安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2019年12月

2019.12.11
 12月上旬が過ぎるとテレビ番組がTDLやイルミネーション特集を始める頃となる。我が家の家系は代々浄土真宗照蓮寺のお世話になっているのだが、自宅でのクリスマス・ケーキと豪華な夕食だけは毎年欠かさず続けている。寒い中、クリスマス仕様のTDLや神戸ルミナリエゆかりの有楽町ミレナリオなどにも何度か出かけて家族の思い出作りに励んでいた年もあったが、休日に灯油が燃える臭いのする暖かい自宅で家族と一緒に過ごすのが一番の幸せと感じる歳に達したようだ。

 旧ホームページを見直すと2017年の除夜の鐘へは訪れてはおらず、礒宮の初詣へは元旦の真昼だったようで、2018年の除夜の鐘から年明け直後の初詣の写真は更新をサボって載せてはいなかった。今年は実家がリフォーム最中なので泊まれそうもない為、暮れの竹原帰省は考えていない。ということで2018年のそれら未掲載の写真をこの記事にしてみることにした。

 

 照蓮寺での除夜の鐘スタートは西方寺との協定で23:45となっている。さてどちらで鐘を突くかだが、お世話になっている照蓮寺で鐘を突くと同級生が住職の西方寺を訪れた頃には108番目までには間に合わない。順を逆にしてみたら照蓮寺での列が長くなってしまい神田の紅白餅が貰えなくなる可能性もある。ということで2018年末は照蓮寺だけの除夜の鐘にすることにしたようだ。

 紅白歌合戦が終わって自転車で照蓮寺の境内へ23:30頃に訪れるてみると若者2,3人の人影、毎年世話をしてくれている人達は事務所でまだ準備中のようであった。40分頃になると列ができ始めて鐘突き6番目を確保。普段は上れない鐘楼の急な階段が開放されて最初のグループに混ざることができた。23:45定刻で1番目の若者による1打目が打たれた。「ゴ~~~~ん」と心地よく長い余韻の重厚な音である。

 西方寺は頭上で打ち、照蓮寺は胸から腰辺りで打つ。鐘の形状と大きさが異なることから音色と音程も異なり、竹楽辺りの中間地点で両寺の鐘を聴くと音階が異なって見事なハーモニーが聴けるのである。

 照蓮寺の鐘がこの写真である。5番目の人が付き始める前に撮ったものであり、念仏を唱えて胸辺りに下がった長い柱で一気に一発突くのである。
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#01:照蓮寺の鐘楼の鐘(2018/12/31撮影)

  6番目に鐘を突き終わって急な階段を下りてみた時は階段待ちが10人程度だったが、0時を過ぎたあたりから急に参拝客が増え始めたようだ。鐘楼の急な階段を上る2人と金を突く寸前のV字のロープが窓から分かるだろうか。
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#02-04:照蓮寺の急な階段(2018/12/31撮影)

 この階段は上る時と降りる時の向きを同じにすれば恐怖感も危険も無い。先代の住職から聞いていたワザなのである。正面を向いて降りると手摺りを掴むことができず、絶壁の下を手放しで見下ろした恐怖感となる。

 神田の紅白餅をもらって年明けのカウントダウンが済んだので次は礒宮への初詣へ移動することにした。門をくぐって見上げると「龍頭山」の立派な額。浄土真宗本願寺派 龍頭山 照蓮寺が正式な名称である。この鐘楼門には左甚五郎の彫を思わせる立派な龍が彫られており、この門のことを昔は「ええもん(立派な門の意味)」と呼んでいた。竹原では御菓子も「ええもん」と呼んでおり、親に「ええもんくれっ」とねだると「しょうれんじへ行ってこい」とつれない返事だった。
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#05-07照蓮寺のええもん(2019/01/01撮影)

  さて階段を下りて自転車に乗って保存地区を抜け、向島から礒宮神社へ向かった。三原への県道が整備されてからは横断しづらくなったが、神社に近づくにつれて初詣客がぞろぞろと増えてくる。それを抜いて列ができる前に参拝するには自転車で駆けつけるのが必須である。

