安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年01月

2020.01.31

竹中時代、何かの授業で『1月は「いぬる」、2月は「にげる」、3月は「さる」だからあっと言う間に過ぎる』と教えられたのだが、今考えてみれば「いぬる」は標準語なのだろうか?どうやら関西圏ならば「いぬる」や「いぬ」は広く通用するようで『一月往ぬる、二月逃げる、三月去る』と言う漢字表記まで存在している。
竹原では自分の意思で「帰る」を「いぬる」、「帰ったら・・」と勧めることを「いんだら・・」、「そろそろ帰って」と催促いることを「いにんさい」、「はやく帰れ!」と怒ることを「はよいね!」、「絶対帰らない!」を「いなん!」となる。これが「する」だとトンデモないことになる。「する」は「する」、「したら」も「したら」、「しないと間に合わない」が「はよせんにゃあ」、「しない」は「せん!」、「しなさい」が「しんさい」、「はやくしろ!」が「はよしねぇ!」となり、他圏出身者がいきなり「はよしねぇ」と怒鳴られると「早く死ね!」とパワハラ用語となってしまう。こんな微妙な変格活用が他にも多くあるので、今流行りのAI学習によって翻訳処理させてみると面白そうだ。

ワイトショーやニュースで「今年は暖冬だが例年より雪が積もる」とか天気予報士が口を揃えて言っていたが、これから竹原でも雪が積もるのだろうか。2月と帰郷後は西条への用事も色々と増えそうなのだが、田万里町や仁賀町と竹原町では著しく天候が違うので雪予報へはどう対応し良いか分からない。

これまでの自動車での冬帰省では何度も積雪に悩まされたことがあるが、自動車に乗る必要が無いならば保存地区辺りの降雪や積雪は実に感動的な景色に感じられる。

2015年の元旦と2日に竹原にて久しぶりに積雪と降雪を見ることができた。

先ずは広銀跡地(酔景の小庭)からの旧日の丸写真館の(吹雪く)降雪。
普段より重厚感が漂う趣のある写真が撮れたのだが、ネット上にはある無数の日の丸写真館に同様のものがあるかを探したが見つかっていない。町並み保存地区内ではないが保存地区の玄関門柱的存在なので良しとして欲しい。
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#01-02:旧日の丸写真館(2015/01/02撮影)


照蓮寺の降雪も迫力がある。「ええもん」の屋根瓦には僅かに積雪もあり、吹雪く白い鐘楼門の景色も見ごたえがある。

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#03-04:照蓮寺(2015/01/01撮影)


まだ右手の建物が在る頃の西方寺の石段。
現在の開放された雰囲気とはかなり違っているのだが、私はこちらのほうが落ち着ける。
石段に雪が積もっていたらベストな景観だったかもしれないが、積もる前に晴れてしまった。
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#05-06:西方寺(2015/01/01,02撮影)


雪が舞う普明閣も下から見るだけならば素晴らしい。
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#07-11:普明閣(2015/01/01,02撮影)


そこで誰も居ない舞台へ上がってみることにした。
下から見上げた時は空が明るかったが、舞台へ上がった途端に太陽へ濃い雪雲がかかった。
仄かに空が暗くなり始めたのでその様子を眺めていた。
この頃の西方寺に入ることが許された時間は17時までだったので滞在時間16:34~16:47で石段を下りた。
写真はその間に撮った全てなので明るさが徐々に戻るところをサーッとめくってほしい。
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#20-45:普明閣の舞台から(2015/01/02撮影)

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#46-48:普明閣から去る(2015/01/02撮影)


次は元旦に上がった普明閣舞台と境内から撮った白い甍の波。
ここからではなくドローンを飛ばすか水儀支店の屋上から撮りたいところだが叶わぬ夢であろう。
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#51-53,55:甍の波(2015/01/01撮影)
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#56-59:甍の波(2015/01/01撮影)


