安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

町並み保存地区

2019.12.03
 私がよく竹原帰省時に買って帰った伝統的銘菓は

・久太郎饅頭(菊寿堂/末広堂/はこにわ本舗 いちかわ)

・はこにわ最中(はこにわ本舗 いちかわ)

忠孝巖煎餅(せんべい本舗 黒田)

・定恵せんべい(黒田製造元本舗)

の4種であった。

 久太郎饅頭は竹原にある3つの菓子店で作られており、地元では昔から「Q太郎まんじゅう」と親しまれている。菓子箱に入っていた説明には「久太郎」とは竹原ゆかりの頼山陽の幼名だが、正しい読みは「ひさたろう」なので現在は「ひさ太郎まんじゅう」で統一されていると書かれていたと思う。遠い昔に親戚の誰かから「おばけのQ太郎のキュータローまんじゅうぃうんで~」と聞いてからは今もそう呼んでいる。

 はこにわ最中は私自身が一番好きなモナカである。自分用に買ったことも多かった。「はこにわ」の意味を初めて知った頃に「最中」の読みまでは知らなかったので旧店舗のテントに書かれていた「はこには最中」を「はこにわさいちゅう」と読んでいた時期もあった。

 忠孝巖煎餅は我が家では「しょうがせんべい」と呼んでいる。未だに「ちゅうこういわ」なのか「ちゅうこういわお」なのかが分からないまま現在に至っており、ほど良い硬さで飽きの来ない生姜味からそう呼んできたのだろう。

 定恵せんべいは丸いブリキ筒缶に入ったゴーフルに近い軽い歯触りの薄い煎餅で「たんさんせんべい」とも呼ばれていた。クリームが挟んであった記憶が有るのだが風月堂のゴーフルと混同しているかもしれない。最後に食べたのは20世紀だった。

 

 この忠孝巖煎餅と定恵せんべいの製造元は榎木町にある「手焼き煎餅 黒田製造元本舗」だったのだが、かなり前に町並み保存地区の胡堂前に新店舗ができた。どちらの煎餅もここで造られているのかが気になって帰省時に訪れてみた。店に入ると店主が忠孝巖煎餅を一枚一枚焼いておられる最中で、ガラス越しに伺うとかなり手間の掛かる手焼き作業のようだった。これまで訪れた時にはいつも品切れだったが、この日は竹籠に焼き立ての忠孝巖煎餅が沢山有ったので買えた。だが定恵せんべいもここに有るのか確認するのを忘れてしまった。
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#a01-04:黒田せんべい店(2017/05/03撮影)

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#a11:最古の写真(1997/12/27撮影)

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#a18:黒田せんべい本舗(1999/08/08撮影)--- 20191205追加

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#a16-17:旧店舗の看板(2010/05/04撮影)


 では忠孝巖煎餅を紹介しよう。保存地区の店舗で籠に入れて売られていた保存地区仕様の1袋内には小袋が3つ。小袋には2枚の煎餅が入っている。表には「忠孝巌」裏には竹原市のシンボルらしきマークが焼き印されている。

 元祖 手焼き 三代目

 広島県推薦銘菓

 登録 第1293920号

 登録商標 忠孝巖煎餅

      手焼

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#10,06-09:忠孝巖煎餅(2017/05/17購入)

  袋の裏面には「竹原小唄」が載っている。

   野暮な俺だが

    竹原そだち

     胸にゃ揺るがぬ

      忠孝巌

 ついでに私が関東の同窓会で聴いた歌詞も載せておく。

   あの娘かわいや

    あの瞳がかわい

     竹原ぶどうの

      粒のよう

 煎餅の名の由来は礒宮八幡神社のこの池にある「忠孝岩」だが、この「竹原小唄」に登場する「忠孝巌」もそうであろう。因みに竹楽にも掛け軸「忠孝」がある。
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#a12-13:礒宮の忠孝巖(2014/09/13撮影)

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#14:礒宮の「忠孝岩」解説(2011/01/01撮影)

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#a15:竹楽の「忠孝」(2010/05/05撮影)

  礒宮にある説明を転記する。

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 県史跡 礒宮(いそのみや)(忠孝岩)

昭和十二年五月二十八日指定

礒宮は、建久五年(一一灸四)後藤実元(ごとうさねもと)が豊前国宇佐宮(ふぜんのくにうさのみや)から鳳伏山(ほうふくざん)に勧請(かんじょう)、磯辺にあったので礒宮と称し、

