安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

 新庄町の散策にて久しぶりに「葛子古墳(かづらこ・こふん)」を撮ってみようとしたが、相変わらず古墳の傍に車を停める場所が無い。以前に訪れた際は2009年の正月帰省、観光名所にリストアップされていたことからこの古墳や横大道古墳を撮るために竹原町から自転車を漕いで約1時間もかかった。
 古墳なので土を盛った小山のような墓を想定していたが、実際には山肌に掘られた防空壕のような横穴であったし、横大道古墳へは道案内が見当たらず到達できず。

 今回、葛子古墳を再度撮ろうとしたのは横穴の傍に新たに解説パネルが設置されていたからである。(2023/09/05撮影)
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 新幹線高架側から下って来ると「葛子古墳」の案内看板があるのだが・・・
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 路肩も路側帯も無い場所。ここへ停めたい時に限って後続車がいるので解説パネルが撮れない。
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 山頭火碑にてUターンして再トライするも、結局、停める場所が無くて撮影できず。
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 ところが今回、Uターン時に撮っていた動画を拡大してみると細長い看板を発見。「葛子古墳駐車場」が設けられていたことを初めて知る。
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 通りすがりでは目に留まらない。ガードパイプの切れ目に大きな矢印パネルがあるが、そのすぐ先には鉄格子の門がある。
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 googleマップの空撮写真で確認してみると、鉄格子の門は太陽光発電所の扉であった。・・・なので扉までの短い空スペースが葛子古墳駐車場であろう。ここに停めれば約50m歩けば葛子古墳まで行ける事が分かった。
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 新幹線高架下横の謎の廃墟を至近で撮りに行く際に、葛子古墳の解説パネルも撮る予定である。

 ちなみにママチャリで2009年正月に訪れた際に撮った写真も掲載。解説パネルは未だ設置されていない。自転車に乗っている自分と電柱の影が写っていた。(2009/01/02撮影)
20090102a

 この案内看板は現在と変わらず。この看板で「葛子」の読みが「くずこ」ではなく「かづらこ」だったことを初めて知った。また、パソコンで「くず」と打つと「葛」、「かづら」と打っても「葛」で漢字としては同じであった。
20090102b

 現在の古墳と見比べて欲しい。今は石積みされた横穴だが2009年に撮った写真は石積みは無い。長い年月で埋もれた土を取り除いて本来の姿を現したのか、そもそも古墳としての盛土だったのかは解説パネルを撮ってみて読めば分かるかもしれない。
20090102c

 そして2020年に「かぐや姫号」の車窓から撮った写真がこれ。解説パネルは未だ設置されていないことから、2020年以後に観光スポットとして新たに整備されたようである。整備前の全景を見ると古墳というよりは段々畑の横に掘られた防空壕か農具の物置にしか見えない。(2020/02/24撮影)
20200224a

 ネットで調べると中国新聞に「説明板看板」の記事(2021/05/31掲載)が見つかった。記事によれば古墳の盛土が流出してしまい横穴式の石室が残った古墳であることが分かった。また、石室の中まで撮られたサイト多数見つかった。そして撮りたい解説パネルも2023年夏に既に・・・撮られていた。東野町にある青田古墳の動画には驚いたが、古墳マニアの機動力はすごい!

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 ハチ(皆実)から葡萄園を貫いて消防署まで続く直道の呉線桁下(中須)辺りに神社と向い合せの地蔵堂がある。ちなみにこの桁下の制限高は元々は3.0mだったが現在は2.9mに変更されている。桁下の手前にある中須穀神社については何度か掲載しているが、今回はその向いにある地蔵堂について撮影した。(2023/09/26撮影)

 これがその呉線の桁下。
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 中央の桁下手前の右側が中須穀神社。左側にある地蔵堂が「新助地蔵」である。
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 「中須穀神社」がここ。平成7年に大改築されているが、その後に拝殿と本殿を全面塗装されている。
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 そしてこの地蔵堂が「新助地蔵」である。
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 ガラスに背景が映り込んで中の様子が撮れなかったが、中小8体の地蔵が安置されている。
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 古くから塩田であった中須地区が徐々に農地と宅地化。神社と供に塩田各所にあった地蔵がここへ集約
され、平成5年にガラス張りの地蔵堂が建立された。なお、地蔵堂の名称「新助地蔵」は世話人の名である。

