安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

旧ホームページ記事

 「2011 ホタルの里・おなし名水」を訪れた帰りに「竹原工業流通団地」へ寄ってみた。このHPを作成し始める少し前の頃の1995年末に完成してからここを訪れたのは初めてである。数年前に新聞記事か何かで敷地内に「メガソーラー」が造られることを知ったぐらいで、どのような企業が集まって団地となっているのかは分かっていなかったのである。
 場所は新庄町であるが市内エリア最北端の本郷町との境界である。小梨町から国道2号線まで下った本郷町から東広島方面へ向かい、サンパーク日名内が有った交差点を右折して4km程度走れば入口に到着する。このまま少し進めば山陽道・広島空港へ辿り着けるので立地としては陸・海・空の交通ネットワークに優れた場所であろう。

 入口の傍に石碑とシンボルタワーがある。あれっ?! かなり前にこれを撮った記憶があるのだがHPには載せていないようだ。シンボルタワーの説明板にはこう書かれている。

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 シンボルタワーについて

 竹原市の市木・・・竹。その竹の子
をイメージしています。
 大小の竹の子は親と子、男と女、地
域と住民を、素材の石は揺るぎない過
去の歴史を、ステンレスは真っすぐ空
に向かって伸びる将来の夢と希望を表
しています。
 竹取物語では、竹の中から、おじい
さん、おばあさんに幸せを運ぶ、かぐ
や姫が現れました。
 今まさに、地域と住民の前に、将来
の夢と希望が現れようとしているとこ
ろを表現しています。

 広島県企業局
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撮影月日:2016.08.07
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 特に立入禁止等の制限は無いようなので、どんな企業があるのか入ってみよう。
先ず見えたのが「株式会社 東信鉄鋼」の西日本支店、続いて「株式会社 トーヨー塗装」の新工場と「株式会社 シーエックスアール(CXR)」の研修開発センター、そして「ジャペル株式会社」の広島営業所の建物を確認した。市の資料では、他にも「有限会社 ユーベック」、「株式会社 前河内工業」と「株式会社 テラパワー(Terra Power)」が有り、4区画の空きがあるようだ。

 敷地内を回ってみたが、予想していた「団地」よりもかなり狭く感じたのが正直な感想である。

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 しかし、ここに「メガソーラー」が造られたらしいのだが見当たらない。区画の末端まで到達すると、更に別な区画が有りそうな雰囲気。その先にソーラーパネルの集合体らしきものが見えた。
「見つけた!!」この場では空からは俯瞰できないが、恐ろしく広大な敷地内に無数のパネルが整然と並んでいる。フェンスの看板には「株式会社ビットアイル 広島メガソーラー(竹原第2メガソーラー)発電出力1.5MW」とある。本当にメガワットの発電であり、こことは別に隣の区画に第1も見つけた。
どのくらい広大なのかは Google Earth等で確認してみるとよい。
 竹原市の資料「株式会社 テラパワー」と「株式会社ビットアイル」の関係は調べていないが、正式名は「ビットアイル・エクイニクス株式会社(Bit-isle Equinix Inc.)」であった。竹原のメガソーラーについては「ここ」に紹介されており、建設の経緯や詳細のドキュメントも閲覧できる。