実元の代々守護神として崇敬されていた(礒宮縁起)。その後荒廃し万治元年(一六五八)唐崎正信(からさきまさのぶ)が現在地に遷宮し再興した。

 五代、唐崎常陸介(からさきひたちのすけ)は、境内の千引岩(せんびきいわ)に、山崎闇斎(やまさきあんさい)からもらった宋の文天祥(ぶんてんしょうひつ)の「忠孝」の二文字を刻した。(明和三年頃 一七六六)

広島県教育委員会

竹原市教育委員会

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 要約すると、1776年、唐崎さんが山崎さんからもらった宋の文天祥による筆の拓本にあった「忠孝」の二文字を礒宮境内の大きな岩へ彫り込んだもの。

 では「忠孝(ちゅうこう)」とは何なのか?「義(君主ゆ国家に対して真心を尽くし支える)と行(父母に尽くす)」 の2文字を組み合わせた儒教道徳の基本とのことだ。(バラエティ番組で多用されている「・・とのこと」は確証がない時に逃げられる便利なフレーズだ)気になっていた儒学者・頼山陽は1781年生まれなので忠孝巖とは関係なさそう。

 ついでに定恵せんべいもネットで意味などを調べておこうとしたところ、のっけからつまずいた。これまで定恵を「ていけい」と読んでいたが正しくは「じょうけい」か「じょうえ」の可能性が高いのである。それどころか「定恵せんべい」について書かれていたサイトは自分の旧ホームページだけだった。

 私が定年までいた会社の所属部にて竹原帰省土産の忠孝巖煎餅を配っていたところ後輩から「てーけーせんべーは?」と言われてびっくりしたことを思い出した。なぜ知っているのか聞いたら母方の実家が明神にあって定恵せんべいが実家からよく送られてきたとのことだった。実家への帰省も何度かあって三井の煙突のことも話が通じた。

 さて何と読むのか正しいのか?忠孝巖煎餅を買った時に聞いておくのを忘れてしまったこのが悔やまれる。

2019.11.08-1

 旧アルバムに使用していた有料WEBサーバの容量が途中で30から100MBytesに増量されたことで大きなサイズ写真が掲載可能にはなったが、数千枚を超えると足らなくなり、アルバムとしての役割から外れてしまっていた。その後、長年使い続けたWEBサービスが終了となり、無料サーバへ移転はしたものの、ここにリンクを張ってくれていた公的なホームページが刷新時にてリンク削除されたことで「安芸の小京都」で検索しても低順位に落ちてしまい今に至っている。

 このブログは無料で広告掲載はするものの特に制限がなさそうなので、心置きなくオリジナルサイズが貼り付けられるのである。また、間を開けず更新していれば徐々に順位が上がる傾向にある。サイズ制限が外れた試みとして旧アルバム(#0023と#1166)を追補版として再投稿してみることにした。

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 50年に一度のご開帳と聞いていた普明閣のご本尊である十一面観世音菩薩を特別に拝観できる「竹まつり」のイベントであったが、このチラシを手に入れ知ったのはご開帳終了時刻の3時間後だった。 次に拝観できるのはあの世かと諦めていた。
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#01:御開帳チラシ(2001/05/04入手)


 それから3年後の竹まつり、50年に一度のご開帳が改められたのか毎年となったようだ。その時の様子がこれである。この世にいる間に拝観できて有難いことである。観音堂の前に新設された説明板には「50年に一度」に関しては書かれていないので、本当に50年に一度だったのか、元々毎年のご開帳なのかが分からない。ただ、拝観時に今年から毎年となったとは聞いている。後の竹まつりでご開帳イベントが開催された記憶はないので竹まつり開催期開外の法要なのだろう。なお、普明閣の境内でテント(富くじ)が張られることは滅多になさそうなので載せておく。 
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#02-06:普明閣境内での富くじ(2004/04/03撮影)

2019.11.07-3

 2018年正月に保存地区の「かかえ地蔵」を訪れたらお堂修復が完了していた。2017年の「竹まつり」に訪れた時はこの状態。瓦屋根にはブルーシートが張られ、軒と正面が真新しい角材で補強されていた。西日本豪雨はこの時の1年後なので経年劣化で倒壊寸前となったのかも。「お堂の一部が崩れています。危険ですのでご注意ください。」のパウチが壁に貼られていた。 
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#01-02:修復前のお堂(2017/05/03撮影)


