安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

2019.11.29
 忠海町床浦の国道185号線海沿いにエデンの海パーキング・エリアができたのは1998年4月吉日。この辺りの国道は山を貫いて通っていた。いつの頃だったかは思い出せないが、金網張りの道路の法面が崩れた災害があり補修工事で残されていた一部分にP.Aができた。そのP.A工事中の写真がこれである。1998年正月に訪れた時はトイレと東屋を残すのみで、既に完成していた駐車場や展望台は開放されていた。

 1枚目は東側の忠海高校と送電鉄塔、2枚目と3枚目は正面の記念碑「エデンの海」と作家・高橋玄洋著・筆(忠海高校出身/脚本家・劇作家)による碑の解説である。4枚目は丸太モドキのコンクリート柵の先に見える霞んだ大久野島、最後は西側の山影に覗く電発であり、国土交通省が選定したフォトスボットの1つなのである。
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#04-08:エデンの海P.A(1998/01/03撮影)

  その年のGW帰省時に訪れた時は完成直後だった。小高い山頂にある東屋前にこのようなパノラマ眺望した島々の絵地図パネルが追加設置されていた。GW頃は霞みのせいかクッキリ見える日は少ない。(註:1枚の写真に納まりきらない幅だったので5分割撮影して結合したものを添付)
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#01-02:旧眺望地図(1998/04/28撮影)


  それから2009年までP.Aで撮った写真は見つからなかった。関東から自動車で帰省していので何度もここを通っていたはず。駐車場はフルではなかったが、大抵は展望台の東屋に誰かが弁当持参で長居していたせいで立ち寄らなったのだろう。また、2009年後は背面の山からの眺めのほうが遥かに良かったので、以後P.Aからの眺望写真撮影はしなかったようだ。よって後にも先にも2009年以外はまともな写真はないのである。

  完成から11年が経過した2009年の写真を紹介する。カメラの解像度も高くなり、碑や景色もかなりクリアに撮れる時代となっていた。被写体自体は特に大きな変わりは無いだろうと思っていたが、パネルが御影石の新バージョンに変っていたのをブログ記事書込み時に初めて知る。変わった経緯はもちろん分からない。同様にこれも1枚には収まらず分割撮影されていたのでフォトショで結合してみた。 
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#03:新眺望地図(2009/08/07撮影)


  続いて国土交通省の写真が撮れるパーキング「とるぱ」。パーキングとフォトスポットがセットになった場所でここは34-0009のナンバリングである。
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#a01-a03:とるぱ(2009/08/09撮影)

 

 次はP.A完成日を記念した標である。奥に忠海高校の生徒が清掃しているトイレも確認できる。
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#a04:完成日(2009/08/09撮影)


  高橋玄洋の書である碑「エデンの海」、裏面には寄贈者が掘られている。また、碑の右横に有る高橋玄洋著の説明も拡大版を載せておいた。
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#a05-a07:高橋玄洋による書の碑(2009/08/09撮影)

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#a08-a09:高橋玄洋著による碑の説明(2009/08/09撮影)


  そしてP.Aからの眺めはこのような感じ。180度パノラマであり、真下を覗けば海岸もある。ここから誰が撮ってみても同じようなアングルで同じような被写体の写真となるのである。プロやカメラ趣味オヤジが最高の機材で最高の腕でここから撮れば素晴らしい写真がとなるので、素人が真似しても太刀打ちできないスナップショットばかりとなる。空気感まで写るカールツァイス製レンズなら尚更であろう。
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#a10,11,13,14:エデンの海P.Aからの眺望(2009/08/09撮影)


  2009年の夏、エデンの海P.Aの背面の山頂上にあったカフェ「Belle Vue カフェ エにデンの海」を家族で訪れた際、庭からの眺望の美しさに息を呑んだ。土日しか営業されておらず、エデンの海P.Aから見上げても建物は見えない位置にある。勝手に庭には入ることはできないが、途中までの道ならばこのような写真が素人でも撮れるのだ。それを知ってからはP.Aの東屋まで登ることはなくなった。
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#b01-b04:ベルヴュー下(2011/05/05撮影)


  そこまでしなくてもP.A東側にある忠海高校がロウボート大会で使う海岸に下りれば、このような落ち着いた景色も撮ることができる。
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#c01-c04:忠海高校向いの海岸より(2011/05/05)


  さてなぜ「エデンの海」なのか。その由来には諸説あるようだが1950年に公開された映画「エデンの海」は忠海高校(当時は女子高、1949年に共学となる)が舞台となったことが起源と親から聞いている。小説「エデンの海」(著:若杉慧/1946年)を松竹が映画化したもので、後に日活や東宝が同一題材で2作を制作している。

