安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2019年12月

No.2019.12.31

 グリーンスカイホテルのエレベータ待ちの最中、なぜか壁に掛けられていた陶芸家・今井政之氏の作品に見入ってしまい乗り込む機会を逃してしまったことを思い出した。先週25日で89歳を迎えられた今井政之氏はこれまで数多くの叙勲、日展名誉顧問、文化功労者及び日本芸術院会員という経歴の陶芸界の世界的な重鎮である。その見入ってしまった作品がこれである。

#01

#01:グリーンスカイホテルの展示作品(2019/12/18撮影)

 今井政之氏の作品と言えば面象嵌(めんぞうがん)による皿、花瓶、壺、香炉や茶碗なのだが、この壁に掛かっているのは額に入った絵画であった。写真を見れば下に作品名と解説が有るので宿泊の際に読んでおけば良かったのだがもう遅い。これは極薄の象嵌陶板画なのか、それとも描かれた絵画なのか、はたまた絵部分のみの写真なのか・・・。どれにしても今まで見たことが無かった絵画作品が気になって仕方なかったのである。

 ・・とは言っても私は陶芸については何も知らない、それどころか語る資格さえもない。女性陶芸家を題材としたNHK朝ドラ「スカーレット」を毎朝見ながら主題歌がどうしても「ヒッピー恋をした胸を焦がしたい」にしか聞こえない「畑に埋まった湯呑茶碗の欠片」のような面倒くさいオヤジである。

 考えてみれば、これまで光本邸の展示館へは2度しか訪れておらず、高崎の豊山窯へは裏の山道を通っただけである。実物の作品を撮った写真は2005年に泊まった賀茂川荘のこれだけ。この象嵌大皿の作品名はケースの立て札には書かれていないが「芸術員 会員 今井政之 作」と読める。

#02

#2:ホテル賀茂川荘の展示品(2005/08/09撮影)


  象嵌(ぞうがん)とは色と性質が異なる粘土を組み合わせて絵を描く作法で、この大皿でいうならベースの茶色い皿へ浅い溝を掘って、別の粘土をハメ込むことで魚の絵を描いているということ。塗の厚い漆茶碗、箱根の寄木細工や螺鈿細工などの陶芸版だと言えば分かり易いだろうか。

 何となく前からこの象嵌に少しだが興味が有り、粘土の材質が異なれば膨張率の違いで隙間が空いたり亀裂が入ったりするはずが、七宝焼のように自然な連続的表面となっている。まるで溶かした釉薬や粘土で描かれたように見える超絶技巧だからである。絵の具であれば乾けば分かるが、窯から出して初めて出来映えが分かるという偶然性をもコントロールできる域に到達した試行錯誤の無限ループによって成せる業といえよう。 

 この計算され制御された自然美を得るには、その異なる陶土が眠る場所の探求から始まり、窯形状・火力・置き場所・温度変化などの試行を繰り返して発色や風合いの性質を積み重ね把握して行く探索作業であり、いわば現在急成長しているAIのアルゴリズムと同じ処理手順であろう。何かの科学著書で読んだ「自然美は偶然ではなく計算された過程による必然である」を思い出す。

 

 さて、やっと本題の記事タイトル「土の華」になるのだが、2018年に「土の華 今井政之展 1990年 毎日新聞社」を古本市にて偶然見つけて即購入していた。表紙には古本特有のむず痒い臭いと汚れ染みが多少あるものの中身は新品同様であった。

 これは平成2年(1990)に東京・大阪・京都の高島屋で開催された「土の華」今井政之展の図録であった。販売価格は書かれていないが2000円~5000円であろうか。因みに古本市での価格はその1割であった。カラー写真による作品は126点である。開催された場所と日付は以下である。


09月27日~10月02日 東京・日本橋高島屋
11月01日~11月06日 大阪・なんば高島屋
11月08日~11月13日 京都・四条高島屋

#03


#04



#05


#03-05:土の華(2018/06/16購入)

   この図録には展示された作品写真の他に「作陶の軌跡」と「年譜」も載せられている。これまで2度しか訪れていない光本邸の展示館をもう一度訪れたいのだが、その前にこの図録ぐらいの事前知識は得ておきたい。