 ストリートビューでも訪れられるが、ここには監視カメラも多数あり、普段、目的無くここを訪れる者は皆無であろうから・・うろうろせずに退散することにした。

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 NPO法人ネットワーク竹原による「竹原の塩再生プロジェクト」の塩生産場所がこの設備である。理事長の佐渡さんから安芸津町(いつのまにか東広島市)と吉名町(竹原市)の境界付近にあると聞いていたのだが、なかなか見付けられず数年が過ぎていた。この夏、秘境といえる『梅が浜海水浴場』を訪れたついでにレンガ工場の海岸沿いに寄ったところ、その設備を偶然に見つけることが出来たのである。この付近には道が2本有って整備された上側の道を通ると隠れて見えない場所にあったのである。東側からだと行き止まりになりそうな不安に耐えながら可能な限り海岸沿いの道を辿って行けば、レンガ工場の倉庫の海岸側に架と小さな建物がすぐに見付けられたはず。西側からだと「私有地に付き関係者以外立入禁止」の看板があったような気もするが、整備された道から反れて海岸側へ下る分岐からすぐの場所。
 この設備は竹ボウキのような竹の枝を組んだ「流下式塩田枝条架(りゅうかしきえんでん・しじょうか)」と濃くなった塩水を煮詰める「釜屋」で構成される。ポンプで汲み上げた海水を枝に垂らして水分を蒸発させ、これを循環させることでより濃い塩水(かん水)となり、これを釜で煮詰めて塩を結晶化させる「煎ごう」を組み合わせた製塩である。竹原ではこの方式とは異なる一世代古い製塩法の「入浜式塩田」によって栄えた町であり、その名残が江戸堀周辺の地名「中須」が改名された「塩町」となっている。竹原町(竹原浦)は中世時代まで海であり、江戸時代初期に新町辺りから海まで大規模な干拓が行われ、江戸時代末期には沖にあった横島まで塩田として埋め立てられて皆実町、明神、ハチまでつながる現在の地形となったのである。
 この「竹原の塩再生プロジェクト」で造られた塩を何袋か購入していたのだが、その袋が見つからないのでここに載せる事は出来なかった。

撮影月日:2016.08.07
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 宿根の「1835 長寿の清水」に似た「湧き水」が小梨町に有るらしく、弟の車に同乗して竹原町から遥か彼方の小梨町までそれを探しに行ってみることにした。通常ならば地蔵町側から「いろは坂」をくねくねと登って行けるのだが、洪水による崖崩れが数箇所有って麓の斎場までで通行止め。仕方なく小吹トンネル手前辺りの峠下牛の牧場から本郷町まで延びる狭い道を抜けて遠回りで国道2号線へ出て、地蔵町側の逆方向から小梨町を訪れた。<
 詳しい場所は分かっていないが、小梨小学校が有った道沿いにあるらしい。もしかしたら案内看板等があるかもしれないので、それらしきものを探しながら進んでいくと小梨小学校跡を通り越して通行止め。逆戻りしている途中で「ホタルの里 おなし名水」の看板を見つけた。どうやらこれがその「湧き水」のようだ。路肩へ車を停めて看板のある場所へ下りてみた。

撮影月日:2016.08.07
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 別の看板には未だブルーシートが掛けてあり、完全には完成していない模様。コンクリートの石段を下ると鋳物のテーブルと椅子が備え付けられている。その向うに水を噴出すパイプ。その横には「しめ縄」が巻かれた多数のヒビが有る石が置かれている。澄んだ水に手で触れてみると冷たい!注意事項を読んでみると「水質検査を済ませ、お飲み頂けます。」の文。掌に水を汲んで一口飲んでみたところ実家の水道から出る水と特に変わらない。正しくこれは「竹原の水」である。ここで気付いたのだが水を入れて持ち帰るペットボトルを持参するのを忘れてしまった。今、説明パネルを拡大してみて「水をご利用されました方は、お志をお願い致します。」に気付いたのだが、それを入れる箱がこれだったみたいだ。まあ、一口だったので神様には許してもらうことにしよう。

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 8月の炎天下。せっかくのテーブルと椅子があるのに、ここに東屋か屋根があれば「おなし名水」を飲みながら涼めるのだが・・・。誰かがここで休んだのか、浄財箱の上に捨てられたタバコの吸殻と杖1本。人が見ていなければ、いやも見ていても「タバコ吸い」は所詮「タバコ吸い」。「バチがあたりゃぁええのに」と願ってみたが、そんな輩には逆にバチが当たらないのが歯がゆいところ。ここにこの湧き水を使ったボトル自販機や近くにコーヒー専門の喫茶店でもできれば話題にはなるのだが、訪れる人がどの程度いるのかを考えると、この程度の整備された施設を建てるのが限界なのかもしれない。

