安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年03月

2020.03.14

 引越まで1週間を切った。荷造りなどでインターネット環境が使えなくなる為、試験ブログは本日で終了となる。正式としてのブログ再開は、竹原で暮らし始めてネット環境が整ってからとなるので4月以降の予定。その間はツイッター投稿などで凌ぐ予定である。
 
 さて、試験運用ラストの記事は竹原の絵葉書である。荷造りの最中に書類の中に紛れ込んでいた絵葉書が見つかった。中を開けてみるとダブリがあるのと撮影アングルが異なるものがあり、葉書の厚みが微妙に違うのである。前回見付けたのは中身が無かったが今回は18枚もあるので、違う2種類の版が混ざってしまったようだ。

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#00:竹原絵葉書(ケース)

画像的なダブリを省いた全ての絵葉書をサムネイルで紹介する。一部のものを除き、石畳舗装される前の路面が写っていることから、この絵葉書は1982年以前のものと思われる。ケース内側の竹原周辺交通案内図には「新広島空港(昭和68年開港)」と書かれており、1993年が昭和68年となるので昭和時代に発行された絵葉書であめことが分かる。現在の絵葉書が有るのかを調べていないが、どのようなセレクションとなるのだろうか?こここで気が付いたが、絵葉書に竹原のシンボル的存在である「普明閣」が無いのはなぜだろうか。

#01#02#03#04#05#06#07#08#09#10#12#13#14#15#16 
#01-10,12-15:竹原絵葉書(ケース内)

絵葉書のキャプションは左端から・・・・
#01:頼惟清旧宅
#02:照蓮寺
#03:吉井邸のある竹原の町並
#04:湯坂温泉郷
#05:竹原歴史民俗資料館
#06:湯坂温泉郷
#07:春風舘
#08:大久野島国民休暇村
#09:中四国フェリー
#10:松阪邸
#12:竹の並木路
#13:小吹の筍
#14:瀬戸内海とスナメリクジラ回遊海面
#15:大久野島国民休暇村
#16:頼惟清旧宅


 竹原市の都市整備課による「竹原市景観17選」へ多数応募したが、カメラ撮影技術など微塵もないのに、紹介したい景観を17枚も出してしまったので全てが落選しないかとヒヤヒヤである。応募の中から17ヶ所が選定されるのは5~6月のようだ。

2020.03.13

 道の駅の隣りに架かる橋(記念橋)は欄干しかないように見えるが、田ノ浦川が本川へ合流する部分が国道185号線下の暗渠(あんきょ)となっている。「暗渠」は「ブラタモリ」で知った建築系用語であり、道や建築物の下をトンネル状に流れている河川のことである。その様子が眺められるのが旧松屋二重焼き店舗辺りからである。
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#01-04:田ノ浦川の暗渠(2020/02/22撮影)

 現在、この暗渠横には消防団の消防車格納庫が建てられているが、2000年頃まで「岡本芸南堂」という漢方薬局があった。昭和時代は歴史民俗資料館(旧図書館)のような古風な木造建築であったが、その後は白いモルタル建築へ建て替えられた。それを撮った写真が以下なのだが、黎明期のデジカメなので酷く画質が荒い。この岡本芸南堂の裏には稲荷神社があったが、祀られていたお稲荷さんよりも地蔵尊が多かった。道の駅敷地内の電気自動車のスタンドと自販機の位置に有ったが、道の駅として整地される最中に敷地内東側へ新しい稲荷神社が建立され現在に至っている。
 岡本芸南堂は普段は「芸南堂」と呼ばれており、旧店舗ではカエルやイモリの黒焼き、スズメのミイラ?スッポンの粉、ハブ酒などがショーウインドゥに飾られていた。新店舗になってからの様子はなぜか憶えていない。
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#05-06:岡本芸南堂(1998/03/02撮影)

 そして2000年を過ぎると新店舗が知らない間に更地となっていた。以下が在りし日の最後の写真であり、2004年には建物が無くなっていた。青い道路案内板の向こう側の白い尖った建物が無くなって、観光センターが見えているのが分かるだろうか?
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#07:最後に撮った芸南堂(2000/01/05撮影)
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#08:最後に撮った芸南堂(2004/01/02撮影)

 そして以下が芸南堂の後ろに在った稲荷神社の様子であるが、道の駅敷地内へ引っ越した後なのでブロック塀のみの状態となっている。
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#09-10:稲荷神社跡(2008/12/28撮影)

 ちなみにこれが移転先の新しい稲荷神社である。道の駅のスロープ途中に右側へあるのがこれである。
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#11-12:稲荷神社跡(2008/12/28撮影)

 この時点ではまだ道の駅は更地であった。
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#13:道の駅はまた更地(2008/12/28撮影)

