安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

絶景スポット

 昨年12月末に荘野地区の国道432号沿いで見た幟「初詣は氏神さまへ(総都八幡神社)」だが、これまで参拝したことが無かったので初詣時期が過ぎた年明けに訪れてみた。2年前に神社のある山が崩れた辺りを通ったことが有ったが、現在も災害復旧工事が続いており、遠回りで神社の参道に達した。(2022/01/11撮影)

 参拝してみたくなったきっかけは、1月9日から「まん延防止」でまた人混みの環境へは行けなくなったからであるが、前述の「氏神さまへ」の幟を見ていたこと、荘野地区に住まわれている方から初詣は子供の頃から「総都八幡」へ参拝していると聞いたこと、そして総都八幡神社近くに住まわれていた方から「総都」は昔は「僧都」だったが、神社に寺の「僧」は不釣り合いとのことで「総合の総」に改名された経緯?が聴けたことである。ちなみに「総都」のルビは「そうづ」ではなく「そうず」である。

 この日は天候不安定、竹原町は晴天だったが、神社の舞殿を訪れた時にはみぞれ混じりの雨に見舞われた。国道432号沿いを新庄交差点へ向かう木村城址BSを少し過ぎた新たな分岐を右折。 
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 しばらく走ると「新庄集会所」があり、更に東へと進む。
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 すると北側に災害復旧工事現場が見える。ここは2018年の豪雨災害で崩落したところである。
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 総都八幡神社はこの崩落場所の最上部に鎮座している。
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 工事現場で通行止めだったルートを迂回して神社へと向かう。
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 ここが神社への参道口である。真っ直ぐ行けば国道432号へも戻れる。
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 ゴミステーション向こうに数台停められる参拝者用駐車場?が有ったので駐車。
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 先ずはこの石段を昇る。
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 鳥居の額(扁額)は「増都八幡宮」であり、「総」はなく「増」になっていた。
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 1本目の石段上にある境内から振り向いてみる。石段下の右側は災害復旧工事で通行止め。
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 この1段目境内に「神社の略伝」が設置されていた。
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 この解説には「増都」が明治時代に「総都」に改称されたことのみ記載。改称の経緯については触れられていなかった。由緒には「一日そうつへお参り候刻・・・」と書かれており、どこにこお寺の「僧」の文字は書かれていなかった。だが、愛読書「竹原の神仏を訪ねて(著:神野勝)」では俗称が「僧都八幡宮」となっており、地域住民からは「僧」の文字で親しまれていることがうかがえる。
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 2本目の石段を昇って次の境内へ。
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 振り向いてみる。
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 登りきった境内の石灯籠から先は坂道になっていた。
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 坂道を登りきると第3の境内。
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 真横からは新庄の荘野地区の田畑が広がっている。この辺りは砂原町なのだが、国道沿いのバス停名は境内の解説板に書かれていた「神田(じんでん)」になっている。
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 案外キツイ坂道だった。
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 更に石段を昇る。
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 注連柱をくぐると・・・。
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 神楽殿がある境内に入れた。
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 清めの手洗「手水舎」は蓋がされていたので断念。
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 舞台へは上がれないが周囲から神楽殿をじっくりと観察。
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 ここの額にも「増都八幡宮」と書かれていた。
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 奉納画などが多数掛けられていた。これを撮って最中に雨混じりのみぞれに見舞われた。このような古い絵画は徐々に色褪せたり剥がれ落ちるので、じっくりと撮りたかったが舞台へは上がらなかった。勿論、神楽殿であるから神事に使われる神聖な場所だからである。(吉名の光海神社では神楽殿で展示物が閲覧できたが・・・)
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 胡堂の戎さま大黒さまより迫力がある。
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 この奉納画だけ明治か大正時代の雰囲気。あの旭日旗も描かれている。ボケとハレーションで奉納年が見えない。
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 神楽殿から更に石段を昇ると拝殿がある。
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 拝殿がある境内となる。振り向くと神楽殿がみえる。
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 拝殿にて「二礼二拍一礼」の参拝を済ませ、祭神様へ撮影の御許しを頂く。拝殿の後ろにある本殿を撮らせていただいた。祭神様は解説板に書かれていた通り、仲哀天皇、神功皇后と応神天皇である。
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 拝殿左にも鳥居が有り、併設の祠が鎮座されていた。
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 こちらの神様へも参拝を済ませた。右側の祠1つと・・・
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 左の建物には4つの祠が収納されていた。計5つの祠だが解説板には相殿が4神社書かれていたが、どれがどれなのか分からず。
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 口を閉じている狛犬。
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 口を開けている獅子。
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 また、みぞれが降り出したので帰路へ。
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 地上に着いた頃は周囲は白い雨?が降っていた。
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 拝殿左に併設されていた祠については「竹原の神仏を訪ねて」に写真と神社名が記載されていた。大きな祠が「稲荷神社」、建物の中に収納されていた左端が「常盤神社」、真ん中の小さいのが「竜王社」、右端が「祖霊社」であった。残る真新しい祠については写真には写ってはおらず、解説板にも追加書込みはない。もしかしたら豪雨災害で崩落した区画に鎮座されていた神様をここへ移設された可能性がある。そしてこの地域にて俗称(愛称)が元々の「増」でもなく改称後の「総」でもなく「僧侶」の「僧都」である件については興味の火は未だ消えていない。