 以下、年譜の概略を引用する。1990年版なので1990年までだが、国内外への数多くの出展については割愛して竹原に因んだ部分に絞った。

1930年(昭和 5年)・・大阪市東区に生まれる

1943年(昭和18年)・・13歳、国民学校卒業。父の故郷竹原へ疎開

1944年(昭和19年)・・14歳、竹原工業学校(現竹高)在学中に三井金属で働く

1945年(昭和20年)・・15歳、原爆の閃光を受け終戦

1947年(昭和22年)・・17歳、竹原工業高校卒業、

          父の勧めで岡山へ赴き備前焼にて陶芸の技巧探求が始まる

1958年(昭和33年)・・28歳、竹原で初個展を開催

1960年(昭和35年)・・30歳、結婚

1972年(昭和47年)・・42歳、裏千家第15世鵬雲斎家元から「豊山窯」の窯名を受ける

1978年(昭和58年)・・48際、高崎町西の谷に竹原豊山窯(登窯、穴窯)を建築

1988年(昭和63年)・・58歳、今井政之展示館を竣工(光本邸)

・・・以上が図録による1990年まで

その後、紺綬褒章、旭日中綬章、文化功労者、文化勲章、紺綬褒章飾版などが続く。

 

 これまで誰も無し得なかった「面象嵌」の技巧を完成させたのが、高崎からの瀬戸内海の素晴らしい景観がいつでも眺められる「豊山窯」である。新たな作品づくりには備前に近い広島県の粘土や竹原の塩も使われているようだ。その技巧による数々の作品はは幼少から培ったデッサン力や弛まない陶芸への探求心から産まれたものであり、けっして偶然からの産物ではない。

No.2019.12.30

 思うがままに書いてしまい長文となって申し訳ない。

 毎年、師走の仕事納めを済ませると朝3時30分が冬季の竹原帰省スタートだった。首都高速の渋滞が始まる5時までには東名高速の海老名SAに到達して暫しの休憩。帰省土産をここで買って軽食を済ませ、ここで給油満タンにして次の休憩地点となる富士川SAまで巡航速度でひたすら前進である。この途中にラジオから流れてくるのがいつもラジオ体操だった。富士川SAに到着するとレストランが開く7時を待ってから朝食をとる。10時頃に浜名湖SAに到着、ここで1時間程度の休憩と気分転換である。そして11時頃に東名高速から名神高速へ入って、12時頃に養老SAで昼食と2回目の給油満タン。13時頃には吹田JCTから中国道へ流出する。この時点で出発から10時間が経過している。

 途中、大型ダンプに進路を遮られたり、あおり運転の遭遇にも慣れたもの。遮られそうなトレーラやダンプには違法出力の無線機が付いているので専用受信機で傍受していれば挙動と会話で相手が特定できる。殆どが「こちとら忙しいのによぉ、チンタラ帰省で抜くんじゃねぇや!い~りゃんさんしで、あ~らよっと~一丁上がり~」で抜きかけの車の右レーンにハンドルを切って遮っているのである。もちろん故意に暇つぶしでと気分転換でやっている。カモをワナにハメるため2車線に2台(無線連携)で並走したり、3台でコの字囲みまでする悪質なのが東名名神には多い。こんな輩には近づかないのが一番だ。追い越し車線で抜かさせろと喘いでいると後ろから追突されたりコの字に囲まれると危険度が増す。

 そんな時は早めに走行車線を遮る輩のかなり後ろへ回り、別なカモとなる対象車をひたすら待つのである。幸運にも高級車が迫ってくれば輩は一切手を出さないので追い越し車線の高級車に速度を同期させながら連れの車として抜き去る。庶民の車が遮られた時には予め十分に隙間を空けて置いた走行車線へ入れてあげれば良い。こちらは車間が詰められる事になるので追い越し車線へハンドルを切って危険回避として抜き去る。輩はカモが走行車線に入ったので再び遮るために速攻で戻っており、もう追い越し車線には何もいない。

 これで見事に抜き去れればバンザイなのだが、それで済む輩はそう多くはない。車が詰まってくると自車の前に再び割り込んで遮るのは確実。そんな時は走行車線を維持しながら敢えて輩を割り込ませてやり、ワザと困った振りをバックカメラで見せながらPAに差し掛かる手前でスッとPA内へ抜け出ればよい。輩がカメラに目を戻した時にはカモは消えて無くなっているのである。30分も経てばお互いにアドレナリンも減っているのでPAで30分程度休憩してから再び走行車線に合流すればよい。