 本殿への石段を上がってみると参拝列は20人程度、3分程度待つと自分の番が訪れた。賽銭を入れて頭を撫でてもらい鈴を鳴らして2礼2拍1礼で参拝が終了。学業成就と家内安全のお守りを買って暖かい実家へ戻ることにした。

 2011年末頃までは境内に露店が並んでいたのだが、徐々に寂しくなっている。家族連れ参拝客の破魔矢を持つ親父や晴れ着姿の女性が年々減ってきており、色とりどりのユニクロのダウンばかりとスマホいぢりで列に隙間が何度も空くイライラ列待ちへ変わってしまった。20年前は0時を過ぎると忠孝巖の池辺りまで列ができており、賽銭箱へ到達するまで30分以上かかっていた頃が今となっては懐かしい。その頃から変わっていないのは、元旦の真夜中の境内から見える遥か向こうにそびえ立つ三井の煙突と真冬の夜空にたなびく白い煙ぐらいである。

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#10-16:礒宮の初詣(2019/01/01撮影)

2019.12.10
 昨日、衛星放送で映画「愛と死をみつめて」が放送された。遠い過去に観たドラマのの映画版か、逆に映画がドラマ化されたものかだが録画を観たら別物だった。同じ小説が昭和39年(1964年)に映画とテレビドラマにされ、時期的に先発のドラマはTBSの東芝日曜劇場で放映、後発の映画は日活による制作と配給である。

 テレビドラマを観たのは竹小4年生の夏休み、蝉が鳴く明るい時間に水色フレネルレンズをブラウン管に被せた白黒テレビだった。1964年は西幼稚園なので広島局での再放送だったのであろう。あの主題歌は切なさ過ぎて今でも歌詞が忘れられない。4拍子と3拍子が入り交ざったマイナー調の曲もたまらない。

 ♪ マコ、甘えてばかりでごめんねっ

   ミコはとってもしあわせなの

    はかない命と知った日に

     いじわる言って泣いたとき

      涙を拭いてくれたマコ ♪

 このドラマで死に至る不治の病が身近にあることを知る。難病で入院中に知り合った学生のミコ(みち子)とマコ(まこと)が文通を始めるが、ミコは顔にできた軟骨肉腫の摘出手術で再度の入院生活へ戻り、いつも顔の片側をガーゼで覆っていた。だが再手術が中止されたことで余命が短いことを予感し、お互い不安に駆られながらもそれを知られないよう文通や電話で健気に交際を続ける。ある日マコは交通費を稼いで久しぶりに見舞いに来るが、後ろ髪をひかれながらも病室を去る、その後、マコに看取られないままこの世を去るのである。

 その映像にこの主題歌が溶け込むと乾いたコンクリートのように雰囲気が灰色に固まる。いつか観たフランキー堺のテレビドラマ「私は貝になりたい」もその類であろう。

 そして今回録画で観た映画ではミコ役がドラマとは異なるキャストで吉永小百合であった。主題歌を期待したがテレビ版とは別だったので落胆したが、徐々に忍び寄る乾いた暗さはテレビ版と変わりない。ただ、吉永小百合のオーラが強すぎるせいか別の主演映画やCM映像が頭をよぎってしまうのである。

 このテレビ版を親戚の白黒テレビで観た夏休みに聞かされたのが、池田元総理の「貧乏人は麦飯を食え」発言(当時は大蔵大臣)である。その頃の我が家は貧乏だったので、その発言が大人になるまでトラウマ的に残って「愛と死をみつめて」とセットで記憶がよみがえってしまうことがあった。

