安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年02月

2020.02.04

 普明閣への石段途中にあるこの切り株跡をご存じだろうか?ここには松の幹のアーチが有り、昭和時代は丸木橋のように渡って遊ぶことができた。松喰虫にやられたか危険回避の為か、1982年頃には既に切られていた。その切り株の痕跡がこれである。石垣で切断面が腐らぬようコンクリートが塗られているのであまり目立たない。舞台から階段でつながる籠堂の軒下に切られた幹が多数転がっていたが、この松のものだったかは不明。1983年当時に肩で担ぐビデオカメラで撮った映像には切られた丸太が少しずつ割られて燃やされていた。「時をかける少女」のエンドロール・ラストで立ち昇る煙は、この丸太が燃やされていた煙の可能性がある。
#13
#13:松の切り株(2003/08/12撮影) 


過去の記事で紹介した「120フィルム」が実家で捨てられる前に私が(こっそりと)持ち帰っていたようで、それが今回押入れの中から見つかった。その写真にこの切り株跡となる松の幹アーチが写るものが数枚あったので載せた。フィルムは全部で12コマ、撮影場所は磯宮八幡神社(再建前)と西方寺および普明閣の境内辺りである。
#00
#00:120フィルム・フォルダ


それでは全12コマを紹介しよう。撮影はマスコット写真機店のカメラマンによる 1950年代と思われる。被写体は私の母とその姉妹、母方親戚の家族である。


1コマ目は礒宮境内での記念撮影。石段(再建前)の右側で忠孝巖がある池の近くと思われる。右端に見える石鳥居は菅原道真公の神社のものであろう。鉄砲水による全壊にて鳥居は現存していない。石段の上には瓦屋根に赤い柱の巨大な門が有り、それをくぐるか脇から回れば本殿への石段が有った。本殿には擬宝珠が付いた欄干があり、ぐるっと回ればさらに奥の神殿があったと記憶している。この本殿の位置は現在と同じだが、巨大な門は現存せず、現在は本殿前の境内となっている。
#01
#01:礒宮の境内(石段横)

#02
#02:礒宮の境内(石段前)奥には門が見える。


次は西方寺と普明閣の境内での記念撮影てある。これらの写真中に写る水平幹の松が、後ちに切られて切り株跡となった。普明閣境内への石段横から幹へ伝って先へと渡ると、塀の石垣より向こう側まで行くことはできるが、もしも足を踏み外せば鐘楼辺りへ落ちる。ここで陽が暮れるまでよく遊んでいたが、どこまでいけるか競ってもなぜか落ちたことは無かった。幹で飛び跳ねると松全体が上下に揺れて面白がっていた記憶もある。この頃は十一面観世音菩薩像は普明閣のお堂の中、後ちに鐘楼横へ建てられた菩薩堂へ菩薩像が移設され安置されている。
#03
#03:西方寺の境内(菩薩堂が建つ前の場所、後ろは78段の石段がある)

#04
#04:普明閣の境内(鐘楼から石段を上がった場所)

#05
#05:普明閣の境内(鐘楼から石段を上がった場所)

#06
#06:普明閣の境内(普明閣舞台への石段横)

#07
#07:普明閣の境内(普明閣舞台への石段横の灯籠)

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#08:普明閣の境内(普明閣舞台の真下)

#09
#09:普明閣の境内(普明閣舞台への石段横)

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#10:西方寺の境内(菩薩堂が建てられる前の場所)

#11
#11:普明閣の境内へ上がる石段(下半分)

#12
#12:普明閣の境内へ上がる石段(途中の踊り場)頭上には切られる前の松

2020.02.03

竹原の絵葉書は数多く買っててるのだが、昨年に引出から見つけ出した20世紀に町並み観光センターで買った「西方寺の石段を下る住職」が表紙の絵葉書が“神隠し”にあったままだ。その絵葉書10枚セットには「えぇっ??」と思える景観写真が2枚入っていたのだが、その1枚目は「竹並木の国道185号線」(旧NTT辺り)、2枚目は「イズミ」(現ゆめタウン)だった。引っ越し整理中にまた見つかると思うが、今回はその表紙と同じポスターでごまかしておこう。
#03
#03:町並み観光センターに貼ってあったポスター(2004/05/05撮影)

今回、押入れから新たに発掘されたのは以下の2点。

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『安森征治 町並みスケッチ集』

 以下の8枚がセットになっている。
 たぶん、安森征治氏が舘主である「町並み Gallery S.」が新規開館(2007年4月25日)された時の「竹まつり」にて寄った際に買ったものであろう。ホームページ「安森征治氏美術館」が有った頃に 24枚のスケッチを閲覧したことがあるが、その内の8枚が葉書となったようだ。絵葉書には<タイトル>のみ書かれているので具体的な場所のコメントを付加した。ちなみに安森征治氏は竹原高校の美術の先生だったと聞いている。

