東野保育所を撮りに行った際に、かつて賀茂神社の注連柱(しめばしら/鳥居ではなく二本の柱に注連縄が渡されている参道の境界)が在った場所のみを撮って十字路を左折するつもりが、左折側では災害復旧工事が再開されており重機がいて通り難かったせいか、無意識のまま坂の参道を直進して神社内の空き地まで行ってしまった。(2022/01/25撮影)
ブルーシートが敷かれている場所が復旧工事が行われている側で、右側のカラーコーンと黒土嚢が並んでいる場所は仮工事を終えたエリアである。左へ曲がれば東野保育所や東野小があり、右へ曲がれば青田地区へ通じている旧道である。この十字路正面先にはかつて賀茂神社の注連柱があったのだが、この区域全体を含めて豪雨災害時の山津波で流失してしまった。

以下の3枚は災害前にこの場所で撮った写真である。これまでは、ここから先へは訪れたことが無かった。
(2005/05/04撮影)

(2012/01/02撮影)

(2014/08/15撮影)

話は現在に戻り、自動車でも途中まで行ける聞いていたので、行ける所まで進んでみた。


ここから先は賀茂神社への石段と左への分岐路となり、右側の空き地?へ駐車して石段へ。



災害前は初詣で賑わっていたそうだが、ここからは空気が急に変って参拝すべきか戻るか戸惑ってしまった。

ここまで来た以上、賀茂神社の御祭神様へ参拝しなくてはならない。


この石段を上れば境内のようだ。


何だか拝殿は殺伐とした気がした。

手を清める手水舎は蓋が閉じられている。

左手にはブロンズ製の馬像が奉納されていた。

拝殿にて賽銭を格子戸孔へ落とし、二礼二拍一礼で参拝。

最近知った神社本庁の古いポスターが貼られていた。
拝殿の扁額には「賀茂神社」と書かれていた。
神社での拝み方「二礼二拍一礼」は、正しくは「二拝二拍手一拝」と書くようだ。(広島県神社庁)

奉納された神馬は、台座には大正4年11月10日の御大典記念(昭和天皇即位の礼)の奉納と、天皇御即位50周年記念第二次大戦出征神馬再献者銘板が嵌められていた。このブロンズ像はその再奉納のものであろうか。

神馬靖国號

通常、拝殿裏にある本殿は拝殿後部とつながっているのだが、直接、本殿にい参拝ができることが分かった。


本殿の正面へ。

本殿にある狛犬(吽像)は初めて見た。

こちらが獅子(阿像)。

鳥居ではなく注連柱。参道にあった鳥居は流失してどこにも無い。

右側に「八幡殿」と左側に「賀茂殿」があり、それぞれに参拝した。ちなみに賀茂神社の祭神は別雷神である。


神前での唱え詞は「祓え給え清め給え 守り給へ幸え給え」との広島神社庁の貼り紙。これを見つけて参拝をやり直した。

祭神は本殿中央に祀られているようで、「賀茂殿」には別雷神、「八幡殿」には玉位姫命・息長足姫命・品陀別命が祀られた相殿という珍しい神社である。

中央には「賀茂神社御畧記」の銘板が立てられていた。内容は難しすぎて読めなかった。

本殿右横には併設の祠が2社あり、ここへも参拝した。

右側が大歳神社で祭神は大年神・穀物の神。

左側が中条荒神神社(安楽時荒神社を併設)で祭神は宇気母智命である。この地域の名称は「中条町」である。

本殿での参拝を済ませて戻ることにした。





上記の併設神社名や祭神については、愛読書「竹原の神仏を訪ねて(著:神野勝)」から参照したものてあり、賀茂神社の名称は「相殿賀茂神社」で、俗名は「上賀茂大明神」と書かれていた。また、「相殿八幡神社」も載っており、両社はお互いに併設の扱い(相殿)となっていた。
ここは2018年豪雨災害による犠牲者がおられる区域であり、興味本位程度で訪れてよい場所ではなかったことに今更痛感している。本記事では敢えて掲載しなかったが、神社拝殿・本殿の周囲3面には大規模な山崩れの傷跡を埋めた復旧法面が生々しく、参道の西沿いには鉄砲水が流れ落ちたとみられる深くて広いV字の溝が裾野まで走っていた。
最後に「竹原聞きある記」にも「賀茂神社の由緒」が載せられており、その大半を転記した。これにより、竹原に流れる賀茂川の由来について知ることができた。
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竹原市東野町字中条にある。祭神は別雷神。神社明細帳によると、安芸国賀茂郡は、昔城州(京都)賀茂大明神の神領地であったので、郡名を賀茂郡と言ったというのである。
山田、山上、原、柏野四家の武士が、この地の地頭であり、毎年城州賀茂社へ一定額の供物歩奉納していた。特に毎年山城賀茂において競馬が行われ、必ず竹原の大山、宗山り、競馬を献上していた。今も山城賀茂競馬の時に、竹原大山、宗山馬の名が残っている。(大山は東野村、宗山は下野村)・・・
建久五年、後藤実基が竹原東野村に住み、この地を鎮護していた。然し乱国であって京都に往来することは困難であり、長く進貢が途絶えることがあり、この地に城州賀茂大神を勧請するに至った。
山城賀茂両社との距離は十八丁。この地もまた十八丁、両社の間に川があり、この川を賀茂川と称した。・・・この神社はもと東谷にあり、同社の八幡神社は西谷にあったが、玄和六年洪水により、両社が流失したので、あらためて、現在の地に合祀されたと言う。
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ブルーシートが敷かれている場所が復旧工事が行われている側で、右側のカラーコーンと黒土嚢が並んでいる場所は仮工事を終えたエリアである。左へ曲がれば東野保育所や東野小があり、右へ曲がれば青田地区へ通じている旧道である。この十字路正面先にはかつて賀茂神社の注連柱があったのだが、この区域全体を含めて豪雨災害時の山津波で流失してしまった。