 これはダンプやトレーラーの場合だが、普通車で煽る輩はタチが悪い。同様にカモを待っているので先ずはカモにされない運転を心がける。挙動不審な運転を見抜いて近寄らないよう予防線を張り、急加速減速、方向指示不履行、過剰な低速度維持、スモークガラスは特に近寄らない。遭遇した場合は抜き去るのはやめてPAへ逃げ込むのが一番。不幸にも後ろから煽られ始めたら巡航中のトレーラを探してその前に1台入れない程の間を空けて並ぶ。煽る輩が自車とトレーラに割り込もうものなら進路を遮られたトレーラーは警笛を鳴らす。自車の前に輩が入って蛇行や減速しても同様にトレーラーは危険に巻き込まれるため警笛を鳴らす。輩が自車の後ろにいても前にいても居場所は無くなるのである。もちろん輩が走行車線上で急停車したならドアが開く前に路肩から一気に抜き去るしかない。

 このような経験はなるべくは経験したくはない。昼過ぎには名神を抜けてしまい山陽道の三木SAで1時間程度の休憩をとる。まだ山陽道が無かった頃は七塚原SAで最終の給油を済ませ三好ICから竹原まで下りていた。山陽道が開通してからは福山SAで最後の給油満タンにして本郷ICか河内ICから竹原へ。竹原の国道2号線の河内分かれに到着するのは早くて17時、渋滞にはまると21時頃となる。よって出発から15時間から19時間で実家へたどり着くのである。

 ではなぜここまで苦労してマイカー帰省をするのか?もちろん運転が好きだからだが、竹原の隅から隅まで撮るためには何らかの足が必要であり、親戚や親を乗せて買い物に出かけたりと車なくては不便でしょうがなぃ。芸南観光がレンタカー事業をやっていた頃は台数が少なく、盆正月にはサービスも休み。この頃はETCカードを利用すれば3900円~1万円程度で高速道が使えていた。

 また長々と前置きを書いてしまったが、そのマイカーを映したフィルムが見つかったので再スキャンしたものを紹介する。車歴は中古で買ったスターレット1300ccに始まり、次が1500ccトレノでどちらもマニュアル式。渋滞にハマると足がつるので3代目からはATとなった。3代目はスープラ3000ccにしたかったがトヨタ店が相談に素っ気なかったのでその足で日産へスイッチ。そこで発売直前だった180SXの展示車に一目惚れして即予約、選んだカラーはなぜか血の色だった。たぶん手相で「赤いものに包まれていると幸せが訪れる」と言われたせいであろう。

 トレノでの竹原帰省は2回程度だった。開始の同僚が海島博へ行きたいということで3人を同上しての帰省となり、この時は朝6時に出発して竹原シーサイドホテルの到着したのが午前1時であった。翌朝8時に迎えに行ってその後はもう覚えていない。

 180SXが発売された時はシルビア全盛期であり、シルビアと同一のシャシでハッチバックのクーペが180SXであった。これで竹原に帰省すると外車扱いされて気恥ずかしかったが、3年経てば走りやアンチャン御用達の車種となっていた。信号待ちをしていると無理に競わされたり、法定速度で走っていても白バイが1台後ろに見え隠れしたのは日常茶飯事。180SXでの選択は有り得ないATだったせいか下手なMT車より加速が早いのか信号ダッシュは負けることは無かった。ターボやECUの故障も多く疲れ果ててたぶん5年乗って下取りしたと記憶。

 その下取りでの4台目がスカイライン2500GTSの4ドアセダンである。もう若くは無いのでターボではないのだが、180SXがおもちゃに感じるほど安定性とハンドリングに優れ、スカテラインによる竹原帰省が長らく続いた。白バイも付いてこないし、信号ダッシュも求められない。踏けば踏むだけ走るし、ドリフトも自由自在で実に快適な車であった。だがとある年の5月、巨大なゴルフボールサイズの雹に襲われたのである。隣りにハイラックスサーフがいたおかげで被害は左半分で済んだが、片側だけボンネットやルーフに北斗の拳でやられたようディンプルが無数。それからの竹原帰省ではSAスタンドに寄るたびに窓ふきスタッフに理由を問われるようになった。

 加入していた任意保険の車両保険でこの被害だけ優遇されたので5台目となるホンダのステップワゴンへ乗り換えた。ヒデブと化したスカイラインは15万程度で下取りだったと思う。産まれた子供を狭いスカイラインの後部座席のチャイルドシートに乗せると何も積めないので、もうスポーティーカー仕様は卒業である。

