安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2016年05月

広報たけはら平成28年4月号
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 2010年から続いた竹原アニメ「たまゆら」が2016年4月末で完結し、以後はイベント、続編、スピンオフ、実写化、OVA(ビデオのみで映画・TV放映なし版)等の公式物は一切やらないと断言されたようだ。但し「ももねこ様」だけは「アニメたまゆらにも登場・・」という位置づけで竹原の癒し系キャラのひとつとして存続する。よって、市役所・観光協会等や駅前商店会に山陽タクシーはそのままキャラを使っていけると思われる。これに伴って、このホームページも「たまゆら関係については完結しようか・・・」と考えてはいるのだが、山陽商船のラッピングフェリー、芸陽バスのラッピングかぐや姫号、市役所・駅前の観光案内所・道の駅の巨大な看板がこれからどうなるのかまでは見届けたい。それ以外の「たまゆら」関係についてはこの1999ページ目をもって完結とすることにした。


 さかのぼれってみれば始まりは2010年4月。偶然、動画サイトで『たけはらんど ~儀武ゆう子が行く!~ 第1回(2010_04_09)』を見つけたのが「たまゆら」への長い付き合いの始まりだ。取材で先に竹原を訪れている佐藤監督を追って儀武ゆう子さんが新幹線に乗ったところから始まり、最後は6月の朝日山頂上までと声優オーディション話の18回分があった。
8月の帰省では旧日の丸写真館がそのまま登場する「たまゆら」というアニメが製作されていることを知り、10月には市役所にOVA版の巨大看板が建って何かのイベントが開催されたようであった。この時、法事で竹原帰省したカミさんが買ってきた土産が「たまゆら絵葉書」と「たまゆらコーヒー」で、超満員となって入れなかったらしい「ほり川」では「たまゆら焼き」が登場。

 アニメ聖地がどのようなものかはテレビ番組で鷺宮の事例を知ってはいたが、市役所自らが公式サポートしていることを知って何だかすごい事になってきたと感じていた頃である。それからしばらくして旧警察署跡地に「道の駅たけはら」が完成し、OVAメディアが発売されてからは竹原町内が巡礼者と観光客で急激に賑わい始めた。そして12月、我が家にもアマゾンで予約しておいOVAのDVDが手元に届いたのであった。以後、TV版1期「hitotose」(12.5話7巻)、TV版2期「もあぐれっしぶ」(12話6巻/8.5話の7巻目は竹原が出ないので買わず)、そして劇場版「卒業写真」(4話4巻)の購入に至るのである。

これまで購入した映像メディア
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 ただ、当時、気掛かりだったのは地元竹原の同級生もごく僅かしか「たまゆら」を知らないこと。DVD/BD販売のみなので一般人への知名度は低く、自分が意識していた一般のアニメ(TV放映されてるやつ)とは別物であったことである。その2010年12月初めである。照蓮寺からメールと電話番号をFAXで送って欲しいとの電話が入り、「たまゆら」のTV化検討で「松竹さん」が話を聴きたいとの話であった。どうやら竹原については関東に詳しい知人がいるので・・と私を紹介してくれたようだ。決まった場所は西日暮里の会議室がある喫茶店、松竹プロデューサーと佐藤監督に脚本家の吉田玲子さんと、夫婦両方が竹原出身の我が家族とでTV化に備えてのヒアリングの場が設けられた。

 もうかなり前の事なので詳細は忘れてしまったが、先ずは始めに監督から問われたのが「竹原駅の"おかえりなさい"って知ってますか?」に「はい、帰省時に偶然見つけました」の回答。知られていたのでちょっと残念がられてかな?のような気がしました。私からは「OAV観ましたがみんな竹原弁じゃないんですね」に対して監督は「みんなが方言を使うと他県の人は分からないんで、ちもさんだけにしたんですよ」だったと記憶している。「最後の朝日山のシーンはとても感動しました」には「あのワィンディングにさよみさんを思いっきり走らせてみました」にも監督がニンマリ。色々、どうでも良い話をしたので記憶が薄いのだが、監督の横で無言でメモを取っていた吉田玲子さんから出るオーラをハッキリと覚えている。監督がルモを取っていたパソコンはリンゴマークのあるやつで、田坂プロデューサさんのは違って黒いやつだったかも。前から思っていたけど「やっばりクリエーターはマックなんだ」と改めて感した。

