月(1978年)・・・高崎町山火事

・昭和63年8月(1988年)・・・1枚目の写真

・平成20年8月(1997年)・・・2枚目の写真

・平成29年8月(2017年)・・・3枚目の写真(デジカメ)

  1枚目は火災から10年が経過した昭和63年で、こちらの原因は焚火であった。それから9年後、少し場所が異なるが僅かながら帯状に緑が育ち始めている。そして3枚目は火災発生から約40年が経過したフェリー辺りの写真である。何事もなかったほどに元通りに戻っていると言いたいが、実は元の状態など全く記憶はない。火災発生の昭和53年頃といえば既に解散していたビートルズと太田裕美(松本隆&筒美京平&萩田光雄の組合せ限定)に夢中だった頃、高崎町の山肌など意識するはずもない。 

#01

#01:竹原大規模火災:北崎辺り(1997頃撮影)

#02

#02:竹原大規模火災:大石~北崎辺り(1988頃撮影)

#03
#03:竹原大規模火災爪跡:大石~北崎辺り(2017/08/13撮影)

 この1枚目を撮ったのが昭和63年と書いたものの、それは旧ホームページのその前の版からの引継ぎ情報であり、どこでどう63年を確定したのかが今となって気もう分からない。今回スキャンしたフィルムには中四国フェリーの「三島」(竹原-大三島-波方)と「第三か第五?たるみ」が微かに読み取れるフェリーが停泊しているのだが、「たるみ」の情報は得られず「三島」は初代のみとか昭和57年から2代目が運行とか諸説あるので時期が確定できない。 

修正(2020/01/06)
*1:ニチイ(誤)→イズミ(正)