安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

2019.12.16
 2009年の12月11日(金)の朝にTBS「朝ズバッ!」(MC:みのもんた)にてイキナリ竹原が紹介された。だが、慌てて録画を開始したのは翌日12日の0:51で、そのコーナーが「今日、12月16日は何の日?」と次週のことを言っている。まるで時間旅行をさまよっている事になったが理由はもう分からない。

 では「今日、12月16日は何の日?」なのだろうか?その冒頭だけブラウン管を撮った写真を紹介しよう。
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#a01-a04:TBS朝ズバッ!(2009/12/12撮影)

  そう、今日12月16日は「広島県竹原地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定された日(昭和57年1982年)」だったのである。5分程度のコーナーで以下内容がナレーション付にて写真と動画で順次紹介された。

・みのもんたのコーナーオープニング

・松阪邸

・朝日山から竹原町の眺め

・竹原駅ロータリー

・笠井邸2階窓からの眺め

・吉井邸前を集団登校する竹小生

・竹中生も登校

・旧郵便局ポスト前の集配赤バイク

・朝日山から阿波島を臨む

・賀茂郡竹原下市村開濱二寸拾間図(地図)

ここからテロップ「357年の歴史 安芸の小京都 竹原」

・竹原絵図屏風(俯瞰図)

・県史跡 頼惟清 旧宅

・頼華水 頼春風 頼杏坪(絵)

・日本外史 稿本

・頼山陽(絵)

・市 重要文化財 森川邸(門、室内、庭など)

・塩田作業(モノクロ写真:浜引き、潮かけ)

・竹原駅ホームの蒸気機関車(モノクロ写真)

・三井金属(モノクロ写真:塩田最盛期)

・塩田作業(モノクロ写真:へり入れ、すくい込み)

・昭和35年 竹原塩田 廃止(モノクロ写真:浜引き)

・朝日山からの塩田全景(モノクロ写真)

・朝日山からの現在全景(写真)

・普明閣境内からの甍の眺め(写真)

・竹鶴酒造の上から笠井邸への眺め(写真)

・旧村上邸(写真:現在の竹楽)

・明治38年 日露戦争の勝利を祝う町並み(セピア写真)

・新町観光駐車場向いの邸宅(セピア写真)

・同上(写真:現在)

・亀田邸(写真:現在)

・同上(セピア写真)

・初代 竹原郵便局(セビア写真)

・同上(写真:現在)

・竹原市伝統的建造物群調査報告書

・同上(美化計画図:鎮海山のスカイライン大功)

・同上(美化計画図:アスファルト色は不調和)

・同上(美化計画図:コンクリ電柱)

・旧村上邸前(石畳化前写真:石田無内科医院の頃)

・町並み保存センター前(石畳化後写真)

・昭和57年12月16日、竹原地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定される(写真:胡堂)

・水儀支店ビルからの本通りの眺め(写真)

・竹鶴邸(写真:現在、外観、屋内・・・)

・小笹屋の屋号で享保18年(1733)より酒製造を営む(酒造中写真)

・杜氏 石川達也さん(写真)

・タンクかくはん中

・岩本邸(写真:外水撒中、屋内、)

・岩本重夫さん(82歳)麗子さん(77歳)

・松阪邸前の観光客(写真)

・岩本重夫さんの話

・大小路(写真)

・国 重要文化財 春風館 頼家住宅(写真、外観、屋内)

・吉井邸前の観光客(写真)

・同上 元禄3年(1690)建築(外観、屋内、空撮)

・100年で1分(約3mm)風雨に削られたという

・ゲストのコメント(アグネスチャンなど)

・みのものたのコーナークロージング

 

では重要伝統的建造物群保存地区に選定とは一体何なのか?