 だがそれが某新聞による政治的な策略で、別な意味に取られるよう発言を捻じ曲げて書いた記事だったことを知った。真意はこうである。

 池田の生家では長男以外はどこでも生きて行けるよう麦飯を食べており、大臣時代の池田も米価の高騰で麦飯を食べていた。戦後の日本経済を早急に立て直すため、国民それぞれが所得に応じた豊かな暮らしができるような政策遂行に覚悟を決めたことを自らの経験に例えた答弁であった。米価の変動に政府が介入すれば経済原則に則さなくなり米価は高騰する。低所得でも米が食べられるように政策転換をする所存であり、これが後の所得倍増計画へとつながって急速な高度経済成長を成し遂げた偉大な総理「日本を変えた男」だったのである。

 

 池田勇人を排出した吉名町がある竹原市には「たけはら美術館」がある。所蔵は池田コレクションであるが、市民館の展示室時代の記憶と混同して美術館へ訪れたのか否かがもう思い出せない。私が美術館の関連で記憶にあるのは美術館へ賊が入ったとのWEBニュース(1998/07/03)を偶然に見たのみである。

 それから何十年が経過した2015年に竹原で池田元総理に因んだイベントが美術館で開催され、それを訪れていた親戚から図録をもらったので表紙だけだが紹介する。

 なぜ2015年10月に開かれたのかは推測の域ではあるが、NHKの朝ドラ「マッサン」が2014年後期から放映され、竹鶴政孝と深く交流が有った池田勇人へもフォーカスされたのではなかろうか。どちらも忠海旧制中学(現在の忠海高校)の排出であり、学生時代から生涯交流が続いていたのでドラマ以後からはセットで扱われているように思える。 

 もらった図録がこれである。「たけはら美術館 池田勇人 日本を変えた -(The man who changed Japan)」全70ページの内、前半の40ページが経歴と語録のエピソードで残りが所蔵品の写真となっている。発行日は2015年10月1日、たけはら美術館による編集・発行である。
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#01:たけはら美術館「池田勇人 ~日本を変えた男~」

  竹原町の福祉会館(敢えてこう呼ぶ)の庭にある池田勇人像も私のウォッチ対象である。2015年GWでは老朽化による修復工事で銅像が撤去されていたが、その夏には既に完了していた。同時期にマッサンとリタ像も建立が予定されていたが資金不足で延期されたようだ。先程紹介した図録のイベントは修復完了直後の10月である。この立像などは旧ホームページで載せたものだが修復後のものを参考に載せておく。 
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#00,#10:立像 内閣総理大臣 池田勇人君(2015/08/08撮影)

  さてこの銅像には都市伝説的な逸話がある。国道側から見ると西側へ向いており、庭への入口からは背を向けている。建物玄関から見れば正面なので違和感は無いが、西側は出身地の吉名町がある。修復後の設置はどちらへ向いたのかが興味津々であった。もしも興味があれば gooleストリートビューでも確認ができる。

 

 だからどうしたと言われたら身も蓋もないが、2014~2015年は池田元総理に因んだ動きが「マッサン」放映時期とシンクロしている。まあ、お茶でも啜って写真を見て欲しい。

 

 一例としては忠海高校の同窓会関東支部(2013年10月)で頂いた忠海高校のクリアファイルの表と裏面である。創立116周年が 読み取れる。
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#02-03:創立116周年忠海高校クリアファイル(2013/10受領)

  続いて117周年(2014年)の10月に受領したクリアファイルには「本校の偉大な先輩たち」が加わっていた。続く118周年も同様である。平山郁夫画伯と喫茶プリンスの記事で触れた体育館舞台から降りる緞帳(どんちょう)の画、それにマッサンと池田勇人元総理の写真。
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#04-05:創立117周年忠海高校クリアファイル(2014/10受領)

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#06-07:創立118周年忠海高校クリアファイル(2015/10受領)

  もう1つ紹介しよう。これは82円切手×10枚の切手シート(税込売価1300円)2015年10月1日発売開始で1000枚限定である。10月7日には海田郵便局長から竹原市長への切手シート贈呈式が竹原市役所で開かれた。ネット購入の予定だったが図録をくれた親戚が気を利かせて竹原郵便局で2枚買ってくれていた。
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#08:郷土竹原の偉人(2015年購入)