2020.03.12

 昨年12月の記事で紹介したTV番組『太田和彦のふらり旅 新・居酒屋百選 「広島・竹原 “安芸の小京都” で名店めぐり」』で太田和彦(クラフィックデザイナー&居酒屋探訪家)が竹原で2件目に訪れたのは「味いろいろ ますや」だったが、1件目の居酒屋「美食酒家 とん吉」の場所が分かった。その場所はフェリー乗り場の駐車場出入口の信号交差点角、山陽商船ビルの隣りだった。番組を観た時には1,2件目共に場所は分からなかったが、北崎を巡っている最中に偶然看板が目に留まった。
 「ますや」同様に番組の文字起こしをしたいところだか、この作業は明日を跨いでしまうので割愛。引っ越し梱包したブルーレイへタビング(移動)してしまったので番組は確認できないのだが、店名「美食酒家」は何と読むのだろうか?ネット上では「さかや」と「しゅか」の2種類の名があったのだが、撮った写真の看板を拡大してみると「Bisyokusyuka TONKICHI」と書かれていたので「しゅか」が正しい。番組ではカウンターで呑んでいたが、貸し切りできる個室、45名収容できる畳席があるようで宴会場としての利用も可能である。さすがに竹原駅から徒歩では辛いが、芸陽バスを利用すれば5分程度で訪れられる。
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#01-03:美食酒家 とん吉(2020.02.23撮影)

2020.03.11

 昨日に「磯宮」か「礒宮」かで記事を書いたが、どうもそれが気になって仕方がない。これまで見てきた資料(地図、写真集等)では全て「礒」であり、ウェブログやツイッター等では「磯」が多く使用されていた。だか竹原の歴史資料の最高峰といえる「竹原市史」の全てが「磯」となると、単なる誤記?ではないはずである。これは西方寺の石段が76段なのか、門の敷居石を含めて77段なのか、敷居石の桟を含めて78段なのかの拘りに近い事象である。そこで気が付いたのが礒宮八幡神社の鳥居に掛けられた額である。これに書かれているのが正しい名称のはずであり、先月の帰省で厄除祈願の幟を撮った写真の額を拡大してみた。
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#01-02:磯野宮八幡神社の鳥居(2020/02/23撮影)

 ご覧の通り「礒」となっている。磯の近くへ建立当時は「磯」が使用されており、数百年もの歴史を経て現在の場所へ遷宮された時に「儀」となったのかもしれない。額に加えてもうひとつの確証を見付けたのが玄関に貼られたままだったこれである。確証としては他にも自動車へ貼るステッカーや交通安全の御守り、宮司記載による礒宮八幡神社の紹介チラシ等も有るのだが、既に引越荷物へ仕舞い込んだので今更開梱したくはない。
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#03:礒宮八幡神社の御札

2020.03.10

 引越日まで10日を切った。捨てるものと竹原へ運ぶものを仕分けしていると作業進捗が遅延。全てを箱に詰めると引越業者9tトラックに入りそうにないし、引越先にも保管場所がない。よって捨てるものを仕分けせざるを得ず、捨てるものを置いておくスペースもなし。月2回の資源ゴミ/不燃ゴミ回収日に出してはいるものの捨てた量の倍以上にゴミがたまっている。現住所の自治体はゴミ出しルールが厳しく、縦横高さの合計が1mを超えると「粗大コミ」として扱われ、処分シールを買って貼らないと回収してくれない。可燃ゴミ/不燃コ゜ミ/資源ゴミ/粗大ゴミは処理場への持ち込みが可能であるが、竹原のように無料ではなく180円/10kgの処理料を取られるのである。先週は150kgの本と蒲団類、本日は175kgの本を出した。これ以外のゴミは20km先の処理場へ行く必要が有り、自転車2台とダンボール3箱の不燃ゴミに鍋なとの金属資源ゴミを明日捨てに行く予定である。また、カミさんの部屋には価値のある本が多量にあり、ブックオフの引き取りサービスを2度利用している。最近ならメルカリなどを利用すれば良いのだろうが、来週までに引越品をスリム化しないとマズいのである。
 カミさんがブックオフへの仕分けをしていたら本箱の奥から見つかったのが「竹原市史 第一巻」である。本市史は全5巻あり、礒宮再築記念でカミさんの父親が礒宮の朱印が押された全巻を市から贈られたものだ。その後、竹原書院図書館から第一巻を分けてもらい、竹原について調べ始めたことでそれを引き取っていたとのこと。この本の存在は知っていたが、これまでなかなか見せてもらえなかった。本日、一部読んでみたが「磯宮の山津波による崩壊」や「番屋橋の周辺」について詳細に解説されていたのには驚いた。なぜか全てが「礒」ではなく「磯」なのだが、旧建立場所(鳳伏山)の成井川が海に入る磯辺にあったので「磯宮」となったとのこと。その後、荒廃して現在の珍海山(鎮海山?)に遷宮されたと書かれている。「磯」は水しぶきをあげる岩であり、「礒」は岩石の様子らしく、謂れからすると「礒」よりは「磯」が正しいように思われる。だが初詣時の幟には「礒宮」と書かれている。
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#01-03:竹原市史 第一巻の表紙と目次

 この第一巻の発行日は昭和47年3月31日である。発行は竹原市役所で非売品。第2巻から5巻は更に詳細な内容らしく、竹原市史の概要を知るには第1巻がベストとのこと。竹原書院図書館から引き取ったということは、もう図書館には所蔵品は無いかもしれない。
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#06:竹原市史 第一巻の発行時期

 この「竹原市史 第一巻 概説編」の他に見つかったのが、竹原高校の太田先生による郷土研究の授業で配布された以下資料で昭和51年のもの。
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#10-14:竹原高校教師の太田氏が用意した資料

 現在、このような古い資料を竹原市の文化生涯学習室にて古い書物、墨で書かれた手紙・書類や古い道具類を収集中のようである。帰郷した際には、これらの資料について連絡してみる予定である。

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