文化庁のHPから引用すると

昭和50年の文化財保護法の改正によって伝統的建造物群保存地区の制度が発足し,城下町,宿場町,門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりました。市町村は,伝統的建造物群保存地区を決定し,地区内の保存事業を計画的に進めるため,保存条例に基づき保存計画を定めます。国は市町村からの申出を受けて,我が国にとって価値が高いと判断したものを重要伝統的建造物群保存地区に選定します。

市町村の保存・活用の取組みに対し,文化庁や都道府県教育委員会は指導・助言を行い,また,市町村が行う修理・修景事業,防災設備の設置事業,案内板の設置事業等に対して補助し,税制優遇措置を設ける等の支援を行っています。

平成30年8月17日現在,重要伝統的建造物群保存地区は,98市町村で118地区(合計面積約3,924.9ha)あり,約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。

と書かれている。

 市町村が決めた伝統的建造物群保存地区のうち、選定の申請を受けて文化庁が重要と決めたもに対して「重要」のお墨付きが付き、保存事業への半額国負担と相続税・固定資産税一部免除の優遇措置がとられる。広島県では呉市の豊島御手洗、福山市の鞆の浦、そして竹原市の「竹原地区」が選定されている。竹原市は「意匠を凝らした格子が文化と繁栄を示す塩の町」(伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの)として認定されている。

 要約すれば・・・

 竹原市の町並み保存地区が、保存事業への財政的援助や指導・助言を国から受けられる地区になったのが昭和57年12月16日だったということである。(誤植なのか「暮らしのガイドブック あなたと市役所 市制施行30周年記念/昭和63年3月発行」では11月16日指定しなっていた)

 だが、いつ頃から上市・下市区が町並み保存地区となり、いつ頃から観光地化が始まったのだろうか。国への竹原市伝統的建造物群調査報告書1979年(昭和44年)発行なので、その頃は既に計画が進行していたと思われる。観光地化は昭和57年(1982年)頃から聞こえ始めた記憶が有るのだが、普明閣と西方寺石段、照蓮寺の国重文の鐘、頼惟清生家と頼山陽が観光の目玉だったようだ。その証が絵葉書と旧橋本金物店(現、村上BK)とシバデン前に有った移設前の頼山陽像であろう。

 手持ちの「観光と産業 たけはら」(昭和57年10月/発行ブレーン企画)では、昭和52年に「竹原市総合計画」が策定され、竹原市の将来像を「自然と産業が調和した魅力あふれる瀬戸内海の公園都市」と位置づけている。

 本書への当時の市会議長の筆では、昭和55年に国土庁による「伝統的文化都市環境保存地区整備事業」の推進都市として指定され、約2億円を投じて町並み保存センターと修景広場などを整備し、57年秋には「伝統的建造物群保存地区」として上市と下市区の町並みが指定されるとある。観光の質の変化が言われる時代となり、この集中的に温存された古い町並みは、今や全国的な注目を浴びており、受入態勢の充実を図る中で希望をもって観光問題に取り組む所存である。

と書かれており、やはり観光化の始まりは1982年の「時をかける少女」ロケ中の頃だった記憶に確信が持てた。胡堂の前で可愛い女の子(原田知世)がヘアメイクに髪を解かしてもらっていたのを母が興味津々で観ていたのを聞かされた遠い昔である。

2019.12.02 
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#00:日の丸寫眞舘


 2014年に登録有形文化財として登録された日の丸寫眞舘は町並み保存地区の門柱的存在である。(註:なぜ玄関ではないのかは町並み保存地区の境界が土蔵のレストラン青と大正ロマン的なデザインの妙見邸から先だから/字体が寫眞舘なのは新旧店舗の区別のため)

 ここが大々的にメディアに取り上げられる始まりは大林監督の「時をかける少女」がきっかけである。映画には日の丸寫眞舘自体は全く登場しないが、監督が竹原の街を案内するテレビ旅番組が何本も放映され、それからは竹原紹介の番組導入部には欠かせない存在となった。それら数ある番組の中でも浴衣姿の原田喜和子(原田知世の姉)と大林監督が住吉橋の上からこの日の丸寫眞舘を見上げるシーンは今もカラーで鮮やかに覚えている。ここの広銀が未だ営業していた遥か昔の1980年代のことである。

