安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

 旧竹原福祉会館の解体工事が始まってから約2ヶ月が経過。この付近の国道185号にて信号待ちをしていると、時折、大音響や微かな地鳴りを感じることもあり、建物の中では大規模な解体工事が進行中のようである。窓ガラスは全て撤去されており、外から見える窓の中では天井などを崩し落とす作業中であった。(2021/11/23撮影)

 ナフコ・藤三駐車場西側から
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 ナフコ・藤三駐車場中央から
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 ナフコ・藤三駐車場東側から
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 福祉会館入口から
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 国道185号「福祉会館前」交差点から
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 解体工事完了予定は来年のバレンタイン。現時点では建物外観の解体は未だのようで、組み上がった足場に防塵ネットが張られれば外観の解体が始まるであろう。「(仮)竹原中央緑地広場」、予価1億円超の整備(日刊建設新聞の見出しによる)なのだが、具体的な広場の設備や完成予想図などは未だ探せていない。

 今回図書館で借りた小冊子の数冊、返却日が近くなってきたので未読のものを見始めた。本日は竹原市役所にて1971年(昭和46年)に発行された『竹原 '71』を捲って懐かしい掲載写真を楽しんだ。
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 本小冊子は竹原市の現状(1971年当時)を写真と市勢データで紹介している。当時の市長は有原明三氏、竹原市役所落成から5年後である。貴重な写真が多数有るのだが著作権等もあるので転載できないのが残念・・・。以下に各章の内容について概要を紹介する。

沿革
 竹原小早川家の創設や頼春水・春風・杏坪の三兄弟が生れ、春水の子である頼山陽が生れたことを紹介している。昭和10年に呉線が開通して三井金属の操業開始等によって都市化、昭和27年に下野村、29年に東野村・大乗村と南方村、30年に荘野村と田万里村、31年に吉名村と賀永村、33年に忠海町と合併して市制を布いた。
 掲載写真は現竹中向いの水源地ポンプ場からの竹原市市街地、整地中の来須地区、広大な田畑の中に旧竹中と体育館、郵便局、電電公社、市役所、市民館が写っているが、三井金属の煙突は未だ「子たけたろう」だけ。

自然

 長く屈曲に富む瀬戸内海の沿線と300~500mの連立する山地に囲まれた竹原市。気候は温暖で降雨量も少なく晴天日多し、風光明媚な景色と天与の恩恵をえけている。
  掲載写真は海苔の養殖のようだが場所は書かれていない。久野島らしき島があるので忠海の宮床沖だろうか?

住まい
 1世帯に1住宅。市営住宅を777戸建設。
 掲載写真は小田山神社辺りの市営住宅と、阿批比か田ノ浦の県営住宅か。

上水と下水
 写真は現竹中はす向かいの成井水源地。

橋と道
 写真は賀茂川大橋(西小横)と、どこかの農道改良工事。

人づくりの場
 写真は竹原西小、昭和44年9月20日落成・開校。職業訓練校実習風景(造船)。


 昭和46年4月1日に開港(貿易港)の認可によって外国貿易の増加を期待。宗越の太郎ヶ鼻から長浜漁港までの区間が港湾法によって竹原港港湾区域となった。
 写真は外材を積んで入港する船舶と四国への近道フェリー(中四国フェリーの桟橋)。

みんな幸せに
 写真は、どこかの保育所、郵政省の保養センター(竹原簡易保険保養センター)、黒滝ホーム、芸南学園。

産業
 写真は福田町の貯木場(ツダモク)、広果連(忠海)、たばこ共同育苗(場所不明)、木工家具工場(協和?)、紡績工場(場所不明)。

あすをつくる
 写真は、建設中の竹原大橋(国道185号の呉線高架橋)と八幡橋・汐入橋。福祉センター完成予想図と建設基礎工事中(現在解体中の福祉会館)、建設中の下水終末処理場、建設中の港湾事務所兼内港待合所。

史蹟・観光
 写真は、頼惟旧宅、竹原小早川家墓地、普明閣、忠孝巌、ふとん太鼓、竹原屏風、町並み保存地区となる前の電柱が並ぶ本通り。

以上だが、1971年はどのような出来事があったのだろうか。
  • サイモン&ガーファンクル「明日にかける橋」がグラミー賞受賞
  • ジョンレノン「イマジン」、ジョンデンバー「故郷に帰りたい」が大ヒット
  • 「わたしの城下町」、「知床旅情」、「また逢う日まで」が大ヒット
  • 「仮面ライダー」、「ルパン三世」、「天才バカボン」、「国松さまのお通りだい(ハリスの旋風のリメイク)」放映開始
  • ホットパンツ、パンタロン流行
  • スマイルバッジ、アメリカンクラッカー流行
  • カップヌードル、チェルシー発売
 その頃の私の記憶・・・1980年代の近未来を描いたテレビ番組「謎の円板UFO」を熱心に観ていた頃だ。

 今週、竹原書院図書館で借りた小冊子の内、一番古い発行のものが昭和27年の『觀光の竹原』である。修学旅行に作った「旅行のしおり」のような16ページ程度のものだが、その中身は古い写真が全ページに解説付きで掲載されており、竹原の観光的な歴史を知る上では貴重な資料のひとつといえよう。(2021/11/09借り)

