安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

トリビア

 平成末期頃まで町並み保存センターの館内にて映写(放映)されていた竹原市を紹介するスライド(ビデオ)作品『竹原 時からのメッセージ』(15分程度)を帰省時に何度も観てきたが、その中で一番印象に残っているのが「竹原格子」の拡大写真と解説ナレーション。そのセリフが「100年かけて1mm擦り減った竹原格子」である。
 今回、町並み保存地区を散策中に町並み保存センターに立ち寄ってみたところ、その作品が当初映写されていたスライド映写機は未だ残ってはいたが、のちに電子スライド化されて放映されていた壁掛け液晶テレビは撤去されたまま。その作品を急に思い出して向かったのが旧吉井邸だった。(2023/11/23撮影)
#01

 作品に写されていた竹原格子のシーンはここだったと思うのだが・・・もう観れないのが悔やまれる。
#02

 そして「100年かけて1mm擦り減った竹原格子」がこの辺りだったと思う。矢印で示した部分が丸みを帯びで擦り減っているのが分かるだろうか?
#03

 江戸時代から、毎朝、丁寧に掃除されて拭かれていたことから、徐々に格子の桟(さん)が擦り減った部分が白くなっている。
#04

 実際に100年余りも拭かれ続けたかは定かではないが、この擦り減り様はかなり年季が入っている。
#05

 そしてもう一軒。CMで全国的に有名になった竹原格子がある松阪邸へも訪れてみた。
#06
#07

 この辺りの桟も私が竹小に通学していた頃から変らずかなり擦り減っている。
#08

 通学していた頃は、この出格子の意匠を「はじめ人間ゴンのマンモスの肉(骨付き)」と言っていた。
#09

 この「幸せのハート」の周囲もかなり丸みを帯びている。
#10
#11

 あの懐かしいスライド作品の「100年かけて1mm擦り減った竹原格子」のシーンを再び観てみたい。なぜビデオ放映が廃止されてしまったのだろう。

-以上-

一般民家なので全景は敢えて撮っていないが、木造総二階の壁面に昭和時代の趣きあふれたホーロー看板を見つけた。場所は中須地区で樹々に隠れて目立たない。(2023/12/19撮影)
#01
 
 これを見つけたのは先週。このホーロー看板は[ミスダリヤ ポマード]だが、なぜか1枚ではなく[ミス][][][]と[ポマ][ード]に分割されて壁に張られている。
#02

 この「ミスダリヤ」は製品名であり旧社名でもあるようだ。現在の社名は「株式会社ダリヤ」で医薬部外品と化粧品の製造販売の事業。会社概要ヒストリーについて、本看板の関連項目と私の記憶にある商品について混ぜて抜粋転用して以下に並べてみた。

1941年2月・・・野々川大介が小塚商店(貿易商)より独立して貿易商を営む
1950年11月・・・ダリヤ商事株式会社を設立し、社長に野々川大介が就任 一般化粧品業界に進出
1950年・・・藤山一郎起用によるミスダリヤポマード発売、
       当時では珍しい香りつきのポマード、その名も「初恋の香り」ヒット商品第一号となる
1955年・・・人気歌手の春日八郎起用による「ミスダリヤポマード」の広告
1958年12月・・・社名をダリヤ工業株式会社に変更
1965年9月・・・社名を株式会社ミスダリヤに変更
1965年・・・鉄腕アトムシャンプー発売
1966年・・・ジャングル大帝「レオ」シャンプー発売
1967年・・・悟空シャンプー発売
1968年1月・・・現社名の株式会社ダリヤに変更
1968年・・・ひょっこりひょうたん島シャンプー発売
1970年・・・黒猫シャンプー発売(皆川おさむの黒猫のタンゴと同時にヒット)

 なお、「琺瑯看板探検隊が行く」サイトのポマード・ヘアクリーム項本看板が撮られた写真(広島県)が既に発見され掲載されていた。

-以上-

行く当てなく辿り着いた日曜日昼前の忠海駅。(2023/12/03撮影)
#00

 久しぶりに待合室へ入ってみると外国人観光客向けの「大久野島への行き方(How to get to Okunoshima.)」パネルを見つけた。
#01

 英語、中国語と韓国語の3語混合型。
#02

 "Turn right at this sign"(この看板を右折せよ)。看板の丸枠写真は「大三島行フェリー乗り場」。あれっ?この看板まだ有ったかなあ?
#03

 実際に訪れてみると無い!たしか忠海港の待合室がリニューアルされた2020年夏に看板も取り替えられたのであった。看板を改めてよく見ると「大久野島(Okunoshima)」の文字が何処にも見当たらない。また、英語にも「Rabbit Island(うさぎの島)」としてだけ表記されていた。 
#06