その他諸々・・・・。
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#61-62:茶房ゆかり(2015/01/01撮影)
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#63:のんびり亭前から(2015/01/01撮影)
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#64:竹とんぼ手前(2015/01/01撮影)
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#65:竹の茶屋:いっぷく前から(2015/01/01撮影)
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#66:憧憬の広場(2015/01/01撮影)
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#67:胡堂(2015/01/01撮影)
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#68:旧佐倉商店(2015/01/02撮影)
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#69:竹鶴酒造(2015/01/02撮影)

2020.01.30

この季節になると無性に食べたくなるのが「二重焼」である。地元では「二重焼」とは呼ばず「太鼓まんじゅう」と呼んでいる人もおり、なかには他所と違いが無いとの理由で敢えて「今川焼」や「大判焼」などと呼ぶ「あまのじゃく」もいるようだ。ちなみに私は単に「に・じゅ・う・やき」と呼んでいる。また、最近これを知った人達は「松屋の二重焼」とフルネームで呼ぶ場合が多いようだ。戦後が青春時代だった御年配は「松屋」ではなく松屋の本名で呼ぶ人もいる。どう呼ぼうが、これは寒い季節の代表的な「竹原スイーツ」と言っても過言ではない。

この「二重焼」には自慢したいエピソードがある。2010年12月11日、竹原が舞台のアニメ「たまゆら」のテレビ版製作(1作目)時に竹原の情報について都内でヒアリングを受け、そこで私が地元スイーツとして紹介したのがこの「二重焼」である。店舗がある本川橋を町内地図で示し、冬には列ができるほどの人気など佐藤順一監督と脚本家の吉田玲子さんへ伝えたら、そのまま「松屋の二重焼」をアニメに使ってもらえたことである。ちなみに監督からの最初の話は「竹原駅の”おかえりなさい”をご存じですか?」だった。もちろん「はい!」(2008年12月30日初撮影)である。

この「松屋」の変化を長期間撮ってきたが、「変わらないようで変わっている」の代表的なものといえる。
先ず、これが最初の撮影である。正面から見た店舗には見慣れた看板が有るのだが、サイドの看板に興味を惹かれた。「珈琲まつや」「甘党の店」から店舗が喫茶店であった痕跡が伺える。本当に喫茶店だったかは聞けた範囲では知るもの無し。
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#01:松屋二重焼(1998/08/06撮影)
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#02:松屋二重焼(1998/08/08撮影)


それから6年が経過した2004年。特に変わりは無いように見えるのだが、「松屋二重焼」が新しくなっており、特に「二」の文字は明かに別物である。ライトも蛍光灯から反射型電球へ釣り変えられている。また、光の加減と思われるがサイド看板の「珈琲まつや」が消えており、くすんでいた壁面も塗り直されたようだ。
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#03-04:松屋二重焼(2004/05/05撮影)


更に4年後の2008年の冬。大人子供7人の列ができている光景を撮ることができた。右端の白い自動車は列待ちの客を連れてきた広島ナンバーである。列ができていたのは 12月28日の昼時、12月30日では営業中の看板が出ているが待ち列無し。餡子を全て使い果たしたのかもしれない。
ここで興味深いのがサイド看板の消えていた「珈琲まつや」が微かに見えていることである。塗り直したペンキが剥げだしたのか、この時点では未だ文字の白さはない。細かいが換気扇のフードもブリキからステンレス製に取り換えられた。
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#05-06:松屋二重焼(2008/12/28,30撮影)


これは買ったばかりの「二重焼」が冷える前に食べたかったので紙袋から1つ取り出したのを撮ったものである。後ろには「出雲神社」が見えるので松屋から20m程度先。
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#07-08:松屋二重焼(2009/12/29撮影)


1年後の冬。
この写真で分かったのが新しくなった看板「松屋二重焼」の文字はペンキだったことである。旧看板は厚みがある木製だったことから、新たな看板も木製だと思っていた。そして窓の文字もここで変わった。「二重焼 二重焼」が「二重焼 松屋」に書き換えられた。紙に書かれた価格100円が、ガラス書きで110円に改定されている。
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#09-11:松屋二重焼(2010/12/31-2011/01/02撮影)


1年経過の2011年冬から年明け。
特に変わりは無い。
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#12-16:松屋二重焼(2011/12/30-2012/01/04撮影)