 1ヶ月前に訪れた「吉崎排水機場遊水池」が激変していた。現在、3月末まで浚渫工事が行われており、この「遊水地」の底に溜まっている土砂をすくい取って除去しているようだった。水面から飛び跳ねる巨大な生物がつくる環状の波が見られたが、その水面が殆ど消えて池の底の土砂(汚泥?)が見えていた。さながらあの人気テレビ番組「池の水ぜんぶ抜く大作戦」であった。(2022/01/11撮影)

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 飛び跳ねていた生物は一体何だったのだろうか?まだ水が抜き取られていない水面をしばらく観察してみたが、何の動きも見られなかった。淡水ならば鯉だと思われるが色の付いた魚は泳いでいない。凶暴な外来種の亀や魚も棲んでいたハズである。
 工事名は「吉崎排水機場遊水池浚渫工事」であり、「浚渫(しゅんせつ)」とは海や河川の底に溜まった土砂を撤去して、安全に船舶の運航ができるよう改善することである。この「遊水池」は雨水などを溜めて高低差がある江戸堀へ排出する緩急的な溜池であり、溜まった土砂を撤去することで貯水容量が増せば、それだけ排水機による吸出し時間に余裕を持たせることができる。
 例えれば・・・撮り鉄集団で狭くなった駅のホームに一気に大勢の乗客が電車から降りると線路へ転落するほど溢れてしまうが、これ以上はホームの拡張や改札口の数を増すことができない。そこで撮り鉄がホームの一部を占拠しないよう入場制限を設けるといった対応である。東京駅ホームに新型の新幹線車両が初到着した際にトラロープが張られて撮り鉄溜まりを制限していたのを対面ホームで偶然目撃したのを思い出した。人ゴミの「水面」から巨大な脚立やカメラケース上に立って車両を悠々と撮っていたのが「飛び跳ねていた謎の生物」といったところか。

 ふと立ち寄った店のご主人、近所を犬の散歩中の人、街猫と戯れる人・・・散策中に出逢えて雑談をしているうちに、色々と興味深い竹原の昔話が訊けたのは束の間の高揚感であった。昔の地域・地区名、神社仏閣名、今は無き店舗名などを交えながらの会話は、お互いいつの間にか心置きなく竹原弁でのやりとりとなり、気が付けば雑談の域を超えていたことも多々あった。
 だが、年明けからは再び「孤独の散策」モードに逆戻り。「大波」は3ヶ月周期で訪れているので、ある程度は予想をしていたが感染対策への対応は毎回同じことの繰り返し。テレビ局や番組ではマスクどころかアクリル板さえも無くしているのに感染者は皆無。テレビ番組は陽性者数グラフの勾配で煽るよりも、如何にして感染者ゼロを維持しているかを「お茶の間」の全国民へ告げて頂ければ参考になるのだが・・・・とオドロオドロしく不快なナレーションや不協和音混じりの効果音・BGMを垂れ流す番組を避けながらザッピングしまくっている自分が嫌になっている今日この頃。