-以上-

 本日は旧西幼稚園で行われている「竹灯り」作りを初経験。路端へ並べる竹筒(段違いの筒を結いたもの)や灯籠などは既に出来上がっており、残る大物としてはドリルやジグソーで孔を開けて模様や文字を描いた長い竹筒があった。私が今回受け持ったのはドリル孔による点描画の竹筒。各種サイズ長に切られた長い竹筒には予め孔を開ける場所に丸が描かれた紙が貼られており、作業としては孔サイズに従ったドリル刃で根気よく正確にひたすら無心になって孔開けするのみ。(2023/10/08撮影)

 連休中日、遥か彼方の普明閣舞台や旧西幼稚園道路沿いにも観光客がちらほら。クラウドファンディング用の取材写真として作業模様の撮影もされ、時折り小雨も降っていたのでテント(タープ)下での作業となった。
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 午前の1本目は花火。前日の続きか最小孔のみ既に開けられていたが、慣れていないせいで全ての孔開けを終えるまで2時間以上も費やしてしまった。大きい穴孔から始めるとか指定径よりワンサイズ小さいドリル刃を使うなどのプロからのアトバイスを受けながら、特に隣り孔とつながらないよう気を遣うことが最大の疲労であった。
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 午後から始めた2本目は梅?1本目の花火よりも難易度があがった。徐々にコツが掴かめてきたせいか隣り孔とつながる事無く全孔を開けを終えることが出来た時点で作業終了時刻となった。
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 各種サイズのドリル刃は各作業者とで共用しているので、他で使われていないサイズから開始。
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 孔マークを1巡目では1つ飛びで開けて行き、2順目はその間隔の中点をねらって開けることで隣接つながりを全て回避できた。なお、貼られた紙は別途水洗いで剥ぎ取られる。
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 孔の多さにはさすがに参った。マスクをしていると老眼鏡は曇るので使えないし、孔開けの最中は無意識に無呼吸になってしまう。電動ドリルを握りっぱなしなので右指がひきつるし、孔センターへドリル刃を合わせる左指先はドリル刃の摩擦熱で火傷寸前。(左手は手袋をドリルに巻き込む恐れがあるので着用不可)
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 初めての「竹灯り」作りは心地良い疲労と達成感で終了。また来週の作業日にも「竹灯り」作りに参加してみたい。

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 「憧憬の路」ポスター掲示場所を巡り中に旧岩本邸の暖簾が掛け替えられていることに気づいた。これまでは白地に黒い四角が4つ並んだシンプルなテザインだったが、新たな暖簾は白地に黒い英文字とロゴマーク2種。(2023/10/03撮影)
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 以下が、これまで見慣れていた旧暖簾(SAMURAI HOUSE-安芸竹原邸-)であるが、掛け替えられた時期は最近と思われる。(2022/11/29撮影)
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 新たな暖簾には「ReGACY Innovation Group」と「LOCAL INNOVATION ASSOCIATION」と書かれていた。詳細については以下のサイトを参照して欲しいが、旧暖簾の「SAMURAI HOUSESAMURAI INCUVATIONの竹原拠点)」からスピンアウトした組織で、平たく言えば新規事業(先進的・挑戦的かつ持続的な分野)を設立したい企業や移住者などへ、起業コンサルから自治体・地元産業企業との協働や経営までの総合的な支援・育成をする高度な活動組織のようである。
 竹原市では同組織と共同で起業から地元での実証までの工程を支援し、竹原市の観光や産業創出につなげて活性化を図る取り組みを今年8月から始めている。(定年退職以来久しぶりに読むビジネス用語満載の解説文章なので全く自信がない・・・

[参考サイト]
竹原DX
時事ドットコムニュース・・・ReGACY Innovation GroupとATOMica、竹原市にDX拠点としてRIG HOUSEを開設
・高専インキュベート委員会・・・KICとは


-以上-

 河内インター側から新庄町の新幹線高架下を抜け出ると、右手にコンクリート造りの巨大な廃墟が見える。1990年代の帰省当時から高架下を通る度に気になっているのだが、解体されないまま変わらない姿で30年以上が経過している。これこそ竹原市内における「超芸術トマソン」といえる建造物といえる。元々、これは何だったのだろうか?(2023/09/05撮影)

 ブロックを積んだ建造物ではなく、鉄筋が組まれたコンパネ型枠にコンクリートを流し込んで造られているようだ。
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 場所はこの高架下を潜って抜けた右手。 
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 何かの貯蔵庫にしては窓のような四角い穴が有り・・・
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 その隣にも何かの建造物らしき痕跡がある。
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 Googleマップで確認するとストリートビューが廃墟の至近を走っていた。ビュー画面をクローズアップしてみると害獣除けの電撃柵が張られて建物へは近寄れない。また、電柱本体ではなく敢えて電柱からの給電で壁面にLED式外灯が設置されているのだが、夜中に何を照らすのだろうか?

-以上-

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