2014年。本川通りの松屋の向いが更地となった。タカキベーカリーのバン屋が有った場所で、後にここには豪華な日本式の家屋が建つ。
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#17:松屋二重焼(2014/01/05撮影)

この時は 8時過ぎだったので開店していない。開店は10時過ぎで初回の出来上がりは10時半頃、名前と個数を告げておけば店から離れていても良い。
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#18:松屋二重焼(2014/05/06撮影)


2015年12月末。
ここで窓に松屋のマークが描かれていた。どのようなマークかが分からないので、この窓を拡大して正方形に変形した画像も載せておいた。ここでサイド看板の劣化からか「珈琲まつや」が浮かび始めていた。価格は120円となった。
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#19-22,33:松屋二重焼(2015/12/30,31撮影)


それから2年後の2017年夏。
松屋は本川橋前の店舗での営業を終了した。(2017年6月27日告知)
この時点では新たな店舗が道の駅辺りにできるとのうわさを聞いていたが、詳細な場所までは分からなかった。
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#23-27:松屋二重焼(2017/08/11撮影)
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#28-29:松屋二重焼(2017/08/13撮影)



その年の冬、新たな店舗が道の駅の東側へ出来ていたのを知った。駐車場は店舗前に2台は置ける。12月末だったせいか以前のように長い列はできてはいなかった。ここで店舗名が「松屋二重焼」から「松屋二重焼本舗」となった。「本舗」が付く場合は他に「老舗」や「本家」を名のる似たような商品が出回っている場合が多いのだが、松竹アニメに登場したことで「二重焼」を名のる商品が新たに存在したのかもしれない。もかしたら「竹屋二重焼」がどこかに有ったりして・・。
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#30-31:松屋二重焼跡(2017/12/30撮影)


そして旧店舗の場所は更地となっていた。
もう「珈琲まつや」の文字が徐々に現れて行く経過を見ることはできない。
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#32:松屋二重焼跡が更地となった(2018/01/03撮影)



2020.01.29

先月末に「竹原市景観17選」へ応募してみたが、撮った写真を再度見直してみると「的場海水浴場」も17選のひとつとして挙げても良かった場所だった。未だ防波堤や砂浜が無い頃の記憶と人工的に造られた砂浜であるイメージが邪魔してか景観の選択からは除外してしまったようだ。

毎年夏の帰省では家族的で場海水浴場に訪れていたが、自動車で帰省しなくなってからは着替えやボートの運搬が容易ではなかったことから徐々に訪れることは無くなった。自転車でウロウロする時に寄る時、5月帰省では砂浜にタープを組立てバーベキューをしている光景をよく目にする。いつか自分も「的場でバーベキュー」をしてみたい憧れが有るのだが、この光景への地元民のイメージはどうなのだろうか。砂浜や防波堤を訪れたときに私が感じる的場の客層は、関東での表現で言うなら「DQN臭が漂う」なのだが・・。まあ、夜中の花火以外は禁止されていないようだし、砂浜で「つばえる」lのも酔っているから仕方がないのだが、訪れている車のナンバーの多くが「福山」以外なのが気になるところ。

未だ的場の海岸が石ころだらけで潮が引かないと海岸へは入れなかった頃に、親戚一同で的場に訪れては一斗缶に炭火を入れて磯辺で剥がした牡蠣、インゴ(サザエ状の小貝)やブンザイ(円錐状の小貝)を網で焼いて食べた記憶が「的場でバーベキュー」に拘っている理由である。いつかは口が開いた牡蠣へウィスキーを流し込んで焼き、缶ビールを飲みながら食べてみたい。

毎回、的場を訪れた時は、砂浜や堤防上から絶景を撮っていながらも、心は「いつかは的場でバーベキュー」。だが、家族で運転免許を持っているのは自分だけなので酔えないのではあるが・・。

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#01:広島大学生物生産学部 附属水産実験場
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#02:東防波堤より
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#03:高崎洞門と阿波島
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#04-08:人工砂浜
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#09:フェリーの往来
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#10-11:西防波堤より人工砂浜
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#12-13:防波堤上の釣人
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#14-15:西防止堤からの竹原港
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#16:西防止堤の足元
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#17:竹原湾の第五さんよう(以上、2017/05/04撮影)


