安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2019年11月

 2019.11.30
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#a01:鮮魚センター(2011/12/30撮影)


 この本川通りにある古い建物、写真を見ただけで「ああ、あれねっ!」と分かる地元出身者はどのぐらいいるのだろう。昭和生まれの竹原育ちならば本川通りにあった「魚屋(さかなや)」か「魚市場(うおいちば)」と言えば思い出すに違いない。

 ここが使われなくなったのはかなり前だが、手描きによる伊勢海老、たこと鯛が描かれた看板だけが長いあいだ残っていた。その看板には正式名の本川中央魚市場 鮮魚センターも書かれていた。私か好きな竹原の看板ベスト3に入るもので、ベスト1がこの2枚の手描き看板である。どちらも同じに見えるが、1枚目は本川通の東西に面したもので、2枚目は南北のものである。文字の有無やデザイン、鯛の位置、たこの向き、どれも手描きなのである。この写真はもう魚市場として使われなくなった時代2006年のもので褪せや錆が激しい。
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#a02-03:鮮魚センター看板(2006/01/02撮影)

 

  続く写真3枚はその2年前の2004年、魚市場として使われていた最後の頃の看板である。午後だったので客はいなかったが朝9時台ならば様子は違っていたかもしれない。ここで直接買わなくても、手押し車で売る街の魚屋さんがいたし、ここ以外にも竹原町内には2,3件の魚屋や市場もあり、スーパー内にも鮮魚コーナーは有った。
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#a04-06:鮮魚センター看板(2004/05/05撮影)


  僅かだがその街の魚屋さんの貴重な写真がある。1枚目は新町(住吉橋から100m西辺り)と2枚目は田中(竹小第一校庭)付近で撮ったもの。欲しい魚が無くても注文しておけば翌日持ってきてくれるし、魚をさばくのが苦手か面倒であれば、世間話をしながらその場でしごう(おろしたり鱗やドブを取る)もしてくれる。残った頭や骨は味噌汁に使えるので持ち帰るし、ドブなどば捨てずに足にもぐれてくる野良猫にやることもあった。昭和の時代はこれが竹原の街の日常の様子であった。
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#a07:街の魚屋さん(2003/05/04撮影)

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#a08:街の魚屋さん(1999/05/07撮影)


  2004年頃からは街の魚屋さんを見かけなくなり、代わりに軽トラでの販売に変っていたようだ。

 

 以上、時を遡る順で写真を紹介したが、鮮魚センターの様子が分かる最古のものを紹介する。1998年の大晦日の午前9時、近所の人であろうか?エプロン姿のお客さんが訪れていた。
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#a09:鮮魚センター(1998/12/31撮影)

 

 軽トラ版の魚屋さんもここに載せておく。場所は梅谷呉服店裏、喫茶プリンス前辺りである。 最近では軽トラ版も見掛けなくなった気がする。
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#a10-a11:軽トラの魚屋さん(2010/05/04撮影)

2019.11.29
 忠海町床浦の国道185号線海沿いにエデンの海パーキング・エリアができたのは1998年4月吉日。この辺りの国道は山を貫いて通っていた。いつの頃だったかは思い出せないが、金網張りの道路の法面が崩れた災害があり補修工事で残されていた一部分にP.Aができた。そのP.A工事中の写真がこれである。1998年正月に訪れた時はトイレと東屋を残すのみで、既に完成していた駐車場や展望台は開放されていた。

 1枚目は東側の忠海高校と送電鉄塔、2枚目と3枚目は正面の記念碑「エデンの海」と作家・高橋玄洋著・筆(忠海高校出身/脚本家・劇作家)による碑の解説である。4枚目は丸太モドキのコンクリート柵の先に見える霞んだ大久野島、最後は西側の山影に覗く電発であり、国土交通省が選定したフォトスボットの1つなのである。
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#04-08:エデンの海P.A(1998/01/03撮影)

  その年のGW帰省時に訪れた時は完成直後だった。小高い山頂にある東屋前にこのようなパノラマ眺望した島々の絵地図パネルが追加設置されていた。GW頃は霞みのせいかクッキリ見える日は少ない。(註:1枚の写真に納まりきらない幅だったので5分割撮影して結合したものを添付)
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#01-02:旧眺望地図(1998/04/28撮影)


