安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2020年08月

 竹小の南門の小高い場所(竹原町田中)にある神社。「たけはら神仏を訪ねて」によると、この田中地区に祀られていた荒神2社(祭神は宇迦御魂神と宇気母智神)を合併したものとある。宇迦御魂神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で「お稲荷さん」のことらしく、宇気母智神(うけもちのかみ)は五穀の神(食物の神)らしい。だが私がずっと知りたかったのは「なぜ貞光なのか?」なのだが解決せず。神として祀られるほどの歴史的人物の名なのか地名なのか・・。
(2020/08/23撮影)
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 私のお気に入りは鳥居左端にあるこの「亀手洗鉢」である。お参りする前にこれで手を洗って清めておくものなのだろうか、だが鉢には水は一滴も無い。この亀とは思えない容姿のものは磯宮神社の本殿前灯籠付近にも有った気がする。
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 小高い山の石段を上ると拝殿への小路があり、ここには波と鳥らしき画が彫られた石が埋め込まれている。これを踏んで良いのか避けて通るのかだが、一応、避けて拝殿へ進んだ。
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 拝殿の先に本殿があるのだが、今回は拝殿左右を回ってまでの撮影はしなかった。なぜか賽銭箱は設置されておらず、拝殿の天井には舟を漕ぐ櫓(ろ)が掛けてあり、壁にはこの辺りの地名らしき「田中なんとか」の板もある。期待した古い絵画などは特に見当たらなかった。
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 結局、賽銭が入れなれないまま拝むことなく石段を下りた。因みに鳥居前に停められている軽自動車は私のではない。
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 貞光両神社については過去にも何度か写真を撮っているのだが、珍しいものでは旧ホームページに秋祭りの準備中の様子があるので良ければ参照してほしい。

 西幼稚園、中通保育所西保育所が統合された「たけのここども園」が令和2年4月に開園した。同時に廃園となった西幼稚園だが、4月になっても暫くの間は駐車場には自動車が多数停められており、何かの説明会が開かれているようだった。貼り紙を撮っおけば良かったのだが「説明会専用駐車場」とか書かれていた記憶が有り、「たけのここども園」への入園手続きに関する説明会が開催されていたと推測。説明会の開催場所は西幼稚園跡の遊戯場内だったのか、歩いて5分程度ある遥か彼方?の「たけのここども園」の多目的ホールか遊戯場だったのかは不明。西幼稚園跡前を訪れた時には園門は閉まっていたが、他の日では開いていた時も有った。(2020/04/08撮影)
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 西幼稚園の閉園後から約5ヶ月が経過したのだが、西保育所と中通保育所を含め跡地は何かに使用されるのだろうか。東幼稚園跡(廃園)や大井保育所跡(休所中)は建物や園庭が現在も残されており、他の目的で使用されたり、草ボーボーの廃墟となりつつあるものもある。
 西幼稚園跡は町並み保存地区圏の傍に有るので、これまで通りに「竹まつり」の臨時駐車場(住民退避用)等に使用されたり、新たに観光・催事用のイベント会場や駐車場として再利用される可能性はある。また、古庭橋向こうの榎町駐車場が4月に閉鎖されたことも何かの関係がありそうだ。

 そしてその西幼稚園跡の8月の様子だが、正門越しに覗いてみたところ特に変化なし。(2020/08/23撮影)
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 だが格子に寄って園庭を覗いてみると南側半分には雑草が生えている。フェンス傍には背の高い雑草が並び始めており、この施設の管理は一時的か完全に終わってしまったようである。
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 私が通った時代の西幼稚園施設ではないので特に愛着は無いが、旧西幼稚園から受け継がれた遊戯場の動物図鑑のような絵画がどうなったのかが知りたいだけである。遊戯場にはカーテンが閉められ中の様子は路上からは見えない。もしかしたら「たけのここども園」へ移設されているかも知れない。以後、一般市民が西幼稚園跡へ入れる可能性が有りそうなのは「選挙の投票日」だが、もしかして「たけのここども園」に変わるかもしれない。4月の回覧板で回っていた「西幼稚園の想い出」的な歴史資料だが、それにもこの絵画の写真は掲載されていなかった。西幼稚園勤務だった誰かがこの絵画を撮ってくれていたら嬉しいのだが・・・。