的場の景観を撮りながらも、心は「いつかは的場でバーベキュー」を企んでいる。
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#18:的場の釣り客(2015/05/05撮影)
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#19-22:的場のバーベキュー客(2012/05/04撮影)

2020.01.28

録画したとある番組の途中に竹原らしき場所が登場するCMを見付けた。見ながら歩くトラベルガイドには「安芸の小京都を訪ねて」と読めるサブタイトルが見えるのだが、なぜか場所についての説明が一切されていない。このせいなのか、これまで「安芸の小京都」でネット検索しても数ページめくらないと出てこなかった私の旧ホームページ「安芸の小京都(takehara_photo)」が1ページ目に出るようになっていた。
#00
#00:トラベルガイド(2019/06/05録画)


そのCMに登場していた格子が、これまで撮ってきたあの古民家の「竹原格子」に近似している。
#01
#01:あの竹原格子(1997/05/04撮影)
#02
#02:あの竹原格子(1998/05/06撮影)


また、あのお堂の格子に似たものまで登場していた。
#03
#03:あのお堂の格子(1998/05/06撮影)

CMでは一切「竹原」の文字は出てこないが、ここまで街の景観や格子が「町並み補残地区」と一致していると、いくら「架空の街という設定」といわれようがロケ地が「竹原」であることを確信せざるを得ない。ではなぜ「竹原」が伏せられているのであろうか。このCMの映像をヒントにロケ地を探しあてるディスカバー・キャンペーンなのだろうか?それさえもCM中では要求されていない。たぶんCMのホームページ側に書かれているのであろう。

もし、私の母親が生前にこのCMを見ていたら「あげーな、つづめがつかんもんの、どこがええんかのぉ~」と言ってたに違いない。因みに古い竹原弁である「つづめがつかん」とは「自分にとっては」に続いて「価値のない」と「くだらない」と「どうでもよい」を混ぜ合わせたようなニュアンスで使われるものである。だが逆に「つづめがつく」と使われることは無い。地元民から見れば「つづめがつかん」ものでも、外側へ晒される場合の外的要因によっては「ええもんに見える」ことがある典型的な例といえよう。


それでは、いつものように撮りためた「あの竹原格子」の写真を載せてみる。まぁ、100年で1mm 削られると言われている「竹原格子」なので 20年の経過程度では 0.2mm すり減ったぐらいの変化しかなかろう。
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#04:あの竹原格子(2003/04/28撮影)

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#05-06:あのお堂の格子(2003/08/10撮影)

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#07-09:あの竹原格子(2005/05/03撮影)

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#10:あのお堂の格子(2015/01/01撮影)

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#11:あの竹原格子(2015/05/03撮影)

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#12:あのお堂の格子(2015/05/04撮影)

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#13:あの竹原格子(2016/01/01撮影)

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#14-15:あのお堂の格子(2016/08/07撮影)

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#16-20:あの竹原格子(2017/05/03撮影)

この「竹原格子」を私や友達はこれがある通学路で「はじめ人間ゴンのマンモスの肉」と呼んでいた。またお堂の格子をズバリ「手裏剣」と呼んでいたのだが、もしかしたら間違えて「しりゅけん」と呼んでいたかもしれない。「仮面の忍者赤影」のテーマソング「手裏剣、しゅっ、しゅっ、しゅっ、しゅしゅ~、赤影はゆく~」で知った忍者の武器で、厚いブリキ板をブリキハサミ切って手裏剣を作っては、知らない民家の塀へ突き刺していた悪ガキだった。

この「はじめ人間ゴンのマンモスの肉」が別の場所にも在るので、探訪者が間違えないよう注意しておく。こちらは一見同じに見えるが、どこにも「ハート」は見当たらない。
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#21-23:あの竹原格子に似たもの(2011/01/03撮影)