 忠海高校が舞台となった第1作は、主人公の教師が鶴田浩二、ヒロインの女生徒は藤田泰子。東京から忠海女子高校へ赴任してきた教師と、気が強く自由奔放な女子高生が徐々に惹かれて恋に落ちるストーリーで当時としては爽やかな青春映画であった。

 ロケは忠海高校~忠海駅付近、エデンの海P.A付近の山、海岸と沖である。ヒロインと教師が馬に乗るシーンは、忠海高校の校庭でトラックの荷台を馬に見立てて走らせて撮影された。一般公開でロケされたので私の母は生で撮影中の鶴田浩二を見ており、三原の映画館で鑑賞している。この辺りの海は忠海高校の校歌にもある「味潟海」と呼ばれており、広島出身であったこの小説の作者は楽園のような忠海の景色に惚れてアダムとイブが暮らすエデンの園から小説名を「エデンの海」としたとの説がある。

 昭和時代の竹原に有った映画館「新栄座」(現在は道の駅P)で、当時放映されたかは不明だが、放映後に廃棄されずに保存されていた16mmフィルムが1997年に奇跡的に忠海で見つかり、竹原市民会館で公開上映された経緯がある。これは1950年版ではなく、1954年に新東宝にて再配給された「エデンの海より 青春の告白」のようで、後に松竹にてHDレストアされたものが2013年10月に衛星劇場でTV初放映(再放送含め2回)された。

 私はこのレストア版の放映時に石巻へ出張中であったが、出張先で当日放映されることを偶然に知って開始30分前にケーブルテレビへ追加視聴契約を済ませ、即家族へ電話連絡してギリギリで録画に成功した。画像音声共に状態はかなり悪かったが、国道が未だ通っておらず校庭がそのまま海岸へつながっていたり、木造の倉庫が映っていたことや駅前の大通りなど珍しい映像を目にすることができた。

 2作目は1963年公開(大映)の高橋英樹と和泉雅子、再び忠海高校が舞台でリバイバルとるはずだったが、高度経済成長の波で竹原はロケに適さなかったらしく他の地区へ変ったようだ。3作目は 1976年公開(東宝)で山口百恵と南條豊である。どちらもストーリーやロケ地については竹原とは無関係で調べてはいないが、アマゾンなどで探せば3作目なら購入できるであろう。一応、1作目を録画した証を載せておく。
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#d01-d03,d06:エデンの海より 青春の告白(2013/10/03 CS衛星劇場放映 制作:松竹)

2019.11.28
 演歌のタイトルに有りそうな名、この渡逢橋は楠神社向かいの本川に架かる橋である。観光などで新町観光駐車場へ停めたなら保存地区へ近いのでここを利用するであろう。旧日の丸写真館がコースにあれば住吉橋。道の駅Pならばどちらも渡ることは無かろう。
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#w01-w02:渡逢橋の銘板(1998/05/04, 2003/08/11撮影)


 この橋名の漢字「逢」だが作詞の経験者なら使ってみたい漢字といえる。だが時間や瞬間を「とき」、明日を「みらい」、出航を「たびだち」と読ませたがるフォーク/ニューミュージック系の作詞とは系統が違う。どこそこで「会う」ではなく、バッタリ「遇う」でもなく、ヒドイ目に「遭う」でもない。巡り「逢う」に使われる演歌系の漢字なのである。離れ離れとなった男女が巡り巡って必然的にこの橋を渡って出逢うのである。玉置宏の絶妙なタイミングで曲紹介された演歌が聞こえてこないだろうか?

 もしもこの渡逢橋のデザインが、普明閣の欄干風か古庭橋風であったら橋名の由来次第では歴史文化的建造物の仲間入りをしていたに違いない。

 この橋の歴史は古い。よく目にする竹原の古い屏風絵地図を見ると本川に架かる橋は、この北にある山陽橋(漢字は未確認)と渡逢橋のたった2本しか描かれていない。省かれた可能性もあるが、如何にも歴史が有りそうな住吉橋さえもなし。

(2019/12/01追記:大正15年地図では未だ番屋橋は無く、その上流の大原産婦人科医院と柿井酒造場前の橋有り。大原産婦人科は林住宅となった後に現在は売地、柿井酒店となって橋は現存するが橋名は不明)

現在、本川に架かる橋を分かる範囲で北から南へ順番に

・橋名不明(中通小へ続く橋、中通へ抜けて更に安田医院へ)

・橋名不明(尾道商店跡地前の橋、中通へ抜けて更にエネオスへ)

・橋名不明(柿井酒店角のT字路に架かる橋)

・橋名不明(林住宅跡地の私有橋)