 最後に吉名町にある「内閣総理大臣 池田勇人君」の胸像。なぜ「君」呼びなのかというと銅像の題字はあの偉大な吉田茂による書だからであろう。 
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#09:吉名町の胸像(2010/08/08撮影)

ラストの語録: 「俺は竹原の総理大臣ではない」・・・

 池田勇人氏は政治家になっても何度も故郷の竹原へ戻ってきていた。だが総理大臣としてではなく同窓会で一緒に騒げる一人の人間に戻れるからであった。総理大臣になったからといって地元を優遇するような道理に合わないことはしない。故郷竹原を愛しながらも、総理大臣という立場を忘れなかった愚直さが池田勇人が郷土から慕われ誇りに思われている所以である。

 2019.12.09

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#a01-a03:喫茶プリンス(2001/05/03撮影)

 2016年9月30日、喫茶プリンスが58年の歴史に幕を閉じる。1958年頃の創業であろうか。帰省時期の殆どが大晦日~正月、お盆かGW期間だったので営業中に訪れるのは難しかった。天井から下がるBOSEスピーカから降り注ぐスタンダード・ナンバーのジャスやエバーグリーンの映画音楽などに癒されながら、いつもの決まった席で小一時間過ごすのが常だった。昭和レトロな喫茶というよりは純喫茶のほうがしっくりくる。純喫茶スタイルでありながら店名が喫茶だったのも好感が持てた。

 

 もしも再開が叶うのならば2番目が一冨士で1番がこの喫茶プリンスと断言する。

 

 店頭などを撮った写真は多数あったが、注文したものを写真として記録に残し始めたのは2000年の帰省からだった。空いていれば座っているお決まりの席からの窓の眺めがこれであ。 ネットでよく見かける写真アングルと同じなので、この席へ座っていた人が他にも多数いたことが分かる。
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#00:喫茶プリンス(2000/05撮影)

  まずはメニューを紹介しておこう。2012年頃までは壁に貼られていたが、それ以後はビニールケース入りがテーブルの上かメニュー立てに入っていた。これが壁のメニューである。 (以後、旧メニューとする)
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#01:壁のメニュー(2012/05/04撮影)

 

 こちらはテーブルにあった2枚のメニューである。(以後、新メニュー)
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#03,02:テーブル上のメニュー(2015/12/31撮影)

  旧と新のメニューを比べてみるとセットメニューではオムライス・セットが増えて、ドリンクとデーザート系は一新されたようだ。旧メニューにはコーヒー紅茶が無いのだが、喫茶店では有って当然なので省かれていたのか別メニューが存在していたのかもしれない。メニューを見ずにホットとか冷コーの一言で済んでいたような記憶もする。

 

 それでは注文したものを時系列に紹介しよう。メニューのコンプリートが目的では無かったので注文がかなり偏っているが、変わらないようで変わっている皿やカップなどを見比べて欲しい。書き忘れていたが16年が経過している店の看板やテントも冒頭の写真とラストの写真を比べてみてほしい。

 

**2000年GW**

 ホットケーキ・セットとピザ・セットの注文なのだが、なぜか新旧どちらのメニューにもホットケーキ・セットは無い。もしかしたら日替わりでケーキがパンケーキ(竹原ではホットケーキと呼ぶこと)だったかもしれない。
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#05:ホットケーキ・セット(2000/05撮影)
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#06:ピザ・セット(2000/05撮影)


**2001年夏**

 ケーキ・セットを注文。ステンレス製のミルクピッチャーが懐かしい。小学生の時に何かの用事でここの二階を訪れた時、要らなくなったピッチャーを貰ったことを思い出した。
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#04:ケーキセット(2001/08撮影)

**2003年GW**

 写真を撮らなかったようだ。それは奥のテーブルがインベーダーゲームだったのを見つけて撮ったから忘れたのであろう。ストロボを焚いてまで撮る訳けにはいかず暗かったのでピンボケとなった写真が多数残っている。