  それから2009年までP.Aで撮った写真は見つからなかった。関東から自動車で帰省していので何度もここを通っていたはず。駐車場はフルではなかったが、大抵は展望台の東屋に誰かが弁当持参で長居していたせいで立ち寄らなったのだろう。また、2009年後は背面の山からの眺めのほうが遥かに良かったので、以後P.Aからの眺望写真撮影はしなかったようだ。よって後にも先にも2009年以外はまともな写真はないのである。

  完成から11年が経過した2009年の写真を紹介する。カメラの解像度も高くなり、碑や景色もかなりクリアに撮れる時代となっていた。被写体自体は特に大きな変わりは無いだろうと思っていたが、パネルが御影石の新バージョンに変っていたのをブログ記事書込み時に初めて知る。変わった経緯はもちろん分からない。同様にこれも1枚には収まらず分割撮影されていたのでフォトショで結合してみた。 
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#03:新眺望地図(2009/08/07撮影)


  続いて国土交通省の写真が撮れるパーキング「とるぱ」。パーキングとフォトスポットがセットになった場所でここは34-0009のナンバリングである。
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#a01-a03:とるぱ(2009/08/09撮影)

 

 次はP.A完成日を記念した標である。奥に忠海高校の生徒が清掃しているトイレも確認できる。
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#a04:完成日(2009/08/09撮影)


  高橋玄洋の書である碑「エデンの海」、裏面には寄贈者が掘られている。また、碑の右横に有る高橋玄洋著の説明も拡大版を載せておいた。
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#a05-a07:高橋玄洋による書の碑(2009/08/09撮影)

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#a08-a09:高橋玄洋著による碑の説明(2009/08/09撮影)


  そしてP.Aからの眺めはこのような感じ。180度パノラマであり、真下を覗けば海岸もある。ここから誰が撮ってみても同じようなアングルで同じような被写体の写真となるのである。プロやカメラ趣味オヤジが最高の機材で最高の腕でここから撮れば素晴らしい写真がとなるので、素人が真似しても太刀打ちできないスナップショットばかりとなる。空気感まで写るカールツァイス製レンズなら尚更であろう。
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#a10,11,13,14:エデンの海P.Aからの眺望(2009/08/09撮影)


  2009年の夏、エデンの海P.Aの背面の山頂上にあったカフェ「Belle Vue カフェ エにデンの海」を家族で訪れた際、庭からの眺望の美しさに息を呑んだ。土日しか営業されておらず、エデンの海P.Aから見上げても建物は見えない位置にある。勝手に庭には入ることはできないが、途中までの道ならばこのような写真が素人でも撮れるのだ。それを知ってからはP.Aの東屋まで登ることはなくなった。
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#b01-b04:ベルヴュー下(2011/05/05撮影)


  そこまでしなくてもP.A東側にある忠海高校がロウボート大会で使う海岸に下りれば、このような落ち着いた景色も撮ることができる。
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#c01-c04:忠海高校向いの海岸より(2011/05/05)


  さてなぜ「エデンの海」なのか。その由来には諸説あるようだが1950年に公開された映画「エデンの海」は忠海高校(当時は女子高、1949年に共学となる)が舞台となったことが起源と親から聞いている。小説「エデンの海」(著:若杉慧/1946年)を松竹が映画化したもので、後に日活や東宝が同一題材で2作を制作している。

 忠海高校が舞台となった第1作は、主人公の教師が鶴田浩二、ヒロインの女生徒は藤田泰子。東京から忠海女子高校へ赴任してきた教師と、気が強く自由奔放な女子高生が徐々に惹かれて恋に落ちるストーリーで当時としては爽やかな青春映画であった。

 ロケは忠海高校~忠海駅付近、エデンの海P.A付近の山、海岸と沖である。ヒロインと教師が馬に乗るシーンは、忠海高校の校庭でトラックの荷台を馬に見立てて走らせて撮影された。一般公開でロケされたので私の母は生で撮影中の鶴田浩二を見ており、三原の映画館で鑑賞している。この辺りの海は忠海高校の校歌にもある「味潟海」と呼ばれており、広島出身であったこの小説の作者は楽園のような忠海の景色に惚れてアダムとイブが暮らすエデンの園から小説名を「エデンの海」としたとの説がある。