 海の駅で訊かれた「骨董の店」を探しに自転車で探索。知人の話では「骨董は伸和(スズキ)の川辺りかも」。その場所は旧HPに「仮屋谷橋側道橋」を書いていたので既に把握済みだ。そのスズキの傍に有る川が仮屋谷川なのだが国道185号に架かる橋名が「仮屋谷橋側道橋」という珍妙な名称。国道の暗渠が「仮屋谷橋」でその歩道部分が「仮屋谷橋側道橋」で架かる川が「仮屋谷川」と解釈している。仮屋谷川は的場海水浴場の渚橋をくぐって海へ流れ出ている。
 スズキ手前のバス停(市営住宅)裏に国道から分岐道が有ったので、もしかしたら「仮屋谷」へ続く路かも?と試しに入ってみた。100m程度道なりに進むと先には民家1件で先が私道になりそうだったので断念。
 その分岐場所は昨日のブログに載せた地図によると竹原化学の向いになのだが地図に側道は無し。伸和自動車の先の橋が仮屋谷橋である。
(2020/08/23撮影)
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 このバス停からの分岐はすぐに迂回して国道へ戻りそうだが、先へ進むと国道から徐々に離れ谷間へと伸びている。
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 ここから先は民家の私道となりそうだったので分岐まで引き返そうとしたら、棚に陶器が並べられた骨董店らしき場所を発見。細い道と細い橋を渡ると到達できそうなのだが、橋の幅員が50cm程度で市有地の道のようだ。
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 仕方なく国道の分岐まで戻って仮屋谷橋まで行って見ることにした。
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 そして橋上から東の川沿いに先程の骨董店らしき家屋があるのが分かった。それが以下の写真である。訊かれた時の「骨董の店」のイメージは古民家だったのだが、実際には仮設の店舗が仮設のまま。学生の頃に読んでいたブルーバックスの「宇宙空間の増大」で例えれば「骨董の棚がいつしか溢れすぎてエントロピーが増大していた様」のような・・という感じである。濡れても価値が変わらない野晒しのもの、屋根が無いと売り物にならないもの、その境界が微妙。これは衛星CS放送局「ヒストリーチャンネル」の人気番組「眠ったお宝探し隊アメリカン・ピッカーズ」の世界そのままである。この番組では骨董の所有者と対等に会話や交渉ができる歴史・骨董知識が無いと相手にされないのたのが、この仮設?店の雰囲気はその匂いがプンプン。この時は時間が無くて・・というより、ピッカーズしか寄せ付けなさそうなオーラで尻込みしてしまったのである。誰かここを訪れたことが有る人はいないだろうか?たぶんいないに違いない!どうしても入ってみたいので後日またレポートとする。
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 なぜ?どうしても行きたいか?なのだが、80年代は週一、90年代からは月一で通っていたアキハバラのジャンク屋のワクワク感を彷彿させるこの骨董店。陶器や掛け軸には興味は無いが、もしかしたら私が大好きなレトロなラジオや蓄音機などが置かれている可能性大なのである。

 たけはら海の駅(北崎旅客ターミナル)から出てきた家族の子供が「もみじ饅頭が食べたい」と母親にねだったら「有るんかねぇ?」との会話。一体何のことかと思ったら向いにあるプラザ港の屋根に「もみじ饅頭」の看板が有った。(2020/07/05撮影)
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 海の駅には何度か訪れているが、この時はテレビで紹介された「牡蠣の自販機」を見に行った時だった。自販機が調整中だったので玄関を出ると愛媛ナンバーの車が目の前に停まって「この辺りに骨董のお店があるでしょうか?」と聞かれたのだが分からなかった。現在の竹原で骨董店といえば田万里の「珍古堂」ぐらいしか知らないのだが、的場手前の仮屋谷橋にそれらしき店?があることを後に知人から聞いた。それを見に行く前に改めて撮ったのがプラザ港である。下の地図はプラザ港の壁に掛けてあったものである。(2020/08/23撮影)
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 目的は骨董店だったので通りすがりの撮影だったが「もみじ饅頭」を扱っている店舗が有る模様。左手には「うどん屋かあちゃん」が営業中だった。この店を知ったのは2014年だったが、いつかは訪れてみると旧HPに書いたものの未踏のまま。
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 さて恒例の過去の写真の発掘だが、最古の1997年の23年前がこれである。デジカメが低解像度の黎明期のもので、走行中の撮影だったので残念ながら全景も撮れていないが、それでも現在との違いがハッキリと判かる写真であろう。(1997/05/07撮影)
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 もう「いつかは訪れてみたい」が「いつでも訪れられる」となったので近いうちに入ってみよう。

 三井の煙突を下から見たくなって竹原港を訪れた時、これまで素通りしていた待合所へ寄ってみた。とはいえ待合所の中へは入らず桟橋側に回ってみただけなのだが・・。実際に中まで入った事が有るのは1980年代だったかも。学生時代に中電工のアルバイトでチキリ(契島)までここから通っていた時期があった。
(2020/08/23撮影)
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 桟橋には契島へのフェリーがいつも停泊中。フェリーに作業車を載せて契島へ行くときは中四国フェリーにも寄港していたので北崎から乗船、それ以外はここから小型の船舶で通っていた記憶がある。
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 ここで見付けたのが青い塗料が塗られたコンクリート製の地図と海図である。以前にもこれを撮ったことが有るのだが、撮った場所に確信が持てないままとなっていた。改めて海図を見たところ竹原港待合室と北崎の待合所(海の駅)の区別まではなぜか描かれていない。これは本来ならば北崎側に有るべき「もの」と言えるが、文字欠けや塗料の劣化もかなりのもので「超存在トマソン」に認定しても良さそうなものであった。
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 桟橋側から県道へ戻る際に、三井の煙突が目の前に現れて海の香りが精錬所の臭いへと変わる。
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