 

**2005年12月**

 ピザ・セットと焼きサンド・セットを注文。今思えばアルミホイルに載せたまま出てきたのは自宅か喫茶プリンスぐらいだったかも。フォークとナイフも珍しい。なお、2セット注文したのは家族で訪れた時であり1日に2回訪れてはいない。カップとカトラリーの位置から分かるはず。
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#08:ピザ・セット(2005/12/29撮影)

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#09:焼きサンド・セット(2005/12/29撮影)

**2006~2011年**

 なぜか食事の写真が見つからない。たぶん帰省時が殆ど休みか、訪れた時間が準備中だった可能性がある。

 

**2012年1月**

 またピザ・セットを注文。有難いことに正月3日から営業されており、玄関には正月飾りが掛けられていた。今、気が付いたのだが外の壁にコーヒーのみのメニュー「アタマ、やすらぐ¥350」「ココロ、やすらぐ¥350」があった。この下には板に書かれたメニューが元々あったのだが、長らく観葉植物の葉で隠れて存在が分からなかった。玄関の右にはセットメニュー(旧8種)が貼られているが2000年頃はセットの2種とドリンク系の2種に絞ったものだった。
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#10:ピザ・セット(2012/01/03撮影)
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#10a:1月3日営業中(2012/01/03撮影)


**2012年GW**

  カレー・セットを注文。ドライカレーのライスに甘口のルウーとウインナーが1本乗っかっている。クルトンスープも付いている。
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#11:カレー・セット(2012/05/04撮影)


**2012年夏**

 クリームみつ豆と冷コーを注文。竹原でアイスコーヒーと言うと嫌われるらしいので注文時は敢えて「冷コー」としたのだが、マスターの奥さんの注文復唱は「アイスコーヒーとみつ豆でええんよねっ」と笑われた。
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#12:クリームみつ豆と冷コー(2012/08/07撮影)


**2012年9月**

 法事の帰省だったせいか注文した写真は撮っていなかった。マスターの奥さんの話では向いにカレーハウスができるとのことで更地となり、窓から普明閣が眺められるようになっていた。
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#12a:普明閣が見える(2012/09/19撮影)


**2013年3月**

  新メニューのランチ・セットを初めて注文。この時はいつもの席に先客がいて、平山郁夫画伯による忠海高校体育館の緞帳画(黒滝山からのエデンの海)をリトグラフ画にした額下の1人掛けテーブルへ座った。この時から新メニューによる注文に変ったようである。だが、やはりいつもの場所でないと落ち着かない。どうやらあの席は2011年秋頃から特別なアングルで撮りたい場所になっていたようだ。
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#13:ランチ・セット(新)(2013/03/23撮影)


**2014年夏**

  いつもの席でカレー・セットを注文。その後に追加でアイスコーヒーも。カレー・セットは新旧メニューでは変わっていない。
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#14-15:カレー・セットとアイスコーヒー(2014/08/15撮影)


**2015年GW**

  新メニューで追加されたオムライス・セットを初めて注文してみた。セットに付いているのはスープなので追加でホットコーヒーも注文した。
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#16-17:オムライス・セットとホットコーヒー(2015/05/05撮影)


**2015年夏**

 アイスクリームも欲しかったので初の紅茶フロートを注文。いつもの席には先客がいたのか、なぜかマスターと話がしたかったのか、レジ近くのテーブルに座ったようだ。
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#20a:紅茶のフロート(2015/08/08撮影)


**2015年12月末**

 GWと同じ注文をしていた。どうやらオムライス・セット+ホットが気に入ってしまったようである。今思えば他の注文もしてみるべきであった。
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#18-19:オムライスセットとホットコーヒー(2015/12/31撮影)


**2016年夏**
 

 かなり暑かったのでコーヒーフロートを注文した。アイスクリーム+アイスコーヒーにしようかと悩んだ末の選択である。
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#20:コーヒーフロート(2016/08/06撮影)