 木造三階建の日の丸寫眞舘も遥か昔から歴史がありそうな建物だが、昭和10年頃は全く違った建物であったことが分かった。「道の駅たけはら」2Fに常設展示されている写真の中に昭和10年頃の日の丸寫眞舘と住吉橋が写る貴重な写真(芸南新聞所蔵と記憶)と、手持ちの写真集「写真が語る激動のふるさと一世紀『目で見る東広島市・竹原の100年 東広島市・竹原市・加茂郡・豊田郡』(郷土出版社、監修=飯田米秋・太田雅慶)」にも住吉まつりの櫂伝馬シーン後ろに同じ建物が写っていたのである。

 旧ホームページの過去記事と重複するが、2014年夏に竹原で開催された芸術祭イベントで使われていた日の丸寫眞舘の写真(道の駅展示と同じ)を載せておく。
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#01-04:『「藝術」、ですか?』(2014/08/17撮影)

 この日の丸寫眞舘は昭和7年頃の建造であり、元から木造3階建なのだが鉄筋コンクリート3階建に見えてしまうレトロ・モダンなデザインだった。その後、増築・改築され2,3階の壁が板張りとなって現在に至っている。現在の建物と比較してみると住吉神社側2階の窓以外は全て異なり別の建物に見えるのである。

 新町の新店舗へ写真店が移転してからは仏壇店だった時期がある。1970年代に実家の仏壇を買うため中を訪れた際には、吹き抜けの階段と手摺りの有る2階の廊下にぐるりと各種仏壇が展示されていた。

 現在の日の丸寫眞舘と殆ど変わっていないが、以下のデジカメ撮影最古(1996年代)の写真4枚と現在を比較してみて欲しい。
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#05:日の丸寫眞舘(1996/10/11撮影)

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#07:日の丸寫眞舘(1996/12/27撮影)

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#08-09:日の丸寫眞舘(2000/01/05撮影)

 比較すべき現在の写真は、ネット検索すれば同じような写真が1万枚以上も見つかるので省くことにした。これら無数のネット写真は撮られた年代や季節によってトタン色、陳列の展示物などが微妙に異なってはいるが、敢えてこの4枚を載せたのは決定的な違いを1つ見付けたからである。(答え: 室外機の上にあるもの)

 

※追記※

 旧ホームページからブログへ引っ越して丁度1ヶ月間が経過した。帰省しない限り新しい題材は殆ど得られないため現状の慣らし書込みでは、

・過去記事の時系列による組合せ

・容量の都合上載せられなかった写真の追加

・これまで貯めてきた収集物

などの記事となっている。

 来年4月に帰郷すれば新たな題材が常時得られるので、本来のブログ(WEB記録)に戻った記事へ落ち着くであろう。

2019.12.01

 旧ホームページへ掲載していた立体写真は「エデンの海」の2種類だけだったが、まだ他にも撮ったものが沢山ある。この機会に20種類に絞って載せてみることにした。

 立体写真とは左右2台並べたカメラで同時撮影した写真を左右並べて見る方法で、目視に慣れるか専用フォルダに写真入れて覗く2つの手段が主流である。高度なものになると左右2つのレンズを搭載したカメラで撮った左右櫛状に混ぜた写真を、かまぼこレンズと呼ばれる特殊なシートを被せて立体写真にするものもある。昔から観光地の土産店などでよく手に取っては戻した表面がギザギザで左右に動かすと立体的に見えたビニールのような写真や絵である。

 本当に立体に見えるわけではなく立体的に見えるだけで、苦労して立体に見えたところでその感動は5秒も経てば消え失せる。2010年の夏に下図のようなカメラを作って竹原で使用してみたが、こんなものかで飽きてしまった。その後、どこかのメーカーで専用のスチルカメラや3D対応ビデオカメラが発売されたが、前述のように写真なら5秒、動画なら5分で飽きてしまうので廃れるどころか話題にものぼらなかった。