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 説明パネルを拡大してもたのがコレ。湧き水の謂れと水質の鑑定書が印刷してあり、枕元に現れた神様のお告げの通り、この亀裂の入った石を「はぐって」みたところ清水が湧き出たとの伝説である。この湧き水が流れ出ている田圃の横を流れている小川が「桶川」で、道を挟んだ向かいのこの神社が「亀山八幡宮」のようである。この伝説と湧き水を知っていたなら、在りし日の小梨小学校を含め、ここを撮っていたのだが、いつ頃からの伝説なのだろうか。保存地区にある「かかえ地蔵尊」のように地元に暮らしている人さえも知らない伝説が多々有る竹原、帰郷したらもっと調べてみる必要がある。

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 9月18日、これを書いている最中に東広島・竹原に大雨警報が発令された。この工事を撮ったのは1ヶ月以上前なのだが、もう完全修復されたのだろうか?修復後の状態を確認できていないので勝手な推測だが、ブルーシートで覆われている土石流でえぐられた国道432号の土手のり面はコンクリートブロックによる壁面を。黒い袋の土嚢が並べられた部分はコンクリート・ブロックのキューブを隙間を空けて敷き詰めることで濁流の力を弱め、普段の水の流れは蛇行するように重機で成形し、ここにもコンクリート・ブロックを敷く工事と思われる。

 過去にこの辺りが決壊したらしいのだが、ここが決壊すると中通、新開、上市、下市辺りは床下浸水となるであろう。大雨・洪水時ではなく大潮と台風が重なるだけで本川が溢れてしまうことも多々あり、南海トラフ地震発生時に襲う津波が瀬戸内海に流れ込んで海抜何メートルまで達するのかが不安である。西幼稚園で海抜3.7mなので竹原町内にある民家の1階部分は確実に壊滅的であろう。津波は本川と賀茂川を遡上してこの親耕橋辺りに達するに違いない。逃げ場となる山までは近いが、小田山神社、照蓮寺境内、西方寺、長生寺ぐらいしかなく、ここに避難できたとしても背後から土石流が流れ落ちてくる危険性が伴う。

撮影月日:2016.08.06
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 夏季休暇の帰省初日、「きり屋」向かいの「いなばサイクル」で自転車のパンク修理が終わるのを待っていると、竹原駅へ向かう「かぐや姫号」に遭遇。しかし、何だか違和感があり、竹原駅から戻ってくるのを待って撮ったのがこの写真。その違和感は両サイドに描かれた馴染みのある「かぐや姫」が違っていたからだった。バス自体は新型なのだが追加導入なのか「たまゆら」ラッピングを剥がしたものかが分からなかったので、中通車庫を訪れててみたが「かぐや姫号」は全て出払っていて確定できず。その後、twitter でこのナンバー 1603 に該当する「たまゆら」ラッピングは無いとの情報を頂き、追加導入の新型である可能性大となった。
 いつまで「たまゆら」ラッピングが継続されるのか、ずっと今後も残されるのか、旧「かぐや姫」は残るのか、新「かぐや姫」に塗り替えられるのかが興味津々なのだが、今年の冬は竹原帰省できそうにないので twitter で知ることしか出来ないのが辛いところではある。

撮影月日:2016.08.06
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 ではこの新「かぐや姫」の正体は?これも twitter で得られた情報なのだが、画家の加藤奏子(Kanako Kato)さんによるものであった。一見、絵本に描かれている「フワフワ・ほわほわ感」のメルヘン画的なのだが、それだけではない「ダリや岡本太郎が醸し出す異様な怪しさ?」が漂う不思議なタッチで、一目見たら忘れられないのである。
 では、この新旧「かぐや姫」を比較してみよう。七宝焼きに例えれば旧が「有線七宝」としたら新は「無線七宝」といった感じである。基本的には旧デザインのモチーフなのだが、70年代アイドルの「麻丘めぐみ」で馴染みのあるお姫様カットではない。十二単と扇子の絵柄は「竹」ではなく、凛々しかった顔は弱々しい感じとなり、黒髪は緑色なのである。一応、満月も描かれてはいるのだが輪郭が無く、あの闇夜のライトで黄色く反射する塗装は継承されているのであろうか。芸陽バスのWEBサイトに「かぐや姫リニューアル」の情報が見つからないのだが、いつ頃からこのナンバー 1603 が走り始めたのだろうか。

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