**3日後**

 いつもの席を再び訪れていた。これまで帰省中に2度訪れることは無かったのだが、神様のいたずらだったのか喫茶プリンスを訪れたのはこれが最後となった。この時の店内はこれまで訪れた中で一番強い陽射しであった。
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#21:オムライス・セット(2016/08/09撮影)
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#21a:いつもの席から(2016/08/09撮影)


**2016年9月30日閉店後のGW帰省** 

 帰省の初日に気になって寄ってみたら本当に閉店となっていた。もう実家から歩いて行ける場所には、安くて美味しいコーヒーをすすりながらエバーグリーンが聞ける純喫茶はない。
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#22:閉店後(2017/04/30撮影)
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#b01-b04:閉店後(2017/04/30撮影)

 

 これまでの帰省で注文した記憶があるものをメニューにハイライトで示してみた。
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#m01-m03:これまで注文したもの

 新メニューに有った「カルピコ」が一体何だったのかをマスターに聞く予定であったのを思い出したが、その機会がまた訪れることを願うばかりである。

 2019.12.08
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#01-02:賀茂川の切り抜き(2017/05/17撮影)

 これらの写真が賀茂川の切り抜きであるが馴染みがない名称である。だが「ハチ」とか「賀茂川の入り江」ならば「はいはい」であろう。どうやら賀茂川の切り抜きが正式な場所名のようだ。まだピンとこないとお嘆きの貴兄には標準のアングルで撮ったこの写真ではどうだろうか。
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#03:賀茂川の入江(2016/08/10撮影)


 これならば竹原通であれば納得であろう。

 マッサンの記事で紹介した迎賓館の建築が頓挫したのが向かって右側の山の上の上である。オイトコ山の記事で触れたが、元々ここは横島という左右つながったひとつの島であり、後に入り江となって今では左右どちらも南島という名に変っている。 この辺りの旧地名は皆実(みなみ)だが南島と何か関係があるのだろうか。

 さて賀茂川の切り抜きだが、太古の竹原町は大広苑辺りから南は海の底だった。その海に有ったのが丸子山、オイトコ島、コイトコ島とこの横島である。徐々に干拓され新開地区となって塩田が形成されていく過程で、横島の片側が多井新開の干拓で賀茂川の海への流れが堰き止められ、直角に明神方面へ抜けて出るようになった。だが、賀茂川の淡水が塩田濃度を薄めてしまうことから、流れを元に戻す大規模な工事「賀茂川の瀬替え」が江戸時代に行われた。これは横島へ海まで貫通するトンネルを掘って淡水を排出させるものである。

 この工事は難航した。2本のトンネル工事が行われたが片方のトンネルが2度にわたって崩れたことで仕方なく横島を切り抜いたのが、ここ賀茂川の切り抜きである。賀茂川だった場所は干拓されて皆実新開と吉崎新開となった。現在、ここは神田葡萄園となっている。

 その皆実新開から吉崎新開がこれらの写真である。小高い山が横島(現在は南島)であり、その向こう側がハチの干潟である。 
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#04-06:皆実新開と吉崎新開(2017/05/02撮影)
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#11:皆実新開と吉崎新開(2017/05/02撮影) 


 そして反対側は、迎賓館ができる予定だった小高い山から賀茂川の堰き止めとなった多井新開である。
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#07-10:多井新開(2017/05/02撮影)

 

  以上が賀茂川の瀬替え工事の回避策でできた賀茂川の切り抜きであるが、分かり易く国土地理院のフリーマップを使って図で説明する。

 1660年頃、多井新開の干拓で賀茂川が堰止められ塩田の塩分濃度が薄まる。そこで1742年から横島に2つのトンネルを掘る工事が始まる。だが崖崩れで片方のトンネル工事が難航して開始から32年間かかって賀茂川の瀬替え工事が1774年に完了した。ところがその直後にまた崖崩れで片側のトンネルが崩落してしまう。
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#map05:多井新開干拓(出典:国土地理院ベース)