 昭和時代の竹原に有った映画館「新栄座」(現在は道の駅P)で、当時放映されたかは不明だが、放映後に廃棄されずに保存されていた16mmフィルムが1997年に奇跡的に忠海で見つかり、竹原市民会館で公開上映された経緯がある。これは1950年版ではなく、1954年に新東宝にて再配給された「エデンの海より 青春の告白」のようで、後に松竹にてHDレストアされたものが2013年10月に衛星劇場でTV初放映(再放送含め2回)された。

 私はこのレストア版の放映時に石巻へ出張中であったが、出張先で当日放映されることを偶然に知って開始30分前にケーブルテレビへ追加視聴契約を済ませ、即家族へ電話連絡してギリギリで録画に成功した。画像音声共に状態はかなり悪かったが、国道が未だ通っておらず校庭がそのまま海岸へつながっていたり、木造の倉庫が映っていたことや駅前の大通りなど珍しい映像を目にすることができた。

 2作目は1963年公開(大映)の高橋英樹と和泉雅子、再び忠海高校が舞台でリバイバルとるはずだったが、高度経済成長の波で竹原はロケに適さなかったらしく他の地区へ変ったようだ。3作目は 1976年公開(東宝)で山口百恵と南條豊である。どちらもストーリーやロケ地については竹原とは無関係で調べてはいないが、アマゾンなどで探せば3作目なら購入できるであろう。一応、1作目を録画した証を載せておく。
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#d01-d03,d06:エデンの海より 青春の告白(2013/10/03 CS衛星劇場放映 制作:松竹)

2019.11.28
 演歌のタイトルに有りそうな名、この渡逢橋は楠神社向かいの本川に架かる橋である。観光などで新町観光駐車場へ停めたなら保存地区へ近いのでここを利用するであろう。旧日の丸写真館がコースにあれば住吉橋。道の駅Pならばどちらも渡ることは無かろう。
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#w01-w02:渡逢橋の銘板(1998/05/04, 2003/08/11撮影)


 この橋名の漢字「逢」だが作詞の経験者なら使ってみたい漢字といえる。だが時間や瞬間を「とき」、明日を「みらい」、出航を「たびだち」と読ませたがるフォーク/ニューミュージック系の作詞とは系統が違う。どこそこで「会う」ではなく、バッタリ「遇う」でもなく、ヒドイ目に「遭う」でもない。巡り「逢う」に使われる演歌系の漢字なのである。離れ離れとなった男女が巡り巡って必然的にこの橋を渡って出逢うのである。玉置宏の絶妙なタイミングで曲紹介された演歌が聞こえてこないだろうか?

 もしもこの渡逢橋のデザインが、普明閣の欄干風か古庭橋風であったら橋名の由来次第では歴史文化的建造物の仲間入りをしていたに違いない。

 この橋の歴史は古い。よく目にする竹原の古い屏風絵地図を見ると本川に架かる橋は、この北にある山陽橋(漢字は未確認)と渡逢橋のたった2本しか描かれていない。省かれた可能性もあるが、如何にも歴史が有りそうな住吉橋さえもなし。

(2019/12/01追記:大正15年地図では未だ番屋橋は無く、その上流の大原産婦人科医院と柿井酒造場前の橋有り。大原産婦人科は林住宅となった後に現在は売地、柿井酒店となって橋は現存するが橋名は不明)

現在、本川に架かる橋を分かる範囲で北から南へ順番に

・橋名不明(中通小へ続く橋、中通へ抜けて更に安田医院へ)

・橋名不明(尾道商店跡地前の橋、中通へ抜けて更にエネオスへ)

・橋名不明(柿井酒店角のT字路に架かる橋)

・橋名不明(林住宅跡地の私有橋)

・番屋橋(大広苑裏の先、江戸時代ここに番屋が有った)