 01. <旧宅>・・・・頼惟清旧宅
 02. <朝の町並み>・・・・旧吉井邸、ほり川、水儀支店
 03. <胡堂>
 04. <渋染の暖簾>・・・・竹鶴酒造
 05. <明神港>・・・・竹原内港の灯台と漁船
 06. <五月の山門>・・・・鯉のぼりが翻る照蓮寺の鐘楼門(ええもん)
 07. <洋館とさつき>・・・・中電社宅と歴史民俗資料館
 08. <若葉の普明閣>・・・・鐘楼付近から見上げた普明閣横
#02
#02:安森征治 町並みスケッチ集の絵葉書(2007/05/05購入?)

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『竹原十二景(画:椎野正進)』

これは何処で買ったかが分からないが上記の同じ頃だと思う。竹原の以下12景観の水彩画が袋入りでセットになっている。発行は竹原市観光協会で、椎野正進氏は竹原商工会議所の元会頭。

 01. 「我が町の誇る竹原火力発電所」
 02. 「湯坂温泉郷」
 03. 「市役所前の竹の並木」
 04. 「唐破風の屋根をもつ松阪邸」
 05. 「大久野島 毒ガス資料館」
 06. 「夕陽に映えるミサワゴルフコース」
 07. 「頼惟清旧宅(山陽の祖父)」
 08. 「瀬戸内海を軽快にゆくみどり色のフェリー、港には無限の夢がある 中四国エリアには今日もドラマがある 特に瀬戸内のサンセットは美しい」
 09. 「照蓮寺鐘楼門」
    浄土真宗西本願寺の末寺であるがもとは定林寺という禅寺で小早川氏代々の子弟が学んだ寺で寺領300石。頼家や町人学者の墓や遺墨がある。本堂は元文2年再建のもの。
 10. 「今井政之展示館と柳慶亭 瀬戸内海を見下ろす高台に建つ」
 11. 「竹鶴邸(昔から酒造屋)」
 12. 「普明閣」
    京都清水寺の舞台を模したと。竹原の町の魅力の一つは、町と寺や辻堂が一体となり、それが保存されていることである。中ほどにある西方寺は浄土宗で本堂は1737と1702年の再建で鐘楼門や表門、経蔵や鐘楼がある。。町中で建てた舞台造りりの普明閣観音堂は珍しい。
#01
#01:竹原十二景(画:椎野正進)の絵葉書(2007/05/05購入?)

2020.02.02

本日から引越準備を開始した。最初に手を付けた押入れの奥から竹原関係の本、チラシ、ガイド、飲み食い地図などが入った紙袋が発掘されたのでチビリチビリと載せてみよう。既に衣装ケース2箱分の竹原関係アイテムからダブリは捨て、新聞など劣化し易いものは電子化して保存することにした。

発掘品掲載の初回は「第1回 憧憬の路」を紹介した中國新聞の記事である。新聞記事のスクラップのように切り抜いて 1枚の画像にしてみた。

第1回の「憧憬の路」が開催されたのは 2003年 9月 28日と 29日であった。その 27日の様子が翌日の朝刊第1面にカラーで掲載された。
#01
#01:中國新聞(2013/09/28配達)

スマホ閲覧だと画像拡大できない場合が有るので文字起こしも載せた。

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2003年(平成15年)9月28日(日曜日) 中国新聞社 2003 (日刊)

中國新聞 備後 9月28日(日)