  もしかしたら他県ナンバーの真っ赤な180SXに乗るオヤジ、やたらに道に詳しく大福地橋や上条橋の直角クランクで煽っても追いつけない他県ナンバーでシルバーのスカイライン、狭い道を戸惑うことなく抜けて去る他県ナンバーでシャンパンゴールドのステップワゴンに遭遇した人が多数いるに違いない。それがママチャリを使う前の私である。来年の帰郷時にはこのステップワゴンにサヨナラを告げて地元竹原で軽自動車を買う予定である。ではその竹原帰省に使っていた3台を紹介しよう。どれも竹原での撮影である。

#01

#01:日産180SX 1800cc FRターボ ATハッチバッククーペ仕様による帰省

#02

#02:日産SKYLINE GTS2500cc FR NA ATセダン仕様による帰省

#03

#03:ホンダSTEP WGN 2000cc FF NAワンボックスによる帰省

  さて、6代目となる軽自動車は何にしようか。仁賀の坂を楽に登れて、田万里のトンネルも楽に超えられ、雪が積もる入野の峠もスイスイ行ける軽でなければならない。もちろん朝日山の山頂へも、的場で念願のバーベキューへも行ってみたい。

No.2019.12.29

 1994年夏の帰省、もう微かな記憶しかないのだが、自家用車で竹原に帰る際中、山陽自動車道の三原辺りから焚火を焼くような臭いと煤が混じる煙に巻かれ、フロントガラスを動かすとワイパーゴムに黒い炭が付着した。本郷ICから空港前を通って河内から竹原に下ると南の上空には灰色の煙が立ち昇っていた。

 既に鎮火したとのラジオかテレビのニュースを聴いてその日は実家で大人しくしていたが、夜中ひっきりなしに消防車がやってくるので外に出てみると、竹小から鎮海山方面がオレンジ色に光っていた。

 次の日に買い物でイズミ*1(現ゆめタウン)の2階建駐車場(当時)へ上がると郵便局側フェンスには人だかり、東側の一連の山から黒煙と赤い炎が目視できる大規模火災になっていた。駐車場まで水色の煙と火の粉が飛んでくる酷さで身の毛がよだつほどであった。いったん鎮火した火災が再燃したようで、このままだと鎮海山から寺山に伝わってきそうな勢いだった。

 この火災は山火事で1994年8月11日に福田町の山中で出火、9日間延焼し続けて20日に完全鎮火となり、自衛隊ヘリがバッグで海水を汲んでは山にかける作業が繰り返されていた。その成果合ってか幸い死者無く人家までの延焼も免れた。

 その時の広島県による報告書(PDF)「竹原市山林火災と緊急砂防事業」があるので興味がある方は読んで欲しい。内容は詳細な調査報告と数多くの生々しい写真入りなのだが、11日の福田町山中での1次出火の原因は調査中であった。後ちに地元で原因を聞いたのだが「タバコじゃと」だった。

 この1994年(平成6年)はデジカメなどない頃。たとえフィルムカメラを持っていたとしても災害進行中を撮れる心境ではなかったと思う。数日間、実家の屋根や庭にも炭状の小枝が降り注ぎ、その中には踏みつけるとまだ火が残っているものも多数あった。よって、この火災を撮った私の写真は存在していない。たぶん・・・

 それより以前の大規模火災の爪痕を撮ったフィルム写真が2枚がある。前述の調査書にも載っている昭和53年の高崎町での山火事の爪痕である。文章だと分り難いので箇条書きにしてみた。

・昭和53年8月(1978年)・・・高崎町山火事

・昭和63年8月(1988年)・・・1枚目の写真

・平成20年8月(1997年)・・・2枚目の写真

・平成29年8月(2017年)・・・3枚目の写真(デジカメ)

  1枚目は火災から10年が経過した昭和63年で、こちらの原因は焚火であった。それから9年後、少し場所が異なるが僅かながら帯状に緑が育ち始めている。そして3枚目は火災発生から約40年が経過したフェリー辺りの写真である。何事もなかったほどに元通りに戻っていると言いたいが、実は元の状態など全く記憶はない。火災発生の昭和53年頃といえば既に解散していたビートルズと太田裕美(松本隆&筒美京平&萩田光雄の組合せ限定)に夢中だった頃、高崎町の山肌など意識するはずもない。 

#01

#01:竹原大規模火災:北崎辺り(1997頃撮影)

#02

#02:竹原大規模火災:大石~北崎辺り(1988頃撮影)

#03
#03:竹原大規模火災爪跡:大石~北崎辺り(2017/08/13撮影)