・一本橋(大広苑裏に2003年頃まで有った木製電柱を束ねた橋

橋名不明(3本ぐらい木製の私有橋

・古庭橋(西幼稚園近くに最近できた)

・山陽橋(藤井酒造に近い、最近まで銭湯の地蔵湯が有った)

渡逢橋(楠神社向い)

・住吉橋(旧日の丸写真館向い)

・新湊橋(道の駅のはす向い、新港橋名の地図もある)

・本川橋(道の駅P向い)

・日本橋(オリオン三叉路を本川側へ)

・八幡橋(礒宮鳥居前の歩道橋下)

・汐入橋(汐入川踏切を渡る前)

・汐入川橋梁(JR呉線)

・扇橋 (汐入川踏切を渡った先、珍しいアーチ状)

・竹原大橋(汐入橋、汐入川橋梁、扇橋の高架/1971年3月建造)

がある。本川の約2.5km区間にこんなに沢山の橋が有りながら歴史ある橋は2本しかない。(註:本川は途中から汐入川のようだ。因みに番屋橋辺りは番屋川、竹中辺りの賀茂川は成井川と呼ばれていた。)

 

 渡逢橋そのものは何の変哲も無いコンクリート製で鉄の欄干だが、ここからの眺めは北側も南側も何だか懐かしさを感じてしまう。特に北側の景色は素晴らしい。緩やかに右へカーブした流れ、鏡面のような緑色の水面に映り込む民家群と空、遠く向こうには朝日山もある。浅そうで深そうで人を寄せたがらない威圧感。そして保存地区とは逆に「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさと既視感が漂う写真が撮れるのである。また、向こう側にある山陽橋からの眺めも同様に素晴らしい。この両橋から撮り続けた写真が多量にあるので一部を時系列で紹介する。 

 

****1998年****
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#w02:渡逢橋から(1998/05/04撮影)


****2003年**** 
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#w03:山陽橋から(2003/08/10撮影)

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#w04:渡逢橋から(2003/08/11撮影)

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#w05:山陽橋から(2003/08/11撮影)

 ****2004年****
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#w06:渡逢橋から(2004/05/03撮影)

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#w07:山陽橋から(2004/08/01撮影)

 ****2008年****
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#w08:渡逢橋から(2008/08/17撮影)

 ****2010年****
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#w09:山陽橋から(2010/08/05/04撮影)

 ****2011年****
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#w10:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w11:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w12:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

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#w13:渡逢橋から(2011/05/04撮影)

 ****2014年****
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#w14-w15:山陽橋から(2014/08/17撮影)

 ****2015年****
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#w16-w18:渡逢橋から(2015/01/03撮影)

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#w19:渡逢橋から(2015/08/09撮影)

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#w20-w21:山陽橋から(2015/08/09撮影)

 ****2017年****
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#w22:渡逢橋から(2017/08/11撮影)

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#w23:山陽橋から(2017/08/11撮影)

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#w24:渡逢橋から(2017/08/13撮影)

 ****2018年****
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#w25:渡逢橋から(2018/08/26撮影)

 ****2019年****
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#w26:山陽橋から(2019/05/01撮影)

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#w27:渡逢橋から(2019/10/17撮影)

  以上、1998年から2019年まで21年間の定点観測的撮影となった。潮の満ち引き、季節、天気および撮ったカメラで違いは出ているが、21年間が経過しても「変わっていそうで変わらない」謎めいた懐かしさや既視感が漂う場所なのである。

2019.11.27
 火曜サスペンス劇場「安芸奥の細道殺人事件」をご存じだろうか?