私から紹介したものでは以下の通り。

(1) の二重焼は子供の頃から大人気で遠方から自動車で来て箱買いする人が多く、冬には待ちの列が出来るほどですよ。(竹原市街地図を見せて場所を紹介)
(2) 照蓮寺の除夜の鐘と西方寺の除夜の鐘には開始時間の協定があり、昨年は西方寺がフライングしました。急な階段で怖いですが除夜の鐘だけ鐘楼へ上れます。
(3) 紅白が終わって「行く年来る年」の時間になると磯宮神社へ初詣の人が集まり始めます。露店も少しあって石段には待ち列ができます。
(4) ハチ岩海岸については監督は取材済みだったので、地元民の間では山を越える近道に心霊スポットがあると聞いたとを伝えた。プチ秘境探検にもってこいの場所かもとの紹介だったのだが、監督からはハチ岩を使いたいのだけれど賀茂川河口からファンが訪れてしまうと危ないので思案中とのこと。
(5) それならばと仁賀ダムの辺りから訪れる賀茂川源流ツアーのチラシを紹介。
(6) 朝日山や忠海の黒滝山では大晦日に山岳会による「豚汁」のおもてなしをしていますよ・・鎮海山から小吹まで抜ける中国遊歩道トレッキングツアーを催行ている山岳会のガイドブックを紹介。
(7) 吉名の秘境といえる「梅ヶ浜海水浴場」の場所を地図で紹介。
(8) 竹原市観光協会から貰っていた観光案内CDを提供。
(9) 1996年から撮りだめていたデジカメ画像3500枚のCDを参考・素材等として使ってもらえるようにと提供。
※ 松竹さんと監督からは「OVAたまゆらBD版」とお菓子を頂いた。

 その他、色々話があったかも
・角川さんの映画で申し訳ないですが「ほり川」さんがそのまま登場する「時をかける少女」は殆ど竹原ロケなんですよ。
・GWには竹まつりがあり、帰省時には賑わってます。帰省より前なので残念なのですが7月末には住吉祭りがあり、本川は櫂伝馬が行き来して掛町辺りが露店でいっぱいになります。
・堀川醤油はよく一升瓶を持って買いに行かされました。
等々・・・


 そして最後に皆さんへ色紙にサインをお願いして快く書いてもらえた。(田坂さんはこれが初の色紙サイン)監督から息子が好きなキャラクタを描いてくれるとのことで息子は「ケロロ軍曹」をリクエスト。カミさんは「たまゆら」そっちのけで「彩雲国物語大好きなんですよ~」と吉田玲子さんと話していた。
 その後、竹原帰省時に照蓮寺境内にて佐藤監督と遭遇。
愛用デジタル一眼で除夜の鐘の様子をしっかりと撮影中。カウントダウンが終わってから新年の挨拶をし合って、監督は磯宮神社へ直行とのこと。私は照蓮寺の住職と竹原の酒と肴で3時過ぎまで飲み明かした。

 西日暮里で紹介したもので扱ってもらえたのかな?と思われるのを以下に。

(1) の二重焼の紹介・・・hitotoseの2巻の幼少のりえ寝込みシーンにて初登場
(2) 磯宮の初詣の紹介・・・hitotoseの6巻の除夜の鐘シーンに続く初詣として登場
(3) 大広苑裏に2006年まで有った一本橋の画像・・・もあぐれ1巻のマエストロと父との回想で登場。
(4) 2010年の竹まつりパレードの目を閉じた「かぐや姫」画像・・・hitotoseオープニング「世界は知らなかった」のところがそれっぽい。

撮影月日:1997年8月当時に撮った一本橋(採用確定)
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撮影月日:2010年5月当時に撮った「かぐや姫」(この時、私の横に監督がいたのかも)
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 これだけ扱ってもらえるとは予想外で、二重焼については「卒業写真」のラストシーンにまで登場していたので感無量。当初は「アンタみたいな者へ松竹から話がある訳が無かろうが、香具師かもしれんけん、気をつけんにゃいけんで」と本気で疑っていた母親が、広島でTV放映された「hitotose」を生前に観てや磯宮が登場したことで「ほんまじゃの~、えかったのぉ~」とえらく喜んでいたのが懐かしい。「卒業写真」の最終回を映画館で観た直後に、このエピソードやお礼を佐藤監督や田坂さんへ直接伝えておきたかったのだが、考えてみればこちらは竹原出身というだけの一般人、アニメ界では雲の上の人であったことに今更ながら気付いてしまい、最後の〆イベントで忙しそうな様子なので・・またの機会に・・の繰り返しとなって、とうとうお礼の連絡をするタイミングを逸してしまったことが悔やまれてならない。