  とうとうトンネル工事を断念して崩落した部分の横島を分断する賀茂川の切り抜きを施した。その頃は吉崎新田の干拓も完了していた。
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#map06:賀茂川の瀬替え完了(出炭:国土地理院ベース)

  そして皆実新開の干拓が行われ吉良埼新開(多井新開の海側)、横島の尖った明神周辺、後に三井グランドとなる新浜とフェリー乗り場辺りの北崎新開ができて現在の地形に近くなる。これにより賀茂川の淡水は塩田への流入が無くなり、干拓した吉崎新開と皆実新開を田畑にすることができたのである。
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#map08:皆実新開の干拓(出典:国土地理院ベース)


 その後に吉崎新開と皆実新開は数々の苦難を乗り越えながら徐々に広大な神田葡萄園となっていく。干拓地の土壌に強い新種のブドウ種を開発して全国展開の功績をあげて神田白赤ポートワインなどの生産を始めたが挫折、寿屋(現在のサントリー)とのけいやくに成功してワイン用の葡萄に採用され皆実新開へ寿屋竹原工場ができる。最近、葡萄園の関係者から聞いた話では、ここから出荷された竹原葡萄があの有名な赤玉ポートワインになっていたようだ。その頃、葡萄の出荷で使用した木箱も倉庫に現存しているとのこと。この竹原葡萄の採用には寿屋社員であった竹原出身のマッサンが大きく関わったことは言うまでもない。

 

 なお、神田葡萄園の寿屋竹原工場とその倉庫は現存しているのだが、外見に特徴が無かったからだろう帰省時には写真を撮らなかったようだ。話が賀茂川の切り抜きから反れてしまったので別記事で紹介するとして他の賀茂川の切り抜き写真の紹介をしよう。

 

 賀茂川の切り抜きからハチへ徒歩で行くには横島(南島)の山道を超えていくか、大潮の干潮時に川岸を滑り落ちぬよう渡るしかない。山越えの場合は途中にある墓地の点在を10分間我慢すれば海岸へ到達できる。川岸は岩肌から滑り落ちれば深緑色の川底に引きずり込まれる。なぜここが観光対象外なのかが、これでお分かりであろう。アニメでプチ秘境候補ではあったが採用されなかったのも危険だからである。
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#b0-b03:賀茂川の切り抜き(2017/05/02撮影)

 

 大潮の干潮時になるとハチ岩まで歩いて行ける干潟となる。見ての通り大潮が引けば浅くなるので岩肌につかまって渡ることは不可能ではない。地元の者であれば貝掘りはここから渡るの通常であった。

  向こうに見えるのは竹原域ではない契島(ちぎりじま:地元ではチキリと呼ぶ)である。たとえNHKの取材班が「特別な許可を得ています」にするので入島させなさいと要求したとしても、東邦亜鉛の関係者でない限りはここを訪れることはできない。
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#c01-c06:賀茂川の切り抜き(2013/12/30撮影)

 

  これは遥か向こうに賀茂川の切り抜きが見える満潮時の賀茂川である。この辺りの寒さ凍みる真冬の景色はいつもこんな感じである。
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#d01-d03:賀茂川の切り抜き(2013/01/01撮影)

 

 これは賀茂川の切り抜きに架かる皆実橋の架け替え後の景色である。橋が新しくなっても車重1トン制限は変らなかった。マイカーが1.5トンだったので渡れずに切替して引き返している。
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#e01-e02:賀茂川の切り抜き(2012/05/01撮影)

 

 これは新しい皆実橋への掛替工事中である。工事完了まで皆実新開と多井新開を行き来するには1本先にある西小横の橋か国道185号の経由となっていた。デジカメでの旧皆実橋の撮影はいくら探しても見つからなかった。ハチを撮る時に有りがちなのが、橋の上から撮って満足してしまい橋自体は撮らず仕舞いとなること。
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#g01-g03:賀茂川の切り抜き(2009/08/06撮影)

 