2020.11.27

かなり前から探していた「竹原小学校 創立100周年(空撮写真)」のオリジナル画像データが見つかった。色々と試行錯誤しなから画像を加工をしていたら、いつしか元データがどこかへ消えてしまった。オリジナルの色合いや画素数などが分からない状態となっていた。
この写真データは 1997年 9月に旧ホームページの読者(竹原出身)からフロッピー送付にて頂いたものである。読者自身が購入していた卒業アルバムを自らスキャンしたもので、創立100周年であることを示す「100周年」と卒業年度「1973年」、校章中央の「學」を石灰による白線、校章の笹の葉とアンダーラインは先生(私服)と生徒(体操服に赤帽)による一文字で描いているように見える。(低画素数のため不鮮明)
そのオリジナルをどのようにして加工しているかの一例を紹介する。画像加工のアプリケーション・ソフトウェアは「Adobe Photo Shop 5.5」であり、これを現在のブログにも使用している。


やっと見つかったオリジナル画像はなぜか薄紫色だった。卒業アルバムをどうやってスキャンしたのか、色合いはこのままだったのかはもう分からない。画素数は 横668 x 縦704 という半端なものだった。
#00
#00:オリジナル画像(1997/09/02受取り)


先ず薄紫色を修復するには「自動レベル補正」機能を使うのが一番楽である。手動で補正もできるのだがアプリが適度に補正してくれる。この補正で古い色褪せたセピア色の写真へと変わった。
#01
#01:自動レベル補正をかけた


次にセピア色に色褪せた画像を少しだけ通常の色の濃さへ復元してみる。「色相・再度」の調整を使って全体の彩度を +20% とし、劣化の激しい黄色系と茶色系を +20% にしてみた。だが、未だ色褪せ感が強い。
#02
#02:緑と茶色の彩度を20%UP


続いて「明るさ・コントラス」の調整によって全体のコントラストを +20% にしてみると色褪せ感が改善された。70年代の雰囲気を残したいのでこの程度の補正にしておく。
#03
#03:全体のコントラストを20%UP


写真を掲載する目的は「100周年と1973年」であり、人文字や建物の詳細を拡大で示したいのでフィルタ(シャープ)をかけてピントのボケを強制解消しておく。
#04
#04:フィルター(シャープ)をかける


山の木々などがシャープにはなったが第一校庭に描かれた「100周年」と「1973年」が殆ど確認できない。
「トーンカーブ」機能によって手動で諧調補正をかけてみて白飛びによる土の色を濃くしてみる。
#05
#05:トーンカーブで階調を調整


手動にて「レベル補正」の機能で「色合い・彩度」の不自然さを減少させてみる。補正前は大河ドラマ「麒麟がくる」のドギツイ緑やピンク色(8K普及目的なのか黄緑の彩度が目が痛い)となっていたので、画面で観ても「1970年代」に感じられるレベルにしてみた。
#06
#06:レベル補正で彩度を調整


最後に色合いを「カラーバランス」の調整にて「ミント色っぽさ」を低減させてみた。
#07
#07:カラーバランスで色合いを調整


以上が画像加工で多用してきた機能である。


以下の一枚、同様の空撮画像が有るのだが、こちらのオリジナルは未だ見つかっていない。#08
#08:同様に調整したと思われる別画像



参考として、これら写真2枚を使った旧ホームページの記事も載せておく。
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0330 #6 竹原小学校(創立100周年 空撮写真)

 掲載月日:1998/02/15(#6 N119)
#08
 竹原出身のびわきびーこさんより、14日にすばらしい写真が届いた。(後記:これは卒業アルバムの掲載写真らしい)1973年(昭和48年)の竹小創立100周年の行事として3学期に行われた生徒による人文字(校章)の空撮写真である。私より若い竹小卒業者は記憶にあるかもしれないが、私が卒業した次の年に行われたので、このイベントは全く知らなかった。この写真には、焼失する前の懐かしい校舎の並びや地蔵町と田中の家並みが空撮なのでハッキリ。南北は手前の鎮海山麓にある稲荷神社から三井田ノ浦住宅、東西は市立竹原保育所(東幼稚園と勘違いしていた)から児玉米店あたりまでが写っている。現在は住宅がたくさん建てられているが、田中には道草をしていた頃の田圃が埋め立てられた広大な空き地(左端中央)がある。