・番屋橋(大広苑裏の先、江戸時代ここに番屋が有った)

・一本橋(大広苑裏に2003年頃まで有った木製電柱を束ねた橋

橋名不明(3本ぐらい木製の私有橋

・古庭橋(西幼稚園近くに最近できた)

・山陽橋(藤井酒造に近い、最近まで銭湯の地蔵湯が有った)

渡逢橋(楠神社向い)

・住吉橋(旧日の丸写真館向い)

・新湊橋(道の駅のはす向い、新港橋名の地図もある)

・本川橋(道の駅P向い)

・日本橋(オリオン三叉路を本川側へ)

・八幡橋(礒宮鳥居前の歩道橋下)

・汐入橋(汐入川踏切を渡る前)

・汐入川橋梁(JR呉線)

・扇橋 (汐入川踏切を渡った先、珍しいアーチ状)

・竹原大橋(汐入橋、汐入川橋梁、扇橋の高架/1971年3月建造)

がある。本川の約2.5km区間にこんなに沢山の橋が有りながら歴史ある橋は2本しかない。(註:本川は途中から汐入川のようだ。因みに番屋橋辺りは番屋川、竹中辺りの賀茂川は成井川と呼ばれていた。)

 

 渡逢橋そのものは何の変哲も無いコンクリート製で鉄の欄干だが、ここからの眺めは北側も南側も何だか懐かしさを感じてしまう。特に北側の景色は素晴らしい。緩やかに右へカーブした流れ、鏡面のような緑色の水面に映り込む民家群と空、遠く向こうには朝日山もある。浅そうで深そうで人を寄せたがらない威圧感。そして保存地区とは逆に「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさと既視感が漂う写真が撮れるのである。また、向こう側にある山陽橋からの眺めも同様に素晴らしい。この両橋から撮り続けた写真が多量にあるので一部を時系列で紹介する。 

 

****1998年****
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#w02:渡逢橋から(1998/05/04撮影)


****2003年**** 
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#w03:山陽橋から(2003/08/10撮影)

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#w04:渡逢橋から(2003/08/11撮影)

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#w05:山陽橋から(2003/08/11撮影)

 ****2004年****
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#w06:渡逢橋から(2004/05/03撮影)

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#w07:山陽橋から(2004/08/01撮影)

 ****2008年****
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#w08:渡逢橋から(2008/08/17撮影)

 ****2010年****
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#w09:山陽橋から(2010/08/05/04撮影)

 ****2011年****
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#w10:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w11:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w12:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w13:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

 ****2014年****
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#w14-w15:山陽橋から(2014/08/17撮影)

 ****2015年****
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#w16-w18:渡逢橋から(2015/01/03撮影)

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#w19:渡逢橋から(2015/08/09撮影)

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#w20-w21:山陽橋から(2015/08/09撮影)

 ****2017年****
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#w22:渡逢橋から(2017/08/11撮影)

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#w23:山陽橋から(2017/08/11撮影)

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#w24:渡逢橋から(2017/08/13撮影)

 ****2018年****
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#w25:渡逢橋から(2018/08/26撮影)

 ****2019年****
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#w26:山陽橋から(2019/05/01撮影)

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#w27:渡逢橋から(2019/10/17撮影)

  以上、1998年から2019年まで21年間の定点観測的撮影となった。潮の満ち引き、季節、天気および撮ったカメラで違いは出ているが、21年間が経過しても「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさや既視感が漂う場所なのである。

 2019.11.25

 以前の記事「レトロな写真入れ」で紹介したマスコット写真機店の古いフィルム袋に入っていたフィルムだが、フィルムそのそのではなく実家のタンスの引出しに保存されていたフィルムを、かなり前の帰省時にデジカメでマクロ撮影したものがある。フィルムはいつ捨てられたのか、各種写真入れを含めて実家にはもう無い。あの時フィルムも含めて我が家へ持ち帰っておけば良かったと後悔している。そのフィルム入れ(全掲載としは異なる)の写真と入っていたフィルム3コマ(状態良好のもの)がこれである。

 カメラや機材についてはずぶの素人だが、遠い記憶では薄い硫酸紙にフィルムが入れられて下の紙袋に詰め込まれていたはず。フィルムを光に透かすとネガだったのでカメラのネガポジ反転機能を効かせて撮ったような記憶がある。
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#01-03:マスコット写真機店フィルム入れ(2004/01/04撮影)

 

 これ以外にも2枚フィルム(計6コマ)を撮ったものがあっが画質は劣悪。その中で何が写っているかが分かるも4コマがこれら。
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#04:フィルム(2004/01/04にフィルムを撮影)