 仕組みはいたって原始的、撮るときは同時に電源を入れて同時にシャッターを押すだけである。撮った写真は番号を揃えて置き画面で左右合成するか、診察した写真を入れて除くフォルダを作って使うかである。
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#cam3d:手作り立体カメラのイメージ(2010/08作成&使用)


  左右のレンズの距離は平均的な大人の両目の距離にしておく必要がある。撮れた写真は微妙に差があり、同じ被写体だが写真の左右の端に収まっている幅が異なる。

 では次の写真を使って目視で立体的に見る方法に慣れてみよう。

・2枚の写真を両目で凝視する

・3枚に見えるよう寄り目ぎみにする(右目で左写真、左目で右写真を見る感じ)

・3枚に見えている状態で中央の写真に視線を移す

 うまくいけば手前の金網フェンス、左右のタンク、その向こうに煙突があるように見えるはずである。スマホならズームや回転をして左右の写真を両目幅にしてみるとよい。
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#17:No.01 三井の煙突


 何度かトライして3枚に見えた中央に視線が移せるようになったら続く写真に挑戦してみて欲しい。どうやってもさほど立体には見えない写真、5秒間感動する写真が色々揃っている。
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#01:No.02 小田山神社の鳥居

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#03:No.03 普明閣の境内より

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#02:No.04 西方寺の石段(上から)

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#04:No.05 西方寺の石段(下から)

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#05:No.06 普明閣の舞台から見下ろす

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#6:0No.07 旧日の丸寫眞舘

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#07:No.08 竹原駅ホーム

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#08:No.09 憧憬の広場前

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#09:No.10 明神の灯台突堤前から西

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#10:No.11 賀茂川の切り抜き(ハチへ)

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#11:No.12 床浦の呉線

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#12:No.13 朝日橋から竹中

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#13:No.14 エデンの海

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#14:No.15 賀茂川に架かる呉線鉄橋

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#15:No.16 成井川(竹中校庭辺りの賀茂川)

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#16:No.17 明神突堤に停泊中の船舶

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#17:No.18 大小路

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#18:No.19 普明閣境内からの甍の波

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#19:No.20 普明閣舞台から三井の煙突


 不自然ながら立体的に見えたのではなかろうか。無段階的に奥行きがあるのではなく、数枚の板が前後に並べられた学芸会の舞台セットのような感じである。どの立体写真でもこの程度であろう。過去の技術で実現された3D動画の放送はこの立体写真的なコマを左右交互に表示させて交互に開閉するシャッターの眼鏡をかけて見る方式となっている。高速で動き回るゲームアクション動画であれば使い道は有りそうだが、静止画やスローな動画は臨場感というにはほど遠く廃れてしまうのは必然的である。10年ぐらい前に渋谷のNHKで観たNHK技術研究所による眼鏡が要らない3D動画はあれからどうなったのであろうか。かなり見応えは有ったが動くものが画面から飛び出してくるだけで無段階の遠近的な奥行は殆ど感じられなかった覚えがある。

2019.11.29
 忠海町床浦の国道185号線海沿いにエデンの海パーキング・エリアができたのは1998年4月吉日。この辺りの国道は山を貫いて通っていた。いつの頃だったかは思い出せないが、金網張りの道路の法面が崩れた災害があり補修工事で残されていた一部分にP.Aができた。そのP.A工事中の写真がこれである。1998年正月に訪れた時はトイレと東屋を残すのみで、既に完成していた駐車場や展望台は開放されていた。

 1枚目は東側の忠海高校と送電鉄塔、2枚目と3枚目は正面の記念碑「エデンの海」と作家・高橋玄洋著・筆(忠海高校出身/脚本家・劇作家)による碑の解説である。4枚目は丸太モドキのコンクリート柵の先に見える霞んだ大久野島、最後は西側の山影に覗く電発であり、国土交通省が選定したフォトスボットの1つなのである。
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#04-08:エデンの海P.A(1998/01/03撮影)