 このタイトルだけだと竹原にゆかりがあるテレビ番組には見えないが、なかなか見応えのある竹原成分が濃いミステリードラマだ。テレビ東京の小京都サスペンス「 かぐや姫伝説殺人事件」と同様に日本テレビ制作の火曜サスペンス劇場でも「小京都ミステリー・シリーズ」があり、竹原が「安芸の小京都」として事件の舞台となる。初回放送は1993年で、旅行雑誌のフリーライダー(片平なぎさ)とカメラマン(船越英一郎)が「小京都の女たち」という企画で日本各地の小京都を取材するのだが、なぜか毎回殺人事件に巻き込まれ取材そっちのけで見事に事件を解決してしまう痛快コミカルストーリー。竹原はシリーズ内の第10作目であり、町並み保存地区を中心に殺人事件が展開する。あらすじはかなり省くが登場場所を順番に挙げてみる。

 

【以下、ネタバレ注意】

 

1.火曜サスペンス劇場オープニング(唄:中村彩花)

 ・全体のヒックアップ

2.タイトル「小京都ミステリー 安芸奥の細道殺人事件」

 ・原爆ドームと尾道の千光寺からの海

   地図:広島と尾道の中間にあるのが「安芸の小京都 竹原」

      朝日山からの竹原港小吹の竹林、

      春風館の竹原絵屏風松阪邸

      西方寺山門枠からの石段と堀川醤油  

    で今回のタイトル「安芸奥の細道殺人事件」が出る。

3.東京にてふたりは

   今回竹原支部で開催される吟行大会の出場者に

    最年少で選ばれた女子高校生の取材を依頼され竹原へ向かう。

4.かぐや姫号竹原駅へ到着

5.旧村上邸(現「竹楽」)を曲がり竹の茶屋いっぷくを訪問

   旧村上邸付近は未だ路面に石畳が無い。

   竹の茶屋いっぷくの主人(父)の娘が今回の取材対象。

   訪問時、父が電話相手に怒って娘と一緒に店から駆け出す。

   片平と船越のふたりは父と娘を追いかける。

5.町並み保存センター2階(萌え木広島支部)

6.娘とふたりは西方寺石段から普明閣と寺の本堂前へ

  ここで娘への取材をしながら事情を聞く。

7.宿泊はホテル賀茂川荘送迎バス

8.翌日、吟行取材で大崎上島へ(第五さんよう

  ふたりは娘の父が乗船するのを見かける。

  ここで殺人事件に遭遇して警察を呼ぶが疑われる。

9.ふたりはいっぷくへに戻るが父は不在

  警察が事情聴取で訪れるが父が出頭したらしく帰署。

10.竹原警察署(現「道の駅たけはら」)

11.町並み保存センターで吟行大会の打合せ

12.竹原警察署で娘が父に面会

13.ふたりがいっぷくで娘と相談

14.賀茂川荘的場突堤でふたりが事件分析

15.再び大崎上島へ事件取材

16.広島のにしき堂へ父と離婚した母親を訪ねる

17.ふたりと娘はいっぷくで母を待つ

18.竹原警察署で母と面会

19.賀茂川荘に戻って事件分析

20.松阪邸~普明閣付近での吟行大会の吟行を取材

21.小吹の竹林でも取材(葡萄園は神田かも)

   ふたりが食べた竹原ピオーネが事件解決のきっかけとなる

22.船越が確信を得るため大崎上島へ

23.賀茂川荘に戻って真犯人を確信する

24.竹原警察署で娘が父に面会

25.萌木会吟行大会(東野町の長善全寺?)

   ここで片平と船越は真犯人へ罠を仕掛けてみる

   待ち構えていた警察が真犯人へ逮捕状

26.ふたりはいっぷくで釈放された父と話す

   そこへ娘が母を連れてきて復縁

26.岩本邸前でふたりへ娘が御礼

27.朝日山から竹原町の眺望(なぜか三井の煙突が低い?)

   ここでエンドロールか始まる

    竹原市の皆さん

    竹原川柳会

    大崎上島のみなさん

   明神へパンして撮影協力

    竹原市

    竹原観光協会

    芸陽バス株式会社

    山陽商船株式会社

    湯坂温泉郷ホテル賀茂川荘

    日照山 長善寺

    にしき堂

 以上、実に約85%が竹原で約10%が大崎上島なのである。

 

  尚、小京都ミステリーは現在でも視聴するチャンスがある。有料衛星放送ANXミステリー・チャンネルなど帯(同一時間帯で毎日)か、一挙放送(数日間かけて1話から最終話まで連続)を待っていれば、竹原舞台のドラマが年に1,2度は重複含めて視聴できる。

 

