2019.12.16
2009年の12月11日(金)の朝にTBS「朝ズバッ!」(MC:みのもんた)にてイキナリ竹原が紹介された。だが、慌てて録画を開始したのは翌日12日の0:51で、そのコーナーが「今日、12月16日は何の日?」と次週のことを言っている。まるで時間旅行をさまよっている事になったが理由はもう分からない。
では「今日、12月16日は何の日?」なのだろうか?その冒頭だけブラウン管を撮った写真を紹介しよう。
#a01-a04:TBS朝ズバッ!(2009/12/12撮影)
そう、今日12月16日は「広島県竹原地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定された日(昭和57年1982年)」だったのである。5分程度のコーナーで以下内容がナレーション付にて写真と動画で順次紹介された。
・みのもんたのコーナーオープニング
・松阪邸
・朝日山から竹原町の眺め
・竹原駅ロータリー
・笠井邸2階窓からの眺め
・吉井邸前を集団登校する竹小生
・竹中生も登校
・旧郵便局ポスト前の集配赤バイク
・朝日山から阿波島を臨む
・賀茂郡竹原下市村開濱二寸拾間図(地図)
ここからテロップ「357年の歴史 安芸の小京都 竹原」
・竹原絵図屏風(俯瞰図)
・県史跡 頼惟清 旧宅
・頼華水 頼春風 頼杏坪(絵)
・日本外史 稿本
・頼山陽(絵)
・市 重要文化財 森川邸(門、室内、庭など)
・塩田作業(モノクロ写真:浜引き、潮かけ)
・竹原駅ホームの蒸気機関車(モノクロ写真)
・三井金属(モノクロ写真:塩田最盛期)
・塩田作業(モノクロ写真:へり入れ、すくい込み)
・昭和35年 竹原塩田 廃止(モノクロ写真:浜引き)
・朝日山からの塩田全景(モノクロ写真)
・朝日山からの現在全景(写真)
・普明閣境内からの甍の眺め(写真)
・竹鶴酒造の上から笠井邸への眺め(写真)
・旧村上邸(写真:現在の竹楽)
・明治38年 日露戦争の勝利を祝う町並み(セピア写真)
・新町観光駐車場向いの邸宅(セピア写真)
・同上(写真:現在)
・亀田邸(写真:現在)
・同上(セピア写真)
・初代 竹原郵便局(セビア写真)
・同上(写真:現在)
・竹原市伝統的建造物群調査報告書
・同上(美化計画図:鎮海山のスカイライン大功)
・同上(美化計画図:アスファルト色は不調和)
・同上(美化計画図:コンクリ電柱)
・旧村上邸前(石畳化前写真:石田無内科医院の頃)
・町並み保存センター前(石畳化後写真)
・昭和57年12月16日、竹原地区が重要伝統的建造物群保存地区に選定される(写真:胡堂)
・水儀支店ビルからの本通りの眺め(写真)
・竹鶴邸(写真:現在、外観、屋内・・・)
・小笹屋の屋号で享保18年(1733)より酒製造を営む(酒造中写真)
・杜氏 石川達也さん(写真)
・タンクかくはん中
・岩本邸(写真:外水撒中、屋内、)
・岩本重夫さん(82歳)麗子さん(77歳)
・松阪邸前の観光客(写真)
・岩本重夫さんの話
・大小路(写真)
・国 重要文化財 春風館 頼家住宅(写真、外観、屋内)
・吉井邸前の観光客(写真)
・同上 元禄3年(1690)建築(外観、屋内、空撮)
・100年で1分(約3mm)風雨に削られたという
・ゲストのコメント(アグネスチャンなど)
・みのものたのコーナークロージング
では重要伝統的建造物群保存地区に選定とは一体何なのか?
文化庁のHPから引用すると
昭和50年の文化財保護法の改正によって伝統的建造物群保存地区の制度が発足し,城下町,宿場町,門前町など全国各地に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになりました。市町村は,伝統的建造物群保存地区を決定し,地区内の保存事業を計画的に進めるため,保存条例に基づき保存計画を定めます。国は市町村からの申出を受けて,我が国にとって価値が高いと判断したものを重要伝統的建造物群保存地区に選定します。
市町村の保存・活用の取組みに対し,文化庁や都道府県教育委員会は指導・助言を行い,また,市町村が行う修理・修景事業,防災設備の設置事業,案内板の設置事業等に対して補助し,税制優遇措置を設ける等の支援を行っています。
平成30年8月17日現在,重要伝統的建造物群保存地区は,98市町村で118地区(合計面積約3,924.9ha)あり,約28,000件の伝統的建造物及び環境物件が特定され保護されています。
と書かれている。
市町村が決めた伝統的建造物群保存地区のうち、選定の申請を受けて文化庁が重要と決めたもに対して「重要」のお墨付きが付き、保存事業への半額国負担と相続税・固定資産税一部免除の優遇措置がとられる。広島県では呉市の豊島御手洗、福山市の鞆の浦、そして竹原市の「竹原地区」が選定されている。竹原市は「意匠を凝らした格子が文化と繁栄を示す塩の町」(伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの)として認定されている。
要約すれば・・・
竹原市の町並み保存地区が、保存事業への財政的援助や指導・助言を国から受けられる地区になったのが昭和57年12月16日だったということである。(誤植なのか「暮らしのガイドブック あなたと市役所 市制施行30周年記念/昭和63年3月発行」では11月16日指定しなっていた)
だが、いつ頃から上市・下市区が町並み保存地区となり、いつ頃から観光地化が始まったのだろうか。国への竹原市伝統的建造物群調査報告書1979年(昭和44年)発行なので、その頃は既に計画が進行していたと思われる。観光地化は昭和57年(1982年)頃から聞こえ始めた記憶が有るのだが、普明閣と西方寺石段、照蓮寺の国重文の鐘、頼惟清生家と頼山陽が観光の目玉だったようだ。その証が絵葉書と旧橋本金物店(現、村上BK)とシバデン前に有った移設前の頼山陽像であろう。
手持ちの「観光と産業 たけはら」(昭和57年10月/発行ブレーン企画)では、昭和52年に「竹原市総合計画」が策定され、竹原市の将来像を「自然と産業が調和した魅力あふれる瀬戸内海の公園都市」と位置づけている。
本書への当時の市会議長の筆では、昭和55年に国土庁による「伝統的文化都市環境保存地区整備事業」の推進都市として指定され、約2億円を投じて町並み保存センターと修景広場などを整備し、57年秋には「伝統的建造物群保存地区」として上市と下市区の町並みが指定されるとある。観光の質の変化が言われる時代となり、この集中的に温存された古い町並みは、今や全国的な注目を浴びており、受入態勢の充実を図る中で希望をもって観光問題に取り組む所存である。
と書かれており、やはり観光化の始まりは1982年の「時をかける少女」ロケ中の頃だった記憶に確信が持てた。胡堂の前で可愛い女の子(原田知世)がヘアメイクに髪を解かしてもらっていたのを母が興味津々で観ていたのを聞かされた遠い昔である。