  上から順番に5コマ分は普明閣であり、残る2枚は礒宮八幡神社(鉄砲水による本堂倒壊前)での撮影である。被写体は着物姿が私の母と祖母だが他は母方の親戚の誰かだろう。男女の子供以外は何となく面影がある親戚がいる。

  さて、いつ頃の撮影なのだろうか。たぶん昭和30~32年頃だろうが、なぜこのような馴染みのないフィルムを使うカメラで撮ったのか、撮影当時はこれが主流だったのか。またこれを使って誰が撮影したのだろうか。もうそれらを知るすべはない。

 フィルム入れには「FOR USE OF FILM120. 620」と書かれている。Wikiで調べてみると120フィルムと620フィルムの2種があり、一般的な中判カメラて使用されるのが120フィルムと解釈した。フィルムが入っていた袋の横幅は約20cmであり、フィルム映像は正方形の3コマ幅だったので別名がローライ版となるようである。もう一度言っておくがカメラや機材についてはずぶの素人なのでつつかないで欲しい。

 次に気になるのが袋に描かれている二眼レフのカメラ。レンズの上辺りの読み取れる文字「ROLLE???EX」から「ROLLEIFLEX」と推測。ローライフレックスという2眼レフで120フィルムを使用する仕様であり、撮影すると正方形のコマとなるようだ。レンズ交換はできないが、どこかの海外製スマホメーカーがカールツァイス製レンズの使用をうたい文句にした機種があった程度の知識しかない。このレンズは空気感まで撮れるとのこと。それにしてもファインダー?部を引き上げるとデカいこと、標準サイズのティッシュ箱を縦に持つぐらいなのである。

 更に「SIX.SEM」だが「SIX」は 6mm 正方形の 6x6 判を示しているようだ。だが「SEMI」については分からなかった。

 以上の結果を総合すると「どこかの誰かがローライフレックスを使って普明閣と礒宮で母と親戚を撮ったフィルムだった」と言える。そしてこれを現像したカメラ店がマスコット写真機店となる。

 松江出身の会社の同僚が趣味で2眼レフカメラを持っており、30年ぐらい前に横浜ベイブリッジまで一緒にドライブした際に大黒埠頭から夕陽を背にした橋を撮っていたのを思い出したが、自分は35mmフィルムそれもハーフとなるカメラを多用していたので珍しい写真を見せてもらったのを思い出す。だが夕陽がモノクロだったせいなのか空気感とやらは感じなかった。大学時代の呉の友人にはリバーサルとかいうポジ型フィルムで景色や人物を撮っていた奴がいた。高校時代の吉名出身の友人はプロカメラマン兼撮影教室を営んでいた。美人モデルを呼んでは普明閣や町並み保存地区などで撮影会を開催していた。保存地区を背景にした着物と和傘の被写体はのカレンダーにしたいぐらいの出来栄えだった。もう15年ぐらい前になるが、久々に会ってジュイフルで「竹まつりで個展を開いてみては?」と昼食しながら薦めたことは叶わぬ遠い思い出となった。

 

 なお袋に書かれた店名「マスコット写真機店」だが、これは現在「きり屋」のまた隣りにある「マスコット写真館」の旧店舗である。この旧店舗があった住所は「広島県豊田郡竹原町日本橋通り」で、別所時計店の向かい辺りだったと聞いており、母方の親戚はこの旧店舗をよく利用していたようだ。もう旧店舗の痕跡は無いと思われるが、オリオンの三叉路から本川を渡る日本橋までの中間辺りにショーウインドゥに「丸時計(この記事の中ほどを参照)」だけが置いてあるのが別所時計店。このはす向かい辺りに有ったことになる。

 よって、旧店舗が残っているうちに移転を知っていたなら撮れた可能性もある。だが、移転後の店舗は建て替えされており、建て替え前の写真が98年夏、看板やテントの経年変化の具合だとデジカメを手に入れた96年以前の移転の可能性が高い。その建て替え前と建て替え後の写真がこれである。
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#05-08:マスコット写真館

 2019.11.24

 2014年9月から放映が始まった「マッサン」。まさか竹原が朝ドラの舞台となるとは・・・。我が家での「マッサン」はこのドラマから始まる。それは2010年後期の朝ドラ、尾道が舞台となった「てっぱん」である。ずっと竹原は尾道のサブキャラか添付品的な扱われだった「時かけ」のように竹原がロケ地として使われているか期待しながら観ていた。しかし、なぜか舞台は無駄に大阪と尾道を行き来するだけ。