 さて、長いネタ振りとなってしまったが、このドラマの中心的舞台となった竹の茶屋いっぷくでドラマロケの証となる写真を紹介する。最近はどうなっているか確認していないが、店頭の商い中の看板横に片平なぎさと船越英一郎の写真が飾られていた。(註釈:秋無い=商い中)
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#01-06:竹の茶屋いっぷく(2003/12/27撮影)

 礒宮八幡神社の秋のお祭り、子供の頃はこの祭りを「祇園さん(ぎょんさん)」と親しく呼んでいた。竹原町の街を「蒲団太鼓(ふとんだいこ)」と子供神輿が練り歩き、街中の大人や子供が祭囃子や掛け声に酔いしれていた。蒲団太鼓や神輿が通るコースの軒下や塀にはしめ縄?(正式名不明:細い縄に等間隔で雷り状の半紙を下げたもの)が張られ、高い雲の青空に心地よい風が流れ始める季節であった。昭和の古き良き時代の竹原、この祇園さんと住吉まつりが最大の風物詩なのである。

 「祇園さん」がいつ頃から行われているかは分からないが、竹原市の資料では蒲団太鼓が登場したのは明治11年と推測されるとのこと。昭和時代も暮れとなると蒲団太鼓の担ぎ手が足りなくなって衰退してしまったようだ。「祇園さん」自体は続けられていた記憶があるのだが、ピンクレディーが登場した75年頃からは、街を練り歩く祭囃子も蒲団太鼓も見かけなくなった覚えがある。小学生の頃は子供神輿を担いでみたがったが、どのような参加資格や手続きが有るのかが分からなかった。

 その蒲団太鼓が平成9年(1997年)に復活したのだ。1998年元旦の夜中に初詣に礒宮を訪れてみたら神輿倉庫の横に真新しい蒲団太鼓が入れられた格納庫が建てられていた。この格納庫はガラス張りでほのかにライトアップされていた。
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#a01-a02:蒲団太鼓(1998/01/01撮影)


  この真新しい蒲団太鼓を見付けたことで、実家の親に聞いてみて初めて復活を知った。この礒宮は勝手知ったる遊び場だった。夏休みには旧蒲団太鼓が置かれていた広い倉庫でよく遊んでいた。鉄砲水で本堂が流される30分前まで石段で遊んでいたことや、本堂が崩れた土砂の中からご本尊の手を見付けて社務所へ持って行ったこと、徐々に蒲団太鼓が朽ちてゆき解体されるまで見届けた長い季節の流れを思い出す。

 蒲団太鼓が復活してから「祇園さん」が開催される時季には帰省することは無かったが、2014年の9月に法事で帰省した時、初めて懐かしい祭りを体験したのである。

 その2014年初詣でも、あの新調から17年が経過した蒲団太鼓を確認していた。2003年の6月に行われている夏越祭りに撮られた写真と合わせて以下に紹介する。特に3枚目に注目、新調した蒲団太鼓を竹原ライオンズクラブが寄贈した証が伺えるであろう。17年前の1997年、2003年、2014年と比較してみると経年変化は分かるのだが、朱塗りではない写真がある。もしかしたら2基あったのか途中で修繕されたのか。
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#c01-c03:蒲団太鼓(2003/07/15撮影)

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#b01-b02:蒲団太鼓(2014/01/01撮影)

  さて2014年の9月14日に復活した蒲団太鼓を訪れた時の写真を紹介しよう。担ぎ手は商工会議所青年部(ぶちぇぇ竹原)のメンバーと厄を迎える男性、小学生4人が乗り込んで太鼓を叩きながら、決められたコースを練り歩くのである。