 せっかくの連休、「孤独の散策」での昼食は、独りでくつろげる場所を求めて探し回っていたところ明神の灯台突堤に辿り着いた。夏であれば灯台下まで行って行き来するフェリーを眺めながらコンビニで買ったサンドを頬張るのだが、さすがに真冬ではそれどころではない。その灯台下は金網フェンスが張られてしまい夏でも訪れる価値は半減してしまった。今回はクルーザーや釣船が係留されている場所に車を停めて、広島FMを聴きながらの昼食となった。(2022/01/11撮影)

 東野町辺りはみぞれ交じりの雨に見舞われたが、竹原町では外気は冷たかったが、運転席窓のみであれば開けても風が吹き込むことはなかった。竹原港に出入りするフェリーを穏やかな波に浮き沈みする桟橋辺りから眺めていた。
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 最近、広島FMを聴いていて特に気に入っている曲が「緑黄色社会」の「LandScape」だ。強烈なビートにスーッと抜けるようなファルセットのボーカル、これを聴きながらの海岸沿いのドライブはピッタリなのだが、現時点では配信ダウンロードでしか入手できないようだ。

 昼食?後に車外へ出てみたが真横から吹く風が寒い。いつもなら釣り人がいる突堤にもこの日は皆無。
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 波の音がする突堤の壁面を覗いてみると、この波浪と白波。分単位の周期で「大波」がやってきて飛沫(しぶき)が高く跳ね上がっていた。
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 この強靭な突堤のおかげで内側に係留されている船舶や桟橋は穏やかな波に浮き沈みしていたのである。これを書いていて何だか感染者数の「大波」の例えになってしまい自己陶酔してきたので、このへんでやめておく。

 光海神社の拝殿(舞殿)内に掲示されている「吉名のレンガ工場」パネルの解説によると、吉名で煉瓦造りが始まったのは明治28年で松本勝太郎氏によると書かれていた。『竹原聞きある記』にも詳細な解説項「吉名の赤煉瓦」があり、松本勝太郎氏による吉名初の工場と釜(登窯)は旧吉名煉瓦工場(平方湾の西側)辺り建てられた家内工業的な小規模なものであったと書かれていた。その後、沖辺(吉名漁港の東側の山)に池田吾一郎氏(池田勇人元総理の尊父)が建てられて、徐々に吉名に各煉瓦工場が増えていった経緯が詳細に綴られていたが今回は割愛する。その中で松本煉瓦株式会社においては大正13年に松本文浩氏によって創設されとある。
 また、「吉名のレンガ工場」パネルでは、最盛期には吉名と安芸津の2地区で中国地方の生産高の9割を占め、全国においては3割を占めて全国1位であったと書かれていた。現在、窯を稼働させているのは松本煉瓦の1社のみとのことである。なお、窯については吉名で初めてホフマン式輪輪釜を採用したのが吉名煉瓦工場で、梅ヶ浜の竹原マリン前にそびえ立つ赤レンガ製の煙突がその釜(吉名煉瓦4号釜)の名残りであり、経済産業省の近代化産業遺産として認定されている。

 さて、その現在の松本煉瓦工場には竹原方面から吉名漁港へ抜けるルートが2本あり、近いルートは工場敷地内を分断する細い山道で工場の市有地路かと見間違うありさま、もう1本は直角に曲がって海岸沿いを走るルートである。どちらも初めて通る場合は車を停めて躊躇するような分かりにくいルートである。

 昨年末に藤九郎神社を訪れた際、久しぶりに瀬戸内海の視界が開けていたので海岸沿いルートからの眺めを撮っておいた。(2021/12/30)

 煉瓦工場脇には赤煉瓦の長い塀が有り、ここが夕陽に映えると素晴らしい景観となるのだが、見事な夕焼けとなって塀が映える季節と日時には未だ訪れてはいない。
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 塀沿いの途中に離合場所があり、そこからの瀬戸内の眺めが素晴らしい。
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 遥か彼方に契島。
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 宗越方面にも連なる島々が望める。
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 道は海岸沿いで満潮時には波のしぶきが上がってる程に海が近い。水際には赤レンガを含む瓦礫が散在しており、古くからある煉瓦工場の名残りが感じられる。
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 また、このような如何にも工業遺産的な建造物の跡もあるのだが、煉瓦を海ルートで運び出していた設備の土台であろうか。
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 冬は太陽が沈む位置がズレて赤煉瓦の塀を夕陽が照らさないようなので、夏の時期に素晴らしい景観を撮りに行ってみる予定である。