  その年のGW帰省時に訪れた時は完成直後だった。小高い山頂にある東屋前にこのようなパノラマ眺望した島々の絵地図パネルが追加設置されていた。GW頃は霞みのせいかクッキリ見える日は少ない。(註:1枚の写真に納まりきらない幅だったので5分割撮影して結合したものを添付)
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#01-02:旧眺望地図(1998/04/28撮影)


  それから2009年までP.Aで撮った写真は見つからなかった。関東から自動車で帰省していので何度もここを通っていたはず。駐車場はフルではなかったが、大抵は展望台の東屋に誰かが弁当持参で長居していたせいで立ち寄らなったのだろう。また、2009年後は背面の山からの眺めのほうが遥かに良かったので、以後P.Aからの眺望写真撮影はしなかったようだ。よって後にも先にも2009年以外はまともな写真はないのである。

  完成から11年が経過した2009年の写真を紹介する。カメラの解像度も高くなり、碑や景色もかなりクリアに撮れる時代となっていた。被写体自体は特に大きな変わりは無いだろうと思っていたが、パネルが御影石の新バージョンに変っていたのをブログ記事書込み時に初めて知る。変わった経緯はもちろん分からない。同様にこれも1枚には収まらず分割撮影されていたのでフォトショで結合してみた。 
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#03:新眺望地図(2009/08/07撮影)


  続いて国土交通省の写真が撮れるパーキング「とるぱ」。パーキングとフォトスポットがセットになった場所でここは34-0009のナンバリングである。
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#a01-a03:とるぱ(2009/08/09撮影)

 

 次はP.A完成日を記念した標である。奥に忠海高校の生徒が清掃しているトイレも確認できる。
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#a04:完成日(2009/08/09撮影)


  高橋玄洋の書である碑「エデンの海」、裏面には寄贈者が掘られている。また、碑の右横に有る高橋玄洋著の説明も拡大版を載せておいた。
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#a05-a07:高橋玄洋による書の碑(2009/08/09撮影)

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#a08-a09:高橋玄洋著による碑の説明(2009/08/09撮影)


  そしてP.Aからの眺めはこのような感じ。180度パノラマであり、真下を覗けば海岸もある。ここから誰が撮ってみても同じようなアングルで同じような被写体の写真となるのである。プロやカメラ趣味オヤジが最高の機材で最高の腕でここから撮れば素晴らしい写真がとなるので、素人が真似しても太刀打ちできないスナップショットばかりとなる。空気感まで写るカールツァイス製レンズなら尚更であろう。
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#a10,11,13,14:エデンの海P.Aからの眺望(2009/08/09撮影)


  2009年の夏、エデンの海P.Aの背面の山頂上にあったカフェ「Belle Vue カフェ エにデンの海」を家族で訪れた際、庭からの眺望の美しさに息を呑んだ。土日しか営業されておらず、エデンの海P.Aから見上げても建物は見えない位置にある。勝手に庭には入ることはできないが、途中までの道ならばこのような写真が素人でも撮れるのだ。それを知ってからはP.Aの東屋まで登ることはなくなった。
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#b01-b04:ベルヴュー下(2011/05/05撮影)


  そこまでしなくてもP.A東側にある忠海高校がロウボート大会で使う海岸に下りれば、このような落ち着いた景色も撮ることができる。
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#c01-c04:忠海高校向いの海岸より(2011/05/05)


  さてなぜ「エデンの海」なのか。その由来には諸説あるようだが1950年に公開された映画「エデンの海」は忠海高校(当時は女子高、1949年に共学となる)が舞台となったことが起源と親から聞いている。小説「エデンの海」(著:若杉慧/1946年)を松竹が映画化したもので、後に日活や東宝が同一題材で2作を制作している。

 忠海高校が舞台となった第1作は、主人公の教師が鶴田浩二、ヒロインの女生徒は藤田泰子。東京から忠海女子高校へ赴任してきた教師と、気が強く自由奔放な女子高生が徐々に惹かれて恋に落ちるストーリーで当時としては爽やかな青春映画であった。