 もちろんコースは調査済みだったので撮りやすい場所で待ち構えたり、ぐるっと回って戻ってくるのを待ったりできた。

 コースは礒宮出発、向島の路地を通って田中を抜け、享保町から竹小へ、地蔵町から地蔵堂前、町並み保存地区のメイン道路から胡堂、照蓮寺前から上市を抜け、番屋橋手前でUターン、西幼稚園横の照蓮寺Pで休憩、楠通りを抜けて渡逢橋を渡って榎木町を北上し、旧国道を新町まで戻って秋葉神社向かいから渡逢橋手前で観光駐車場から一冨士で西へ、新町交差点から郵便局へ抜け、ゆめタウン(Pで休憩)から御幸、竹高から中尾を曲がって・・中須・・皆実・・明神(休憩)でUターン、神田善太郎碑経由で御幸に戻り、ナフコ(Pで休憩)、あいふるから竹原駅、本川商店街、踏切を渡って黒浜・・・大石・・で礒宮へ戻る。歩くだけでもかなりの距離で相当疲れるであろう。

  ここで疑問がわいたのだが、2003年に弟からもらった格納庫の蒲団太鼓を撮った写真は6月の祭りでキャプションが「祇園祭」となっていた。その頃に礒宮の祭りが有った記憶は無かったのでイベント一覧を確認したら「夏越祭(なごしさい)」があった。新たに始まった祭りなのかもしれない。では秋の「祇園祭」は「祇園さん」なのか?「秋の例大祭」だったのである。昭和時代の「祇園さん」は秋だったが9月中旬から10月上旬の幅があったような気もする。この「例大祭」は9月の第三日曜日と決められているが、2014年に法事帰省で撮ったのは9月14日(日)で第二日曜日だったのである。ゴミ収集日のように厳格ではないようだ。

 話は反れたが「祇園さん」の名前は昭和生まれにしか分からない時代となった。では昭和の「祇園さん」がどのぐらい継承されているのであろうか。子供神輿は無くなったが、蒲団太鼓が復活して神社境内でも各種イベントが開催されている。そして「祇園さん」には欠かせないのが面を被った「きじん」「はなぼけ」「ひっかけばばあ」の3人衆。振舞い酒に酔って舟を漕ぐ櫂や割れた竹刀のような棒で地面をバチバチ叩きながら子供めがけて突進してくる。子供は悲鳴を上げながら逃げ回り、気の弱い子は親の陰に隠れる。気の強い子はこっそり後ろから叩いて逃げる。秋田男鹿のナマバケのような巨大面ではないが、トラウマとなるぐらい怖かった子もいただろう。嬉しいことにその「きじん」「はなぼけ」「ひっかけばばあ」が継承されていた。

 面も修繕または新調されたのか、昭和時代に不気味だった朽ちて色が剥げ落ちた面ではない。一度被れば神が降りて人が変わり、気を失うまで面が取れないぐらいの不気味さだった。この不気味さはもう無いが「うおーっ!」とくぐもった声で駆け寄ってくる迫力は当時のままであった。竹原町内では通じていた「きじん)」「はなぼけ」「ひっかけはばあ」だが、その名も未だ残っているのだろうか?「きじん(きしんとは呼ばない)」は「鬼神」で鬼の面、「はなぼけ」は「鼻ボケ(ボケ=ボケカス)」で天狗の面、「ひっかけばばあ」は「引掻け婆」で般若の面だと勝手に解釈していたのだが、どうやら違っていたようだ。

 この「例大祭」に登場するのは「鬼神」=蒼白の般若の面、「赤鬼青鬼」=鬼の面(豆まきのような面)、「天狗」=赤い天狗の面、そして獅子舞の「獅子頭」の計5体なのである。たぶん「はなぼけ」は「天狗」の俗称だったのだろう。だが一番怖かった「ひっかけばばあ」の存在がないのである。記憶していた般若面の「ひっかけばばあ」は実は「鬼神」だったのだ。「巨人の星」の主題歌冒頭の歌詞「重いコンダラ」、堺正章の「サヨナラ東海鬣(タテガミ)」状態で今までずっと「紙飛行機の推進力」のようにボーッと生きていたようである。

 

 それでは2014年9月に撮った蒲団太鼓と「鬼神」「赤鬼青鬼」「天狗」そして「獅子頭」を紹介しよう。
01
02
#01-02:蒲団太鼓(2014/09/14撮影)

0608
#06,08:「鬼神」

 
03
11
#03,11:「赤鬼青鬼」

05
10
#05,10:「天狗」

 
09
#09:「鬼神」と「赤鬼」


07
#07:「獅子頭」

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