 初詣は礒宮を参拝する予定であったが、今年は1月に日が変ってから深夜に写真を撮りに行っただけ。何かの書籍に「初詣は先ずは氏神様(その地域の守護神)へ参拝してから・・」と書かれていたのだが、自宅地域の氏神様が何処の神社になるのかが分らず正月が過ぎてしまった。結局、三が日に参拝したのは忠海の床浦神社の初詣だけとなった。(2022/01/03撮影)

 昼食がてきる店を求めて忠海まで来た際に、立ち寄った床浦海岸とその傍にある床浦神社。これまで床浦海岸へは何度も訪れているが、考えてみれば床浦神社を拝殿まで行って参拝したことは未だ無かった。

 ここは床浦海岸(宮床)に鳥居が建つ絶景ポイントである。
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 ここからの眺めは神々しい。
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 小学校時代に一度だけ海水浴に連れてこられたことがあるが、このようなビーチではなく石ころだらけの遠浅の砂浜だったと思う。浮き輪が石で裂けないかとヒヤヒヤしたのを缶かに憶えている。
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 岩乃屋の石風呂が在ったのはこの突堤を越えた先である。
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 ではこの海辺の鳥居から正式に参拝する。
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 鳥居の隅を潜って石段を登ると正面に宮床神社が見える。
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 立派な注連柱が建っている。
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 狛犬(吽形像)も立派。
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 こちらは獅子(阿形像)。
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 拝殿境内への石段を登る前に気が付いたが・・・
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 境内にはもう一組の狛犬と獅子が構えていた。
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 拝殿にて正式参拝を済ませて本殿を拝見。
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 右脇から本殿横まで行けるようだ。
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 併設の祠がひとつ。
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 これが本殿、この中に御神体が祀られいる。「竹原聞きある記」に文徳天皇斉衡3年の大地震で社殿が海中に沈み、醍醐天皇延喜7年に海底より光を出している石像を引き上げて御神体として再建されたと書かれていた。
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 拝殿の左側にも石段があり昇ってみた。
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 ここにも併設の祠が3社あり、「たけはらの神仏を訪ねて」によると蛭子神社と荒神社のようである。
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 本殿の造りは壮麗である。
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 ここから見下ろせば狛犬と鳥居が見える。
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 拝殿からの境内からも絶景。鳥居の右正面の島は大久島である。
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 鳥居や拝殿には神社名が見当たらなかった。この石碑が唯一の神社名のようだ。
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 広島県天然記念物「忠海のウバメガシ樹」の解説板も健在。しかし、未だにどの樹木がウバメガシなのか、どこにウバメガシが密生しているのかが分からないまま。
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 もしかして拝殿裏にあるこの樹木がウバメガシなのだろうか。
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 獅子の後ろには床浦神社の謂れについて書かれた看板も健在。
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 どこかに「疱瘡の神」であることが解説された看板が有ったと記憶しているが、今回は見当たらなかった。
後聖性天皇天平8年、日本に初めて疱瘡が流行するになった時、床浦神社にお祈りすれば必ず治るとの言い伝えが全国に広まったとされている。床浦神社の祭事「宮床祭り」が賑わっていた戦前の頃は、瀬戸内海の島々から疱瘡の祈願に訪れた舟で宮床海岸が埋まるほどで、境内の砂を持ち帰ったり、子供を額を海水で濡らして疱瘡に罹らぬよう祈願したと「竹原聞きある記」に書かれていた。
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 この床浦神社、あの豊臣秀吉が「文禄慶長の役」の時に立ち寄ったとされており、歴史的に重要な神社のひとつでもある。

 さて、太古に床浦神社が大地震で海中に沈んだとの記録があるが、ここは意外にも海抜約2.5mもある竹原市内では平均的な海抜である。南海トラフ地震の際には扇状地や海岸沿いは全滅となるに違いない。
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以上

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