  そして修復が終わったお堂がこれ。お堂の中の札に「建主 おかかえ 地蔵 世話人会 平成29年7月25日上棟」とある。(註:工期2017年7月18日~9月30日)ここは町並み保存地区の圏外なので瓦・柱・軒・白壁も外観すべてが真新しい。今まで気が付かなかったが軒下には赤外ライト付きの監視カメラも設置されている。
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#03-04:修復後のお堂(2018/01/03撮影)


  外観だけでなくお堂の中も真新しい。おやっ!梁にも監視カメラがある。
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#05-09:お堂の中(2018/01/03撮影) 


  今更だが、この修復されたお堂のご本尊が「大名地蔵」であり、夫婦地蔵さま、ほとんど道祖神化したお地蔵さま、旧抱地蔵かもれないお地蔵さまの計3体が祀られている。そして右隣りの別棟のお地蔵さまが「おかかえ地蔵」である。電球で隠れてしまったが、説明には「大名地蔵 此の地蔵尊は・・安産、子宝、結婚、受験、合格、病気平癒、等の祈願・霊験あらたかです 尚抱地蔵様はかかえ持ち上げて願い事をして下さい」とある。なぜか「抱えた時に軽く感じたら・・」が どこにも無いのだが、ここが紹介される時は「軽く感じたら願いが叶う」と解説があり、そのお地蔵さまの呼び名が胡堂と同様に色々とあるのもまた興味深い。抱地蔵、かかえ地蔵、お抱え地蔵・・・オンカカカビ サンマエイソワカ・・何度抱えてもズシリと重くて軽いと感じたことは無いのだが、軽いと感じた人はとなりの柔らかいビリケンさまを抱えてない?だろうか。

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#10:お抱えビリケンさまなら軽い(2018/01/03撮影)

2019.11.02-4

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#01:町並み保存地区の地図@西幼稚園(2016/08/08撮影)

 町並み保存地区の境界についてこのように決められている。この桜色の圏内にある建造物は外観保存しながらの生活が求められているようだ。(制定当初に聞いたこと)逆に圏外であれば自由に外観は変えてもよい。保存地区の境界標を気にせずに歩いていると内外の違いは全く分からない。圏外ではあるものの古民家的外観を維持したままでの観光客向け施設も増えており、逆に圏内であるが真新しい外観に修繕されている建物も散見される。その微妙さを探りながら歩くのもひとつの楽しみ方である。

 観光客が撮る写真の多くは、地図中央の本川から東側であり、1982年?に観光地化が始まった頃の観光ツアー本に載っている被写体やアングルと変わらないものが殆どである。只今、静かなブーム中である幸せのハートや手裏剣の格子もその頃からずっと存在している。それは保存地区内にあるから外観的には変わらない。個人的には「変わらないようで変わっている」「観光ツアー本に載らない」ところに興味があり、他には無いユニークなそれらを含めた広範囲の竹原を掲載してゆきたい。と言いながらも初回掲載写真を普明閣の模範的アングルとしたのは、ここが私の原風景的存在であり、このブログの根源だからとしておこう。

2019.11.02-2

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#02:普明閣舞台からの朝日山(2018/01/01撮影)


 竹原を離郷した人が正月や盆の時期に帰省した時、訪れたくてたまらなくなるのが普明閣であろう。現在は老朽化により舞台へは立入禁止となっているかもしれない。(2019/10/20は禁止中だった)ここから眺める景色は、屋根瓦と山に煙突といった特に目立つものは無いのだが、逆に目立つものが無いから、あの辺りが駅で、あのへんが実家、あのピンクの看板が・・・と広範囲を鑑賞できるのである。また、遠くから聞こえる電車や踏切の音、舞台を抜ける風や木々の匂いが心地よい。帰省した際に妻子や孫を連れて故郷を語る、ひとり深呼吸してみるなど、舞台に座り込んで小一時間過ごすには丁度良い場所といえよう。

 地元民にとっては、いつでも行けるが行きはしない程度の何の変哲のない場所だが、竹原を訪れた観光客へスポットを紹介する際は「町並み保存地区がええよ、石段あがったところに普明閣があるけん、のぼってみんさい」と紹介してしまう空気的存在なのである。

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