 ロケは忠海高校~忠海駅付近、エデンの海P.A付近の山、海岸と沖である。ヒロインと教師が馬に乗るシーンは、忠海高校の校庭でトラックの荷台を馬に見立てて走らせて撮影された。一般公開でロケされたので私の母は生で撮影中の鶴田浩二を見ており、三原の映画館で鑑賞している。この辺りの海は忠海高校の校歌にもある「味潟海」と呼ばれており、広島出身であったこの小説の作者は楽園のような忠海の景色に惚れてアダムとイブが暮らすエデンの園から小説名を「エデンの海」としたとの説がある。

 昭和時代の竹原に有った映画館「新栄座」(現在は道の駅P)で、当時放映されたかは不明だが、放映後に廃棄されずに保存されていた16mmフィルムが1997年に奇跡的に忠海で見つかり、竹原市民会館で公開上映された経緯がある。これは1950年版ではなく、1954年に新東宝にて再配給された「エデンの海より 青春の告白」のようで、後に松竹にてHDレストアされたものが2013年10月に衛星劇場でTV初放映(再放送含め2回)された。

 私はこのレストア版の放映時に石巻へ出張中であったが、出張先で当日放映されることを偶然に知って開始30分前にケーブルテレビへ追加視聴契約を済ませ、即家族へ電話連絡してギリギリで録画に成功した。画像音声共に状態はかなり悪かったが、国道が未だ通っておらず校庭がそのまま海岸へつながっていたり、木造の倉庫が映っていたことや駅前の大通りなど珍しい映像を目にすることができた。

 2作目は1963年公開(大映)の高橋英樹と和泉雅子、再び忠海高校が舞台でリバイバルとるはずだったが、高度経済成長の波で竹原はロケに適さなかったらしく他の地区へ変ったようだ。3作目は 1976年公開(東宝)で山口百恵と南條豊である。どちらもストーリーやロケ地については竹原とは無関係で調べてはいないが、アマゾンなどで探せば3作目なら購入できるであろう。一応、1作目を録画した証を載せておく。
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#d01-d03,d06:エデンの海より 青春の告白(2013/10/03 CS衛星劇場放映 制作:松竹)

2019.11.28
 演歌のタイトルに有りそうな名、この渡逢橋は楠神社向かいの本川に架かる橋である。観光などで新町観光駐車場へ停めたなら保存地区へ近いのでここを利用するであろう。旧日の丸写真館がコースにあれば住吉橋。道の駅Pならばどちらも渡ることは無かろう。
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#w01-w02:渡逢橋の銘板(1998/05/04, 2003/08/11撮影)


 この橋名の漢字「逢」だが作詞の経験者なら使ってみたい漢字といえる。だが時間や瞬間を「とき」、明日を「みらい」、出航を「たびだち」と読ませたがるフォーク/ニューミュージック系の作詞とは系統が違う。どこそこで「会う」ではなく、バッタリ「遇う」でもなく、ヒドイ目に「遭う」でもない。巡り「逢う」に使われる演歌系の漢字なのである。離れ離れとなった男女が巡り巡って必然的にこの橋を渡って出逢うのである。玉置宏の絶妙なタイミングで曲紹介された演歌が聞こえてこないだろうか?

 もしもこの渡逢橋のデザインが、普明閣の欄干風か古庭橋風であったら橋名の由来次第では歴史文化的建造物の仲間入りをしていたに違いない。

 この橋の歴史は古い。よく目にする竹原の古い屏風絵地図を見ると本川に架かる橋は、この北にある山陽橋(漢字は未確認)と渡逢橋のたった2本しか描かれていない。省かれた可能性もあるが、如何にも歴史が有りそうな住吉橋さえもなし。

(2019/12/01追記:大正15年地図では未だ番屋橋は無く、その上流の大原産婦人科医院と柿井酒造場前の橋有り。大原産婦人科は林住宅となった後に現在は売地、柿井酒店となって橋は現存するが橋名は不明)