 ちなみにガイドパネルの丸枠写真にあった看板が写った写真を探してみたら、まさしくこの「大三島行 フェリーのりば この先⇒」が見つかった。その横には今は無い「休暇村 大久野島 のりば竹原市・竹原市観光協会」の旧看板も立っていた。(2009年夏撮影)
#04
 
 そして2020年夏に両看板が撤去されて現在に至っている。興味深いことに出光GSも未だ旧ロゴだった。(2020年夏撮影)
#05

 逆に忠海駅の外国人向け「大久野島への行き方(How to get to Okunoshima.)」パネルには「うさぎの島(Rabbit Island)」の表記は一切なく、うさぎの写真と乗船券売場の説明に「兎の楽園 大久野島( "Rabbit Paradise" Okunoshima )」と書かれているのみ。本パネルが作られたのは、かなり前だったようだ。

-以上-

 今年の夏に撮った忠海の舟入堀に架かるJR呉線の鉄橋。他のサイトにて鉄橋名が「浜町川橋りょう」であることが分かったが、ならば内堀公園までの入江の名は「舟入堀」ではなくて「浜町川」であったことになる。そこで先ずは「舟入堀」を調べてみると固有名詞ではなく船着場がある水路(堀)の通称であった。
 元々、この内堀公園から県道までが「舟入掘」であったことから河川系ではないのだが、どこかに「浜町川」という河川名の痕跡がないかを各橋にて探ってみた。(2023/12/03撮影)

 先ずはJRの鉄橋。
#01

 常夜灯がある踏切名は「新田第2踏切」で、昭和時代の旧町名地図(本書の末頁)によればアヲハタ側は「徳浜栄町」で鉄橋の向こう側は「新地町」であった。しかし、この「新田」という名は地図には見当たらない。
#02

 これまで撮っていなかった「浜町川橋りょう」の銘板を撮影。
#05
#06
#07
#08

 鉄橋名が「浜町川橋りょう」ならば国道185号の橋名は何だろうか?
#09
 
 残念ながらガードレール両端に橋名プレートは見当たらなかった・・・・。
#10

 内堀公園までの舟入堀は東堀。
#11
#12

 東堀の末端には埋め立てられてしまった橋の欄干がある。
#13

 橋の西詰にある橋名は「栄橋」(右手)で、大抵は反対側(左手)に河川名があるのだが・・・
#14

 なぜか平仮名の「さかいはし」だった。
#15

 ならば東詰め側に河川名の漢字と平仮名があるはず。
#16

 あれっ?こちらも「栄橋」と・・
#17
 
 ・・・「さかえはし」だった。
#18

 この栄橋は「栄」から徳浜町に属していたのだろか?
#19

 昭和時代の地図を細部まで再度見直してみたら、舟入堀が埋め立てられる前の船着場だった狭い区画に「浜町」と小さく書かれていた。今週日曜に訪れた「お好み焼 えしま家」がある家並みが「浜町」だったのである。何の確証も無いが、この「浜町」を起点とする舟入堀は鉄橋が作られた昭和7年当時は「浜町川」と呼ばれていた可能性がある。色々と書いたものの推測の域を脱していないので、次回「えしま家」を訪れた際に店主へ「浜町」と「浜町川」について詳しく聞いてみることにしよう。

-以上-

 上仁賀にある「八幡宮」をやっと撮ることができた。撮るつもりがなく通り過ぎる際は後続車は全く現れないのに、神社向いの路肩に停めようとした時に限って後続車が現れるといった摩訶不思議な体験を何度もしている。今回は運良く停めることができて、窓ガラスを開けて撮ろうとした途端に峠側からと後ろ側からの数台が自車横を猛スピードですれ違って行った。(2023/09/17撮影)

 賀茂川沿いの路肩から。「たけはらの神仏を訪ねて/著:神野勝」で「村社(村の鎮守)」であることを知った。
#01

 創建は1534年。賀茂八幡神社あたりから此の地へ遷宮。
#02

 鳥居の扁額には「八幡宮」と彫られているが、正式名は「八和田八幡宮(やわたはちまんぐう)」。
#03

 拝殿があるようだが、かなり古そうである。
#04

 この神社の特徴は、宮島の大鳥居と同型の木造鳥居(写真右の赤屋根鳥居)があること。
#05

 それよりも今回気になったのが「上仁賀」のこの看板。ちなみにこの辺りの旧地名は「八和田垣内」。
#06

 彫られているキャラは「洞(ほら)の精」。上仁賀のどの辺りに「洞穴」が有るのだろうか?
#07

-以上-

↑このページのトップヘ