 最終ページに「不許複製」と書かれているので表紙のみを紹介するが、表紙は西方寺普明閣。裏表紙は内港(三井金属側)が描かれている。
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 本書は、竹原書院図書館司書の松浦魁造氏による編集で、写真撮影者は中村正務氏、発行人が広島県竹原町観光協会長の松阪昭二氏によるものであり、印刷所が芸南新聞社、発行所が広島縣賀茂郡竹原町役場である。
 最初のページには右書きの「史都竹原の全景」写真(普明閣舞台からか?)が載せられており、「頼山陽の郷土」、「小早川隆景の発祥地」の歴史的にも史都にふさわしい土地。瀬戸内に臨んで景観秀絶な土地、産業的には芳醇無比な酒造、優良な醤油、甘味なる葡萄、交通的には呉線の枢要地として急行上下が停車するところ・・・として竹原を紹介している。

続いて竹原の観光場所が以下の順に写真が解説付きで掲載されている。
  • 史蹟 礒の宮/忠孝碑
  • 長生寺/庚甲堂
  • 名勝 普明閣/安芸の小京都(普明閣舞台からの眺望)
  • 西方寺/道工彦文の墓
  • 史蹟 賴氏一門発祥の旧宅/竹原 賴 山陽/春風館
  • 町立図書館 竹原書院/賴山陽の詩碑
  • 照蓮寺/賴亨翁夫妻の墓
  • 芸南開聞岳 的場 高山の大観 内海第一展望/瀬戸内海観光の焦点 阿波島(竹原沖)
  • 鎮海山城/鎮海山古城跡/竹原葡萄
  • 和賀神社(小早川神社)/塩田
 これらの中で一番興味深いのは、リゾート化が頓挫した高崎沖の阿波島が「瀬戸内海観光の焦点 阿波島」として掲載されていたことである。そして発行年から69年後の和賀神社・・・。

 蘭島閣から竹原に戻って町並み保存地区などを散策。これまで土日でも閑散としていた各路地や通りには多くの観光客の姿、憧憬広場では着物姿のモデル撮影、公式ガイドの案内による外国人観光客なども見られ、少々寒い秋風が吹いてはいたが、何となく安堵の気分で町並みを散策することができた。
 その最中、新たな掲示物?を見つけた。「道の駅たけはら」から街並み保存地区へのアプローチ・ロードに旧町名が書かれたプレートが取り付けられていた。(2021/10/24撮影)

 先ずは「松屋二重焼」から県道75号を渡ったポイントから始まる「栄町(さかえまち)通り」のプレート。
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 もうひとつが、その西隣の路地である「享保町(きょうほまち)通り」のプレート・・・あれっ?なぜか「」が抜けて「享保通り」になっている。
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 ならば他の「✕✕通り」や「✕✕小路」にもプレートが有るかもしれないと、全路地の始点終点を探し回ったが見当たらず。楠神社に設置されていた以下の地図の最上部に描かれている「栄町通り」と「享保(町)通り」のみプレートが設置されているようであった。
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 既にgoogleマップには各旧町名に因んだ路地名が書かれているのだが、この旧町名の掲示パネルが掲げられたことは実に嬉しい。昭和生まれ同士の会話では「二葉のパン屋」が在った「享保町」とか「袋尻商店」が在った「栄町」のほうが直感的に分かり易いのだ。
 あれっ?確か「袋尻商店」は「京栄区」だったはずだが、上市や下市のような区画表記なら「京栄」で、その「通り」を表す場合には「栄町」となるのだろうか?そもそも「✕✕通り」という表現・表記を当時はしていなかったし、敢えて「旧」が付加されていることから新たに作られた「通り」名ではなさそうだ。これまで「掛町」とか「久保町」、「田中」とか「鳥羽町」とかのナニガシと呼んでいたが、地図に描かれていた旧町名になぜか違和感があったのはこの「通り」が付いていたからであったようだ。
 以上、プレートをネタに思い付くまま書いてみたが、それはそれとして、せっかくの旧町名による「通り」名のプレート設置、「栄町通り」と「享保通り」以外にも順次設置をして欲しい。

【追記:2021/10/13】
 宿根在住の知人から得られた情報では、名称は巨岩と球状の石込みで「仏石(ほとけいし)」とのことだ。いつ頃からここに有るかは依然として不明だが、一度だけ球状の石が無くなったことがあり、後ちに巨岩下辺りに埋まっていたのが見つかって元に戻されたとの伝説がある。なお、「仏」が付くことから道祖神ではなく地蔵菩薩(お地蔵様)として地域信仰されているのではと推測できる。


 国道185号線からの朝日山登山道麓に20数年前から気になっている奇岩がある。この奇岩は天池へと流れ出ている西ノ川沿いにあり、巨岩の上にサッカーボールサイズの球状の石が載った、いや、載せられたのかもしれないが、登山道からは非常に目立っている存在なのである。
 今回、久しぶりに朝日山山頂を訪れた際に、車を一時停止して奇岩を撮ってみたのだが、周囲には祠や解説パネル等は見当たらず、これが自然の物なのか人工なのかが依然不明のままなのである。(2021/10/05撮影)

 立ち寄ったのは朝日山山頂からの帰路であるが、赤いカラーコーンの先に見えている。
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 土台?になっている巨岩は西ノ川が豪雨や鉄砲水で荒れた際に、上流から転がり落ちてきた物なのか、元々この場所に埋まっていた物なのか、高さ1m幅✕幅1m✕奥行2m程度のサイズである。球状の石は巨岩が侵食して残ったようには見えないので、人の手によって載せられたとしか思えない。
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 以下は18年前に撮った写真であるが、この頃の奇岩の周囲は田圃だったようだ。(2003/12末撮影)
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 この奇岩について大井や宿根に古くから住まわれている知人に訊いてみたが、いつ頃からこの奇岩がここにあるのか、何か謂れがあるのかは分からないとの事であった。

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