以下の3枚は災害前にこの場所で撮った写真である。これまでは、ここから先へは訪れたことが無かった。
(2005/05/04撮影)

(2012/01/02撮影)

(2014/08/15撮影)

話は現在に戻り、自動車でも途中まで行ける聞いていたので、行ける所まで進んでみた。


ここから先は賀茂神社への石段と左への分岐路となり、右側の空き地?へ駐車して石段へ。



災害前は初詣で賑わっていたそうだが、ここからは空気が急に変って参拝すべきか戻るか戸惑ってしまった。

ここまで来た以上、賀茂神社の御祭神様へ参拝しなくてはならない。


この石段を上れば境内のようだ。


何だか拝殿は殺伐とした気がした。

手を清める手水舎は蓋が閉じられている。

左手にはブロンズ製の馬像が奉納されていた。

拝殿にて賽銭を格子戸孔へ落とし、二礼二拍一礼で参拝。

最近知った神社本庁の古いポスターが貼られていた。

拝殿の扁額には「賀茂神社」と書かれていた。

神社での拝み方「二礼二拍一礼」は、正しくは「二拝二拍手一拝」と書くようだ。(広島県神社庁)

奉納された神馬は、台座には大正4年11月10日の御大典記念(昭和天皇即位の礼)の奉納と、天皇御即位50周年記念第二次大戦出征神馬再献者銘板が嵌められていた。このブロンズ像はその再奉納のものであろうか。

神馬靖国號

通常、拝殿裏にある本殿は拝殿後部とつながっているのだが、直接、本殿にい参拝ができることが分かった。


本殿の正面へ。

本殿にある狛犬(吽像)は初めて見た。

こちらが獅子(阿像)。

鳥居ではなく注連柱。参道にあった鳥居は流失してどこにも無い。

右側に「八幡殿」と左側に「賀茂殿」があり、それぞれに参拝した。ちなみに賀茂神社の祭神は別雷神である。


神前での唱え詞は「祓え給え清め給え 守り給へ幸え給え」との広島神社庁の貼り紙。これを見つけて参拝をやり直した。

祭神は本殿中央に祀られているようで、「賀茂殿」には別雷神、「八幡殿」には玉位姫命・息長足姫命・品陀別命が祀られた相殿という珍しい神社である。

中央には「賀茂神社御畧記」の銘板が立てられていた。内容は難しすぎて読めなかった。

本殿右横には併設の祠が2社あり、ここへも参拝した。

右側が大歳神社で祭神は大年神・穀物の神。

左側が中条荒神神社(安楽時荒神社を併設)で祭神は宇気母智命である。この地域の名称は「中条町」である。

本殿での参拝を済ませて戻ることにした。





上記の併設神社名や祭神については、愛読書「竹原の神仏を訪ねて(著:神野勝)」から参照したものてあり、賀茂神社の名称は「相殿賀茂神社」で、俗名は「上賀茂大明神」と書かれていた。また、「相殿八幡神社」も載っており、両社はお互いに併設の扱い(相殿)となっていた。
ここは2018年豪雨災害による犠牲者がおられる区域であり、興味本位程度で訪れてよい場所ではなかったことに今更痛感している。本記事では敢えて掲載しなかったが、神社拝殿・本殿の周囲3面には大規模な山崩れの傷跡を埋めた復旧法面が生々しく、参道の西沿いには鉄砲水が流れ落ちたとみられる深くて広いV字の溝が裾野まで走っていた。
最後に「竹原聞きある記」にも「賀茂神社の由緒」が載せられており、その大半を転記した。これにより、竹原に流れる賀茂川の由来について知ることができた。
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竹原市東野町字中条にある。祭神は別雷神。神社明細帳によると、安芸国賀茂郡は、昔城州(京都)賀茂大明神の神領地であったので、郡名を賀茂郡と言ったというのである。
山田、山上、原、柏野四家の武士が、この地の地頭であり、毎年城州賀茂社へ一定額の供物歩奉納していた。特に毎年山城賀茂において競馬が行われ、必ず竹原の大山、宗山り、競馬を献上していた。今も山城賀茂競馬の時に、竹原大山、宗山馬の名が残っている。(大山は東野村、宗山は下野村)・・・
建久五年、後藤実基が竹原東野村に住み、この地を鎮護していた。然し乱国であって京都に往来することは困難であり、長く進貢が途絶えることがあり、この地に城州賀茂大神を勧請するに至った。
山城賀茂両社との距離は十八丁。この地もまた十八丁、両社の間に川があり、この川を賀茂川と称した。・・・この神社はもと東谷にあり、同社の八幡神社は西谷にあったが、玄和六年洪水により、両社が流失したので、あらためて、現在の地に合祀されたと言う。
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