 もしも竹原が舞台となったら誰がモチーフとなるのだろうか?と想像を巡らせながら、頼山陽の妻?ちょんまげ時代は朝ドラになりはしない。そもそも竹原生まれではない。では池田勇人の妻?政治絡みは朝ドラ向きではなさそうだ。平山画伯の妻?竹原ではなく瀬戸田が舞台、となると残るは竹鶴政孝の妻リタぐらいだが外国人なので前例がない。だが敢えて日本人妻に代えてのストーリーならばなどと、かなわぬ期待を話しながらお茶をすすって「てっぱん」を観ていた。その冬の竹原帰省2010年12月末、Uターン時の竹原駅跨線橋でこのポスターを見つける。「鞆の浦・尾道への誘い」のようだ。やはり「竹原」はどこにも見当たらない。
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#01:でっぱん@竹原駅(2011/01/04撮影)


  跨線橋から竹原駅ホームに下りると「竹鶴政孝は竹原で生まれ育ちました。」が冬の寒空にたなびく煙突の煙と一緒に物悲しく迎えてくれた。
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#02:ニッカウイスキーのパネル(2011/01/04撮影)


 今までこのパネルに気をとめたことは無かったが、2日前に駅前の「飯兵衛」で行われた同窓会で見付けたこの「ポスター」を思い出した。これは何かの兆しなのか?これまで竹鶴酒造の玄関にある解説板に「因みにレベル」で書かれるぐらいだった竹鶴政孝を「竹原生まれ育ち」に格上げしたものが増えてはいないか?それとも気が付かなかっただけなのか。
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#03:飯兵衛のポスター(2011/01/02撮影)

 
 そして2011年のGW帰省。竹原は2010年11月にリリースされた「たまゆら」(OVA版:ビデオ販売限定)でアニメファンが訪れ始めた頃だった。「竹まつり」の竹鶴酒造は毎年恒例となっている横山大観の金屏風と甲冑展示と試飲販売。説明板の「ニッカウヰスキーの創生者、竹鶴政孝の生家でもあります」には特に変りは無かった。

 GW帰省直後、色々とメールでやり取りしていた竹原出身の方から「余市を訪れました」の写真が現地から届く。だんだん竹鶴政孝の濃度が増してきた。
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#04-09:余市のニッカ工場訪問(2011/05/21受取)

 それから竹原は2013年秋まで「たまゆら」(TV版:2011年1期+2013年2期)が最盛期となる。その最中、2013年6月の滝川出張の際に新千歳空港にて久々に竹鶴ゆかりに触れ、夏の帰省では「道の駅たけはら」でも「竹鶴政孝は竹原出身です」に出逢ったのである。 
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#10:新千歳空港(2013/06/05撮影)

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#11:道の駅たけはら入口(2013/08/10撮影)

 
 その2013年12月の帰省、正月を待つ竹鶴酒造にも遂に変化がみられた。竹原郷土文化研究会による「竹鶴政孝物語」が格子窓に貼られていたのを見付けた。画質が悪くて読めないが、この時は未だ「マッサン」については書かれてはいなかったと思う。
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#12-14:竹鶴酒造(2013/12/31撮影)

 2014年が明けた春、朝ドラは赤毛のアンを和訳した村岡花子がモデルの「花子とアン」が始まる。たぶんこの頃だったのだろう。もう忘れてしまったが秋の朝ドラの舞台が竹原に決まった事を知る。それも竹鶴政孝と妻リタの物語である。あの2010年冬の「てっぱん」から4年が経過した2014年の春「たられば・・」だった「竹鶴政孝が生まれ育った」の竹原が舞台の朝ドラが現実となろうとしていた。

・2010年秋~2011年春:「てっぱん」(主演:瀧本美織)

・2011年春~2011年秋:「おひさま」 (主演:井上真央)

・2011年秋~2012年春:「カーネーション」(主演:尾野真千子)

・2012年春~2012年秋:「梅ちゃん先生」(主演:(堀北真希)

・2012年秋~2013年春:「純と愛」(主演:夏菜)

・2013年春~2013年秋:「あまちゃん」(主演:能年玲奈)

・2013年秋~2014年春:「ごちそうさん」(主演:杏)

・2014年春~2014年秋:「花子とアン」(主演:吉高由里子)

 

 これは現実か、それとも、ただの幻なのか。

 

 竹原帰省するまでは半信半疑だった。そしてGW帰省にて「道の駅たけはら」と竹鶴酒造を訪れた時に撮った写真で確信した。だが訪問者がこの小さい1行の「放送予定」を見付けるのは困難であろう。GWの「竹まつり」は例年の人出とイベントで普段と何ら変わりはなかったが、地元の知人に尋ねると「そうなんよ~、びっくりしとるんよぉ~」と笑顔が絶えない。アニメ「たまゆら~もあぐれっしぶ~)」のテレビ放送も昨年秋に終わって訪問者数が平常に戻ってきた頃である。
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#15-16:道の駅たけはらの放送予告(2014/05/04撮影)