仲秋彩る竹灯ろう

竹原でライトアップ「憧憬の路」きょうまで

竹原市の町並み保存地区一帯を、竹筒の灯ろうでライトアップする「憧憬の路(しょうけいのみち)」が二十七日、始まった。
瓦ぶきの町屋や寺社がろうそくの光に浮かび、観光客や市民が幻想的な秋の夜を味わった。二十八日まで。
胡堂前で午後五時半、小坂政司市長や、臨時の「かぐや姫列車」で訪れた尾道市の亀田良一市長らが、三本一組の竹灯ろうに点火。小路や石段など約一キロに並ぶ千百組の灯ろうが、格子窓や塗り壁、棒瓦など独特の歴史空間を照らした。
町並みは、江戸時代に製塩で栄えた豪商の屋敷や寺社が残る国の重要伝統的建造物群保存地区。市が、夜間の魅力も伝えようと、市民の協力を得て初めて企画した。
屋敷を照らす竹灯ろうの灯りに見入る親子連れ(撮影・広田恭祥)
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この記事に書かれていた「かぐや姫列車」の情報が少なすぎて詳細が分からない。竹原で撮った以下のポスターには8月23日が「就航」で尾道~竹原を一日一往復、乗車券は往復1300円。飛行機や船舶なら「就航」だが、列車(ディーゼルのキハ58-593)なのに「運行スタート」や「運用」にしなかったのはなぜだろうか?「瀬戸内さざなみ線」(三原~広間の公募愛称)の海沿い区間を運行することから船舶に例えられたのかもしれない。
ポスターに描かれているイラストは、竹原の町並み保存地区、普明閣と西方寺の石段、胡堂、本川に架かるアーチ状の渡逢橋(赤い鳥居が楠神社ならば住吉橋かも)、本川の白鷺、掛町の雁木、小吹の竹林のようである。本川に浮かぶ船は櫂伝馬なのか北前船なのか、いや、ナンバープレートがあるので未来の水陸両用自動車かもしれない。馬が運んでいるのは馬子の背中の「し」から「食塩」であろう。バックの山並みは当然「朝日山」、空に舞う白い手紙のようなものは何だろうか、サイクリングの様子は2003年は電動アシストは未だ普及していないのでバンブージョイまでならば坂道がつらい。
イラスト全体的には竹灯ろうが多数ある「憧憬の路」をモチーフにしたもののようだ。「かぐや姫列車」はこのイラストには描かれず「就航。」の下に二両編成の列車があるのみ。ならば、主役である「かぐや姫」は一体何処に?いるかいないかは断言できないが、じっくりとイラスト全体を探してみて欲しい。
#02
#02:かぐや姫列車就航(2013/08/11撮影)

2020.02.01

 今日は勤めていた会社の元上司と新宿のジンギスカン店(ライオン)で最後の飲み会をした。その時に映画館の話が出たのだが、竹原で暮らすとなると映画はどこで観るのが良いのだろうか?西条のフジグランにT・ジョイ東広島という映画館が有るのだが上映プログラムをみると遜色ない新作が鑑賞できそうだ。他に呉のポポロ、遠くなるが広島市内がある。竹原の映画館は三原の映画館への集客のため潰されたとの噂を聞いていたが、現在の三原には映画館はないようである。西条へは自動車なら30分もあれば行けるし、広島市内でも「かぐや姫号」で訪れることもできる。呉市も呉線で行けないこともないが、西条よりは上映数が少なそうだ。実現性は皆無だろうが竹原市の432号バイパス沿いに映画館が欲しい。

私が知る竹原の映画館は、新榮座(しんえいざ)と竹原スポーツセンターの映画館のふたつである。

竹原スポーツセンターは現在の大広苑である。ボーリング場がホテルへ変貌を遂げるまでの途中、映画館であった時期が有った。だが、上映される映画は聞きなれないタイトルばかりで一度も訪れたことは無い。

新榮座が有った場所は現在の「道の駅たけはら」の駐車場である。帰省中には道の駅を訪れることが多いが、自販機で冬はコーヒーかコーンポタージュ、夏はコーラーを買って満潮時にボラが泳ぐ田ノ浦川の様子を眺め、向こうに見える駐車場に有った映画館の微かな記憶を掘り起こしている。煙草の煙に浮かぶ投影ビームの筋、二階席から下を覗いた時の一階席の頭の近さ、上映開始時のブザー、見終わって館外で出た時の日光の眩しさ、竹小で買ったチケット、大魔神、ガメラ、ウルトラマン、ウルトラセブンなど未だに記憶に深く刻まれている。

以下の写真では右奥の赤い車辺りが座席、左の赤い車辺りからが敷地入口と広場で半分先から映画館建物が有ったと思う。70年代に映画館が閉鎖されてから暫くは廃墟だったが、更地となってからは何かのイベントで時々使われていた。その後、ゲートが付いた有料駐車場、観光駐車場へと変わり、現在の道の駅駐車場となった。なお、2枚目の写真は豊田郡竹原町役場が有った場所で、役場の裏側が映画館だったのである。この役場は市制となってから現在の市役所へ移転し、廃墟となった町役場が解体されプレハブが建って観光センターになった。警察署の移転後に観光センターも無くなって道の駅の駐車場となる。この辺りの眺めはどうでも良い景色だが、頭の中には新榮座館内と眩しかった広場が透けて見える。しかし、新榮座の建物外観が全く思い出せていないのが悲しい。
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#02
#01-02:新榮座があった場所(2019/12/18撮影)


新榮座でウルトラセブンを観た後に、掛町のシバデンで買った記憶があるフォノシート本を載せておく。
シバデンでは他にガボテン島、ガメラ対ギャオス、ロボタンとパーマンを買った。
#03
#04
#03-04:シバデンで購入(1967~1968年頃)

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