 これはその西小横の橋の上から撮った賀茂川の切り抜きである。ここでも橋自体を撮らず仕舞いで橋名が分からなかった。
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#h01-h02:賀茂川の切り抜き(1998/08/06撮影)

 

 これで最後、カシオQV-10によるデジカメ最古の賀茂川の切り抜き、たった1枚の写真である。フィルム撮影もしていた記憶は有るのだが、それも有りがちな橋の上からのみのアングルであろう。
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#h03:賀茂川の切り抜き(1998/01/01撮影)

2019.12.07
  以前の記事で一部を紹介した竹原小唄だが、その歌詞の全容が明らかになった。だが忠海高校同窓会関東支部で聴いた七番と、忠孝巖煎餅の袋の四番と比べると微妙に異なる歌詞が有る。(赤文字部分)

 メロディーは覚えていない・・と言うかメロディーなど無い。2拍子の手拍子をしながら8ビートで唄う。「タタタタタタタんタタタタタタタタンうん」七五調の語呂のよい。番ごとに「っよい」「っほい」「よぉ~」のような掛け声もあったような。昭和6年(1931年)頃につくられたものだが作詞・作曲者は分からなかった。

 

     竹原小唄

一. 伊予の沖から擬宝珠が見える

      あれは竹原普明閣

二. あなた降りましょ竹原駅よ

      三島詣りの船が出る

三. わたしゃ芸州竹生まれ

      山陽先生の出たところ

四. 野暮な俺じゃが竹原育ち

      胸に揺るがぬ忠孝

五. 的場よいとこ潮風うけて

      咲いた桜が波に散る

六. 宵の住吉涼みの橋に

      仇な姿の片えくぼ

七. あの娘可愛やあの瞳がかわい

      竹原葡萄の粒のよ

八. ならぶ酒倉米とぐ唄よ

      さすが竹原酒どころ

九. 出船入船竹原みなと

      渡る反り橋 恋の橋

十. 芸州竹原照蓮寺の鐘は

      一里聞こえて二里ひびく


(※太文字部分を訂正 2024.02.20) 

現代人には歌詞が難解かもしれないので私なりに解釈してみた。
唄に関係ありそうな写真も載せておく。

 

1.愛媛の沖から普明閣のギボシ(欄干の玉葱)が見える。

   ※見えるものか!

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2.竹原駅の扇橋側出口から中四国フェリーで大三島便がある。

   ※ホームからの三井への出口も中四国フェリーも廃止となってしまった。

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3.私は竹原生まれ、頼山陽の出身地。

   ※山陽の出身は大阪、祖父の頼惟清旧宅を時々訪れていた。

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4.つまらん奴だが竹原育ち、忠孝巖の魂あり。

   ※「忠孝石」は何と読むのか?いし、いわ、いわお(これがベスト)

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5.的場海水浴場にある満開の桜が潮風で散り、波にさらわれ消えてゆく。

   ※桜は現在も多少はあるが、昭和30年代までは高い防波堤際に松や桜が有った。

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6.宵の住吉まつりに住吉橋で涼んでいたら艶な浴衣姿の娘が思わせ振りの片えくぼ。

   ※仇は艶やかを意味するようだ。まあ、訳はこんなところか。

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7.可愛いあの娘(こ)は、竹原葡萄の粒ような大きな瞳(め)が可愛すぎる。

   ※キヤンベルなのかピオーネなのか、大きくて心まで見透かされそうな黒目。

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8.あちらこちらの酒蔵から米研唄が聞こえる。さすが竹原は酒どころ。

   ※まあ、そのままか。昔は3蔵以外にも多数あった。

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9.船が出入りする竹原港に架かるのは恋の橋。

   ※反っていた旧々明神橋か、今も反っている扇橋か、渡逢橋のことか。

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10.照蓮寺の鐘の音は400mまで鳴り響き800mまで余韻が届く。

   ※詰め過ぎてちょっと歌いにくそう「しょうれんじ~の~かね~は~」

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