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#17-18:竹鶴酒造の放送予定(2014/05/04撮影)


  GW帰省から帰ってきても「マッサン」が始まるのが待ち遠しくてたまらない。竹鶴酒造の杜氏ドキュメンタリーが実はCMだったり、千葉県柏市のニッカ工場イベントを訪れたりして、竹原の盛り上がりに期待しながら夏の帰省までを待ち遠しく過ごした。
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#19-21:ニッカ柏工場地域ふれあい感謝デー(2014/05/25撮影)


  そして2014年夏帰省、放送開始まで2ヶ月を切った。台風接近間近で小型船舶は陸に上げられ、新しくできた「海の駅」を訪れると欠航中のフェリー2隻を抱き合わせて高波の回避準備をしていた。そこでこの「竹鶴政孝を語る」講演会があることを知り、2階を訪れてみると未だ準備中。受付にてパンフレットと資料を貰って開催時間まで売店でサンドとアイスを買って待つことにした。

 会場は50席程度あってほぼ満席となり、来賓も多数の講演会が始まった。ここで竹鶴政孝の家系図、池田勇人との旧制中学(現忠海高校)時代、リタとの出会い、鳥居信治郎のサントリー入社から大日本果実までの経過、それと「マッサン」の撮影逸話など、2000年頃に竹鶴政孝の苦闘と栄光を綴った『ヒゲのウヰスキー誕生す』(川又一英著、新潮文庫)を読んではいたが、書かれていた内容以上のとても濃い講演会であった。

 なかでも賀茂川河口にある(ハチ側とは逆)山に迎賓館を造る壮大な計画が頓挫したエピソード、ドラマでは竹鶴酒造の跡取りであったが母親が手伝っていた本家の竹鶴酒造のほうが実家より子供を産むのに良環境であったことで、単にここが生家となっただけ。本家には後継がいるのでウイスキーに造りについては反対されるような関係ではなく、リタとの結婚も泉ピン子から「みとめまへん」じゃ無くて、一緒に手をつないで歩くほどの仲だったらしい。政孝の実家は桑原医院辺りに有ったらしいので歩いて5分程度、家系図はこの逸話の為に用意されていたものだ。

 これらドラマと実際との違いも知っておいてテレビを観るのも面白そうだ。なお、講演会で受付と案内をされていた前川酒店の方と、翌日、お好み焼き店で偶然隣り合わせになり、竹原市の町興しには欠かせない前川酒店の製品開拓力と粘り強い努力を知る。その講演会の資料がこれらである。
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#22-27:「竹鶴政孝を語る」講演会(2014/08/09撮影)


  9月、あと半月で放送開始となる前に再び法事で帰省した。その際に飛行機内の席にあった無料雑誌の竹鶴政孝特集にも「マッサン」の予告記事があった。
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#28-30:北海道応援マガジンJP-01(2014/09/13入手)

  9月の竹原の街は予想以上に「マッサン」で溢れていた。広島空港から安全タクシーのジャンボタクシで竹原駅まで下ってみると、街のいたるところに「竹鶴政孝のふるさとへ」の幟、駅や壁にはNHK公式のポスター、松阪邸の入口まで立て看板があった。たった1月の間に竹原は「マッサン」一色となっていたのである。
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#31:竹原駅のポタスー(2014/09/13撮影)

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#32:大広苑の幟(2014/09/13撮影)

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#33:松阪邸の立て看板(2013/09/13撮影)

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#34-36:道の駅たけはらのポスター(2014/09/13撮影)

  これが「道の駅たけはら」で買ったのミニボトルの「竹鶴17年」と「竹鶴ピュアモルト」、それに前川酒店プロデュースの竹鶴トートバッグ(竹鶴酒造版)である。このミニボトルセットは3種類の中から2本を選んで詰めてもらう販売であった。

 この頃は自由にウィスキーが買えたのだが、この「マッサン」が起爆剤となったのか後にウィスキーブームとなって海外でも日本ブランドが大人気となり、買い占められて高値で取引されることになるのである。千葉県の柏工場で「余市」と「宮城峡」がブレンド&熟成されて造られた「竹鶴」ブランド、もうその樽が空となって入手困難な状態となった。この2本セットも竹鶴17年180mlだけで現在はヤフオクで¥6000もするのである。封を切らずにずっと実家に保管しており、代わりに前川酒店で買った「余市」や「宮城峡」を飲んでいる。以前に飲んだ「竹鶴12年」と比べると「余市」はかなりスモーキーのようだ。(「マッサン」で知った用語)