#07
 もう一枚は、竹小のズームアップである。田浦川の第一校庭には「うんてい」と走りは幅跳び/高飛び用の砂場がかすかに見える。また、右下にはコンクリでできた観客席とバックネット、この観客席は運動会の特等席であった。運動会の昼食はこの裏にある道を森近のバタンコが竹を積んで行き来するのを見ながら、親子そろって重箱をつつくのであるが、鼓笛隊や応援団の出番が次に控えているので落ち着いて食べてはいられない。甘い寒天とタコの形をしたウインナーを頬ばって、スピーカーにせかされながら教室へ縦笛を取りに戻るのである。つかの間の親子団欒、しかし、教室で寂しく弁当を食べいてるクラスメイトも何人かおり、贅沢は言ってはいられない。私も5,6年は教室で弁当であった。
 この観客席の左隣に、そういえば謎の建物が写っている。貯水塔のようでもあり、鳥か猿が飼われていたのかよく分からない空洞であった。東側の保育所そばにも砂場があるようである。この北に滑り台らしきものが写っているが、有ったはずの登り棒が写っていない。卒業後に登り棒で転落死亡事故があった記憶があるが、撤去されたのかもしれない。この滑り台の東が学級農園であり、ジャガイモや菜の花を植えていたはずである。
 更にこの農園の北の建物が体育倉庫で、重すぎるマットや持ち上げると抜け落ちるハードル、ダルマ競争の竹の骨組み、それにくす玉や玉入れのポールがとらげてあった。この体育倉庫の横はたぶんゴミ焼却場であろう。
 第一校舎の一階の窓には、ボールでガラスが割れないように緑色の針金ネットがあるのがかすかにわかり、西側の色の違う屋根の2階には、音楽家の写真にかこまれた音楽室と図書室、殆ど白い点ではあるが中央出入口の上には時計も確認できる。
 次は第二校庭である。ここにはバナナの木か植えられていた温室や百葉箱、それに花壇が確認できる。ここの平屋には理科室があったと思うがハッキリしない。第三校庭は思っていたより広い。足洗い場が確認できないが、第四校庭ではなかったと思う。校庭東端には、一番汚かったトイレが写っている。
 第四校庭は逆に狭いが、ギンナンが落ちて臭く、秋になると竹ほうきで掃くそばから葉が降ってくる創立以前からありそうな立派なイチョウが写っている。この奥の平屋が3年生の教室であった。
 この横(写真左上)にある白い屋根が給食室であり、給食当番は白いエプロンと三角巾、マスクを着けてここまで給食を取りに行くのである。台車なとは無く、アルミの食器(牛乳用、おかず用、パン用)とスプーンの入った小カゴが入ったおおきなカゴのバネの取っ手を持つ係り、ニコニコ牛乳(2年生までは脱脂粉乳)の箱を持つ係り、青虫がたまに煮込まれていたスープなどのおかずの入ったバケツ、マーガリンとコッペパンの入ったケースを持った大集団が廊下と渡り廊下を毎日通うのである。
 そして最後に、体育館(講堂のままかもしれない)である。新築の建物が写っているが、「はよー建ててくれりぁーえかったのにのー」とみんながぼやいていたので、ここを使ったのは6年生の3学期だけであったのであろう。仕事で忙しいはずなのに、こっそり親が来てくれていた卒業式は確かに新しい建物の臭いがしていた。古い講堂での思い出といえば毎年の辛い音楽会であるが、みんなが出来るまで誰一人帰れない集団責任主義や、出来たひとから帰って良いという劣等感を与える習慣は今も残っているのであろうか。楽しいはずの音楽会が生徒に苦痛と憎しみを植え付けていたのは確実である。講堂での他の催し物では、子供にとっては理解に苦しんだ狭山裁判の映画上映だけは別として、有名空手家による瓦や石割りの実演、手品師によるトランプ芸、薄汚れた縫いぐるみ劇団による風刺のきいた童話等の楽しいイベントは今も脳裏に焼き付いている。
 この空撮から1年後ぐらいであろうか。朽ち果てても建て替えられない100年を越えた貴重な校舎が、放火による全焼となって生まれ変わったのは。

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