3年後、私はここに寝転んでます・・見付けたら声を掛けてください。
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購入月日:2016.05.04
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 ツイッターで紹介済みだが癒しの月あかり「ゆめ月」とたまゆらの「ももねこ」の癒しのコラボレーションで生まれたブックカバー2種を買ってきてもらったので改めてホームページで紹介する。このブックカバーは元は「満月を愛でる三日月に乗ったうさぎ」をモチーフにデザインされた和紙製なのだが、主人公のうさぎがももねこに替わっているのだ。10月までの限定品でビニールケース入りの高価なほうにはメモ帳、栞、コースターがセットになっている。竹原特有の手作り臭さが全く感じられない最上級クラスのクオリティーを感じる。この「ゆめ月(ゆめづき)」はランタンなどの照明器具の製造販売をしている工房で中通にあるようだ。あの「憧憬の路」の竹明かりを再現したロウソクのように炎がゆらぐLEDを使ったランタンを製品化してくれないかなぁ。
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 「道の駅たけはら」オープン当時から設置されているこの丸ポストだが、ずっと飾り的な置物と思っていたら現役のポストだった。この丸ポストが竹原市内にどのくらい残っているかまでは調べてはいないが、かなり前に紹介した忠海町に1本現役を確認している。丸ポストでずっと気になっているのが町並み保存地区にある「町並み保存センター」に1本ある。

撮影月日:2015.12.31
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撮影月日:2011.12.30(オープン時の年末)
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 ・・・・これがその丸ポストだ。21世紀になる前に取った画像は、押すと崩れそうなほどに朽ち果てて赤色はサビ色に近くなっており、見ての通り投入口も閉められており郵便の取集はない。21世紀後は、この丸ポストの前に立って家族の記念写真を何枚か撮ってきたが、いつからか別物に挿げ替えられたか、レストア?されたのかデコボコが消えて赤色も鮮やかになっていた。これも「使用不可」等の紙が貼られたしながら、隅っこで少しずつ色褪せてきている。

 現役でもないポストが何の説明書きも無く、なぜ、ここにずっと存在しているのか・・・何らかの理由で設置されているのか、それとも固定されず単に置いてあるだけなのか・・・・色を塗り直されたということは前者に違いない。

 色々と考えてみた。先ずは町並み保存センターが出来る前はここは何だったのか。微かな記憶ではブロック塀で囲まれた庭のある平屋の家屋があったと思う。ここに法務局が有ったと聞いているのだが、どう見ても普通の民家だった。このブロック塀の前に丸ポストが立っていて、扉のアルミの板をカチカチ左右に動かして遊んでいたのを覚えている。その丸ポストがなぜ廃棄されずにここへモニュメント的に置かれているのか。隣りは初代竹原郵便局跡なので、このレストアした丸ポストをそこへ設置すべきだったのでは?・・とも考えたが、当時と同じ型の「書状集箱」が現役ポストとして設置されている。再利用のタイミングが悪くて行き場を失ったのか、再利用予定があるのか。

 もしも昭和30年前後からここに在って現在も現役であれば初代郵便局と同じ郵便事業職歴「一筋60年」なのだが、いつ頃に引退させられたのであろう。もしも人間ならば大工一筋30年、寿司を握って30年で「匠」や「師匠」と言われ、役者や芸術家などであれば40年も一筋ならば先生と崇められ世渡り上手で要領良ければ叙勲対象にもなるのだが、サラリーマン歴一筋40年は成果を出さなければ厄介な置物みたいに扱われるのが現実だろう。この丸ポストを眺めていると何となく自分を当てはめて、それをしみじみと感じてしまう今日この頃なのである。