 そして竹鶴酒造のトートバッグ、これは出張時にノートパソコンや資料を入れて持ち歩くのに使っていた。もう2代目を使用しており他にも黒い龍勢版も購入済み。このトートバッグ、持ち歩くだけで人を寄せ、何度も初対面の人との話のきっかけも作ってくれている。すれ違う見知らぬ人から「あの~それはもしかして?」や、出先のお客様から「えっ!これって竹原の竹鶴ですか?実は日本酒ツーでして・・」となる。 
#37
#37:竹鶴ミニボトル(2014/09/13購入)


  そしていよいよ2014年9月29日、予告編は数日前から見ていたが「竹原編」がスタート。全150回に加えて特番やスピンオフあり、主題歌CDも購入した。勿論、関係した番組は見つけ次第録画してBDへ保存済み。主題歌は新たな試みなのか中島みゆきを起用、いきなりバグパイプのイントロで始まる。他の主題歌で有りがちだった変な発音(例:たちつてと→た、ちゅぃ、ちゅ、とぅえ、とぅぉ)の歌い方や、ガラガラ声で聞き取り難解、詞と合わない抑揚や単語切り(メロ先にありがち)だったら幻滅していたに違いない。力強いソロは一度聴くだけで景色も浮かぶ。

 セリフも問題なしのレベル。西田尚美が演じた亀山政春の姉は福山出身のせいか違和感ゼロ。関東の番組で「たけはら」の発音にありがちな元ボクサー竹原慎二や竹原ピストルの「」だったら即失格。唯一残念だったのが方言(おくにことば)指導なのか時代考証によるものなのかセリフ「結婚はみとめまヘン」のみ。あの時代だったら「ヘン」だったのかもしれないが「結婚はゆるしたらんど」か「結婚はゆるさんけんね」ぐらいで良かったかと思う。 

 ふと考えてみたらご本尊のNHKを一度も訪れないまま番組が終わってしまっていた。売店には色々なショップ限定グッズが有ったに違いない。「竹原で生まれ育った」だけに竹原だけにフォーカスしていたのが悔やまれる。

 

 ドラマが半分終わった2014年の年の瀬。「マッサン」フィーバーは広島県広域にも拡大していた。それらを撮った写真を沢山紹介する。先ずは新幹線で帰省した時の広島駅で見付けたもの。真ん中に立って記念撮影する竹原セットが作られていた。このセットは後に「道の駅たけはら」に出張していた時があった。
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#38:広島駅の記念撮影コーナー(2014/12/29撮影)

  広島駅から竹原に戻ってみると9月から激変していた。いよいよNHKの公式ポスターの登場である。
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#39-40:道の駅たけはらも公式ポスターに貼りかえ(2014/12/30撮影)

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#41-44:竹原駅もマッサン仕様(2014/12/30)

 
 一番驚いたのが次の「マッサン」列車である。呉線の運用時間を聞いていたので竹原駅で20分間待ち伏せ。到着したときは「竹原」の文字に感動。もちろん再度、時間を調べて一駅分だけ乗車もしたがその時の写真が見つからない。社内は全て「マッサン」づくしだった。
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#45-48:マッサン列車(2014/12/30撮影)

  2011年正月明けに撮った竹原駅の「竹原で生まれ育ちました」は、このパネル1枚残して他は全て撤去されていた。後に白いフェンスとなるのだが、なぜこれだけ残されていたのかは誰にも聞いてはいない。 
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#49-50:竹原駅のパネル(2015/01/04撮影)


  竹原市役所の駐車場には「マッサン」仕様の幟と「連続テレビ小説マッサンゆかりの地」垂れ幕も登場していた。
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#51-52:竹原市役所にも「マッサン」(2014/12/31撮影)


 どこの朝ドラ聖地でも同じようだが、「マッサン」名が使われたグッズや菓子の製造元を見ると必ずしも地元とは限らない。地元製造も探してみたのだが、竹鶴政孝に因んだものでは市川の「ウヰスキーケーキ(竹鶴17年使用)」と、この末広堂の「ウイスキーとハチミツ檸檬のブラウニー(竹鶴政孝さんのふるさと竹原)」しか見つからなかった。会社へのお土産ならばと「マッサン」に因んだ製品の証として「政孝とリタ」シールを貼ってくれた。
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#53:末広堂の土産(2015/01/04購入)


  2015年の2月、ドラマ後半も半分過ぎて「マッサン」の舞台は余市がメインとなる。この頃は全国的にも「マッサン」の知名度が上がり、竹原が画面に登場することは少なくなったが次のNHK小冊子に「竹原」が登場していた。2015年3月28日「マッサン」最終回の日に九段下にある博物館へ家族で訪れたときに無料配布を持ち帰ったものだ。この特集は「余市」でも「山崎」でもない「竹原」なのである。
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#54-55:ステラ特別総集編「マッサンを育んだまち竹原」(2015/03/28入手)