 この1枚目を撮ったのが昭和63年と書いたものの、それは旧ホームページのその前の版からの引継ぎ情報であり、どこでどう63年を確定したのかが今となって気もう分からない。今回スキャンしたフィルムには中四国フェリーの「三島」(竹原-大三島-波方)と「第三か第五?たるみ」が微かに読み取れるフェリーが停泊しているのだが、「たるみ」の情報は得られず「三島」は初代のみとか昭和57年から2代目が運行とか諸説あるので時期が確定できない。 

修正(2020/01/06)
*1:ニチイ(誤)→イズミ(正)

No.2019.12.28

#01

#10

#01,#10:中電寮(198x年撮影)

#02
#02:憧憬の広場(2018/01/01撮影)

  これら3枚の写真を見比べて欲しい。1,2枚目は80年代後期頃に普明閣境内から歴史民俗資料館辺りをフィルム撮影したもので、3枚目はそれから20年以上が経過したものである。2枚目が分かり易いが歴史民俗資料館とは中央のレトロな薄水色の建物で、昔はここが図書館であった。その歴史民俗資料館の手前にある2階建のアパート調の建物が中電寮である。その中電寮が3枚目では無くなっており、現在ここはマッサンとリタ像のある「憧憬の広場」となった。その経過が分かる写真をセレクトしてみた。

 1,2枚目の写真は生活感が感じられるカーテンのかかる中電寮だが、次の4枚目の2002年撮影写真には無い。壁には足場が掛けられて年明けには解体が始まりそうであった。

#04

#04:中電寮解体中(2002/12/31撮影)

 

 そして年明けの春、中電寮は解体されて更地となっていた。まだ中電寮の門と塀は残っており、竹のアーチと竹のハードルが設置され、5月3,4日の竹まつりでは全国小京都物産展の会場として使われたのである。

#05

#05:解体完了(2013/04/28撮影)


#06

#06:中電寮更地(2003/05/03撮影)

 それから3年後の2006年には中電寮跡地の門と塀が「憧憬の広場」の看板と古風な塀に変っていた。

#07

#07:憧憬の広場(2006/01/02撮影)

 

 そして憧憬の広場にマッサンとリタ像が建ち、その1年後には看板へ「竹鶴政孝&リタ像(Bronze Stature Masataka & Rita)」が追加された。

#08

#08:マッサンとリタ像(2015/08/09撮影)

#09
#09:憧憬の広場に追加(2016/08/06撮影)

  以上が20年以上にわたる中電寮跡地の変貌である。普明閣境内からの眺めには中電寮に変ってマッサンとリタ像の後ろ姿がある。今更だが気が付いたがことがある。池田勇人像は生まれ故郷の吉名へ向きが変えられたが、マッサンとリタ像は竹鶴酒造(生家)と桑原医院付近(実家)に背を向けている。

#03

#03:中電寮跡地(2016/08/08撮影)

No.2019.12.27

 いつもならば明日の土曜日には竹原帰省なのだが今年はパス。年末になると神田もち店の換気扇から白い湯気が立ち昇り、師走の慌ただしさが感じられる。神田の餅が入った味噌味の雑煮を食べたいのだが穴子と牡蠣と近末のかまぼこにベロ天が入った母の雑煮には出逢わない。

 12月17日の帰省で18時過ぎにあいふるを歩いたところ「(和風居酒屋 魚どころ)礒っ子」の青く照らされた暖簾が目に入った。ひとりだったのでお独り様居酒屋はパスなのだが、後ろ髪をひかれながら駅側へ進んだ。

 その途中、見慣れない看板を見付けた。緑地に「G」と書かれており小さく下には「Taiwan Dining Cafe -Gyoten-」とある。確かこの辺りにはパブが有ったと記憶しているが、どちらにしても新たに出来た店のようである。さて何と読むのであろうか?台湾が気になるが「ギョテン」だと「魚店」だしダイニングカフェではない。次の日に知人へ聞いたみたところ「ギョウテン」と読むとのことでかなり前から在るようだ。「竹原うまいもんまっぷ+」どうやら見落としていたようで平成27年6月にオープン、漢字で書けば「行天」となる台湾の家庭料理と屋台料理が中心の店である。外から見たところ18時開店で18時15分には数人の客が座っていた。駅前商店街を通る時は竹原駅前商店街共通のアーケード看板を1枚1枚確認しながら歩いているのだが、ここはそうではない固有のアーケード看板のようである。暗かったので再確認が必要だ。 
#01
#02
#03

Gyoten(2019/12/17撮影)

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