撮影月日:1998.08.10,3
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撮影月日:2014.08.17
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撮影月日:2016.05.03
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 昨年夏に「1934 Nika Nika Space Anthology / Arios Japan,co,ltd 詞詠み」で「下見」・・いや、庭に入ってみただけ・・だったことから、カミさん単独でのGW竹原帰省時にここを訪れてみるようリクエストしておいた。場所は仁賀町のダムを渡った先にある延命寺の隣だが、広い庭のある古民家なので店舗としては目立たないのだ。しかし、ここを求めて遥々遠くから訪れる客も多く、ブログ等でも紹介されることが多いようだ。特にピザについては人気が有って、地元竹原では「仁賀にある有名なビザ屋、知っとるん?」と代名詞で問われることが多かった。問いに対して「店の名は何なん?」と聞くと「なんとかアンソロジじゃったかのぉ」と中途半端なのだが、WEB・店の看板等でも店名が微妙に異なることから、貰ってきた名刺に書かれた店名を正式名称としておくことにした。(本ページのタイトルがその店名)

 訪れたのは5月3日の14時過ぎ、店主の許可を得た上で店内を撮影たとのこと。注文したピザは「りんごと胡桃とクリームチーズ」と「・・・鶏肉・・(思い出せない)」の2種で料理名は「HIOピザ」らしい。ではHIOとは何か?熱い石釜オーブンで焼いた・・・いや、FaceBook中の記事を探すと「(H)へ~、(I)意外に、(O)美味しい」が正解だった。
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 あ~っやっと見つかった。この画像を探し出すのに数時間かかってしまった。過去に「スペース・アンソロジー」という店名を見たのだが、その場所は照蓮寺から曲がって胡堂への角「COZY CAFE」の有ったところと記憶しているのだが2012年5月に撮ったものが2枚だけあった。店舗に「モヘア堂 手作りナチュラル雑貨」と「domdom(雑貨)」を併設しいている。この画像、このまま埋もれてしまうところだったが、町並み保存地区から仁賀町への移転の前後を記録に留めることができた。この移転時期を調べていて見つけたのが広島ホームテレビのJステーション(2012.2.28放映)のアップロード動画「スペースアンソロジー(竹原の古民家カフェ)」だ。前述の「詞詠み(しよみ)」や「モヘア堂」についての紹介もあり、ここが開店したのが2012.2.11と書かれている。それでは仁賀町移転にて再開したのはいつか?FaceBook「カフェと教室の店 スペースアンソロジー」を遡るとカフェは竹原町を【2013.5.4】に終了して仁賀での再開が【2013.6.15】であった。FaceBookで見付けたメニューからピザ名も「くるみとりんごクリームチーズピザ」と「テリヤキチキンピザ」であることが判明。これで未だ確定できていない正式店名以外はクッキリ・スッキリ!!あとは今度の帰省時に仁賀を訪れてピザを頬張るだけだ。

撮影月日:2012.05.03(町並み保存地区)
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 平成28年3月23日未明、西方寺石段の上り口手前の右手住宅が火災。住宅2棟と倉庫、隣接する家屋が1棟半焼するも怪我人無しで、野次馬なのか朝方から竹原関係ツーイトであふれた。消防団か取材によるのかは分からないが暗闇を焦がすほどの激しい炎と火の粉が上がる写真や動画がネット上で閲覧できる。それ以後、火元・原因・被害額・保存対象建造物か否か等の情報は得ていない。

 現在、西方寺への路地へ入る角は駐車場だが2000年の春に店舗が解体され更地にされようだ。それから今年までずっとこの状態だったが、とうとう景色は一変してしまった。同じアングルの画像は少ないのだが、2000年頃からのものと並べてみると「変わらないようで、どこか変わっている」が分かる。それも改築されるに伴って古い雰囲気になるよう工夫されているように感じる。
この写真は5月4日の「竹まつり」にて撮ってもらったものだが、焼けた家屋の残骸は残っており、今も火災による焦げた臭いが漂っているに違いない。


撮影月日:2016.05.04(現在)
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撮影月日:2015.05.03(西方寺トイレ前から)
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撮影月日:2011.08.17(同じアングル)
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撮影月日:2013.01.03(石段中ほどより)
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撮影月日:2013.05.03(観音堂裏より)
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撮影月日:2000.01.05(山門前より/駐車場無し時)
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撮影月日:2000.05.03(西方寺工事中/更地直前)
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