  毎日が楽しみだった「マッサン」がとうとう終わってしまいスピンオフ・ドラマも流れたが、暫くの間「マッサン・ロス」が続いた。2015年のGW帰省では、すっかり普段の竹原に戻っていた。余韻は「道の駅たけはら」に広島駅にあった竹原セットが置かれていたぐらいであろうと「竹まつり」の終わった後、ぶらりと保存地区へ出かけてみたら竹鶴酒造がこの通り「竹まつり」のような賑わいとなっていた。
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#56-57:マッサン終了後の竹原(2015/05/03,05) 


 かなり前から情報は得ていたが「マッサンとリタの像」の設置場所が「憧憬の広場」に決まった。竹原駅前、竹鶴政孝の実家前、元々頼山陽像があった村上ベーカリー前、広銀跡、竹鶴酒造近くの松阪邸と色々予想していたが、歴史民俗資料館横の広場に決まった。これがその銅像である。 
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#58-60:マッサンとリタ像(2015/06/28撮影)


  それから約3年が経過、竹原町は普段に戻ったが忠海町の大久野島が「うさぎ島」として世界的に大ブレークしていた。そして2019年、「たまゆら」「マッサン」「うさぎ島」に続いて4番目の波が町並み保存地区に訪れるのであった。
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#61-63:普段の竹原(2018/01/03撮影)

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よいウヰスキーづくりにトリックはない。
竹鶴政孝 リタ

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 それでは最後にデザートをどうぞ。
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#64-68:デザート

2019.11.22

 竹原帰省は殆どが正月とGWおよび盆前後の年3回程度であった。それ故に竹原の一大イベントとなった「憧憬の路」をこれまで1度も訪れたことがない。今年2019年帰省は10月中旬であったが開催の1週間前にはUターンした。なので自分で撮った写真は今年まで皆無である。唯一自由に使えるのが弟から2003年9月末にメールで送られてきたものだけ。それらの写真には撮られた日付データが無かったので日時の詳細は不明。その年の8月帰省での私が撮っていたポスターがこれである。
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#01:憧憬の路ポスター(2003/08/12)


  ポスターが貼られていた場所を忘れており、写真に写る番地から「酒蔵交流館」であったことがわかり、隅にそれらしき看板と金魚が飼われている鉢もある。

 写真解像度がVGAであり画質が悪いのでポスターに書かれたタイトルや説明文などを拡大して分かる範囲で文字起こししてみた。(灰色文字は不確定、?は判読不能)もちろんイラストになっている場所は西方寺の石段である。

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市制45周年記念事業

経済産業省電源地域産業育成支援補助事業

竹灯りに誘われて。

新月の夜。

古き町並みを照らし出すのは幻想的な3000本の竹灯り。

ほのかに揺らぐともしびとともに幻想の風景が甦ります。

さぁ、あなたは誰と訪れますか。

安芸の小京都を?る日間だけの夢の世界。

たけはら憧憬の路 町並みアート開催

とき:9月27日(土)・28日(日)13:00~21:00

ところ:町並み保存地区一帯

◎竹のライトアップ/竹のオブジェ

◎古民家ギャラリー

◎郷土芸能鑑賞

◎??コンサート

◎町並みガイドツアー

なつかしさと出会う 安芸の小京都 たけはら

お問い合わせ:竹原市 たけはら憧憬の路実行委員会事務局

       竹原????????

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 2019年が第17回とすると撮影した2003年が第1回となる。興味深いのは開催時間が昼からだった事とサブタイトルが「新月の夜」であること。因みに当日の9月27日は土日と新月が重なったイベント開催にはベストな年だったようだ。これまで毎年開催されてきたならこれは記念すべき第1回目のボスターなのである。Wikiでは2003年に国の助成が下りたとあるので2002年以前は「憧憬の路」としての開催はされていないと判断。

 それでは第1回の当時の写真19枚を紹介する。ストロボで光った埃かオーブらしきものが写り込んでいるものも一部あるが、デジカメ撮影ではよくあるので気にはしていない。訪れたことが無いので現在との規模やイベント等の比較はできないが、一目見て分かったのは竹灯りが全てローソクだったことだ。長持ちするタイプとはいえ3000本もの竹灯りを二晩途絶えることなく維持されていた当時の関係者方々の苦労は計り知れない。
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#03-20:第1回たけはら憧憬の路(2003/09/27or28撮影)

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