現在、本川に架かる橋を分かる範囲で北から南へ順番に

・橋名不明(中通小へ続く橋、中通へ抜けて更に安田医院へ)

・橋名不明(尾道商店跡地前の橋、中通へ抜けて更にエネオスへ)

・橋名不明(柿井酒店角のT字路に架かる橋)

・橋名不明(林住宅跡地の私有橋)

・番屋橋(大広苑裏の先、江戸時代ここに番屋が有った)

・一本橋(大広苑裏に2003年頃まで有った木製電柱を束ねた橋

橋名不明(3本ぐらい木製の私有橋

・古庭橋(西幼稚園近くに最近できた)

・山陽橋(藤井酒造に近い、最近まで銭湯の地蔵湯が有った)

渡逢橋(楠神社向い)

・住吉橋(旧日の丸写真館向い)

・新湊橋(道の駅のはす向い、新港橋名の地図もある)

・本川橋(道の駅P向い)

・日本橋(オリオン三叉路を本川側へ)

・八幡橋(礒宮鳥居前の歩道橋下)

・汐入橋(汐入川踏切を渡る前)

・汐入川橋梁(JR呉線)

・扇橋 (汐入川踏切を渡った先、珍しいアーチ状)

・竹原大橋(汐入橋、汐入川橋梁、扇橋の高架/1971年3月建造)

がある。本川の約2.5km区間にこんなに沢山の橋が有りながら歴史ある橋は2本しかない。(註:本川は途中から汐入川のようだ。因みに番屋橋辺りは番屋川、竹中辺りの賀茂川は成井川と呼ばれていた。)

 

 渡逢橋そのものは何の変哲も無いコンクリート製で鉄の欄干だが、ここからの眺めは北側も南側も何だか懐かしさを感じてしまう。特に北側の景色は素晴らしい。緩やかに右へカーブした流れ、鏡面のような緑色の水面に映り込む民家群と空、遠く向こうには朝日山もある。浅そうで深そうで人を寄せたがらない威圧感。そして保存地区とは逆に「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさと既視感が漂う写真が撮れるのである。また、向こう側にある山陽橋からの眺めも同様に素晴らしい。この両橋から撮り続けた写真が多量にあるので一部を時系列で紹介する。 

 

****1998年****
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#w02:渡逢橋から(1998/05/04撮影)


****2003年**** 
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#w03:山陽橋から(2003/08/10撮影)

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#w04:渡逢橋から(2003/08/11撮影)

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#w05:山陽橋から(2003/08/11撮影)

 ****2004年****
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#w06:渡逢橋から(2004/05/03撮影)

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#w07:山陽橋から(2004/08/01撮影)

 ****2008年****
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#w08:渡逢橋から(2008/08/17撮影)

 ****2010年****
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#w09:山陽橋から(2010/08/05/04撮影)

 ****2011年****
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#w10:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w11:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w12:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w13:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

 ****2014年****
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#w14-w15:山陽橋から(2014/08/17撮影)

 ****2015年****
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#w16-w18:渡逢橋から(2015/01/03撮影)

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#w19:渡逢橋から(2015/08/09撮影)

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#w20-w21:山陽橋から(2015/08/09撮影)

 ****2017年****
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#w22:渡逢橋から(2017/08/11撮影)

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#w23:山陽橋から(2017/08/11撮影)

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#w24:渡逢橋から(2017/08/13撮影)

 ****2018年****
w25
#w25:渡逢橋から(2018/08/26撮影)

 ****2019年****
w26
#w26:山陽橋から(2019/05/01撮影)

 w27
#w27:渡逢橋から(2019/10/17撮影)

  以上、1998年から2019年まで21年間の定点観測的撮影となった。潮の満ち引き、季節、天気および撮ったカメラで違いは出ているが、21年間が経過しても「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさや既視感が漂う場所なのである。

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