安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年05月

 昭和30年代から40年代に榎町の筋の何処かにあった「文学堂」。店の中の配置は入口左側の壁が貸本棚と奥が店番台、真ん中の陳列が文具、右側壁が体操服だっことを微かに覚えているのだが、店があった場所がどうしても特定できない。藤井写真館があった橋側に近いはずだが、当時の街並みとは大きく変わっており、何度ここを通ってもそれらしき建物は見つからなかった。
 今回、敢えて新町側から榎町へ入って記憶を辿ってみたところ、文学堂から出て藤井写真側の橋手前にあった「住田綿打ち店」が遠くに見えていたことを思い出した。それが見える場所は下の地図の(15)辺りとなり、本川側に並んでいた古民家が解体されて新たな住宅となった区画を特定することができた。(2021/05/18撮影)
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 地図の番号で撮ったのが以下の項番の写真である。

(1)新町観光駐車場側から榎町へ入ってみた。
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(2)この新町コガワ食品部跡の北側からが榎町となる。
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(3)このポンプ場が「竹原市榎町雨水ポンプ場」で、ここからが榎町を示す文字と矢印がかすれた看板がある。ポンプ場は昭和56年の竣工だが、ここは昭和55年地図では松岡治療院であった。
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(4)友谷電機工業所辺り。
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(5)煎餅本舗の黒田製菓の旧店舗(現在は保存地区内)がこの先辺りにもあったようだ。
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(6)更に先へ。
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(7)カーブミラーから左折すると升元醤油から「つぼみ(児童)公園」へ抜ける路地がある。
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(8)これがその路地。
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(9)さらに北へ。左端に見えている緑の看板は2件目の黒田製菓。向いには琴平神社。
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(10)琴平神社は榎町の守護神。毎年の10月10日に榎町自治会による祭りがある。
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(11)ここが3件目の黒田製菓。
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(12)山陽クリーニングは「文学堂」跡となった頃にはあった気がする。
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(13)この辺りに親戚があったので、もう少し先に「文学堂」があったはず。
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(14)この辺りから右川に古民家が並んでいたが、竹原葬祭となった古民家しか残っていない。
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(15)この辺りから住田綿打ち店があった場所が見えてくる。この車庫かその1件先辺りに「文学堂」があったはずである。昭和55年地図のこの辺りに「文学堂」ではなく「有吉文具」が描かれているのだが、他には文具店は無かったので「文学堂」に違いない。しかし、もう古民家は無いので場所の確定ができない。
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(16)榎町の最北端向こうに見えていた住田綿打ち店は、現在は一般民家になっている。
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 多用している昭和55年地図が唯一の手がかりなのだが、それには「文学堂」がなく、代わりに「有吉文具」がある。だが、そのような名で呼んでいた事も他から聞いた事もない。今になって気が付いたのだが、榎町に現在も住んでいる親戚に訊けば、店舗名の正しさとピンポイントでの場所の特定ができそうだ。

 忠海町の散策を終えて最後に忠海駅へ。目的は2番ホームへの跨線橋からの眺めであった。(2021/05撮影)

 「旅館あかだま」側の横断歩道から忠海海駅へ。
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 列車到着案内表示器にはどのような内容が表示されるのだろうか?改札口で待つこと約1分間。・・・だが画面には走るウサギとハングルのみ。そろそろ「1番線に電車が来るよ~」との韓国からの観光客向けの案内なのだろうか・・・。イライラしていたら日本語や英語表示を見ないまま列車接近メロディーが鳴り始めた。
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 画面が変ったので発車時刻と思いきや?5月の鯉のぼりを持つウサギと現在時刻だった。 三原方面なのか広方面なのか、何度か見上げてみたがこれでは分らない。
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 ホームへ出て、さて?左右どちらから電車がやってくるのだろうか?
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 2番ホームに来てくれると有難いのだが、どの程度使われているのだろうか。
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 1番ホームには英語圏から観光客向けの方向案内がある。
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 暫くすると三原方面側から広行の列車が到着。
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 乗りはしないので跨線橋からの眺めを撮ることにした。
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 北側には黒滝山。
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 1分後に広行は出て行った。
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 東側の彼方には忠海港の桟橋が見える。
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 東側のホームはこんなに長かったのか。忠高に通学していた頃は、跨線橋下辺りが列車編成の丁度真ん中だったような記憶がある。
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 西側ホームもかなり長い。湘南色8両編成だった頃は、屋根付きの椅子辺りが先頭だったような・・・。その椅子はいのまにか解体撤去されていた。
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 2番ホームは全く使われていないと思っていたが、線路の上部が錆びていないので列車が走っているに違いない。テカリ具合が1番ホーム側よりも少ないので使用頻度は数回/日程度のようだ。
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 忠海港の向こう沖には EVER GREEN が出港中。
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 忠海駅向いの「旅館あかだま」辺り。
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 いつ頃からなのだろうか「うさぎ」イラストが駅構内に多用され始めたのは。「うさぎ島」フィバーより前だった気がする。
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 2番ホームが使われる時を時刻表サイトを探し回ったがJR西日本にも見当たらず。色々、調べてみて分かったのは忠海駅舎入口の時刻表に利用ホームの①②が振られているようであった。2番ホームが使用されるのは竹原・広方面行が三原方面の列車と忠海駅で待ち合わせする時のみのようで、残念ながら今回はその時刻表は撮らなかった。数年前に撮ってはいたはずだが小1時間かけても探せず。改めて時刻表サイトを確認してみると忠海駅を訪れた 16:52 より1本前の 16:20広行 と 16:21三原行が忠海駅で待ち合わせだった。もう30分早く来ていれば広行が2番ホームを使用していたはずである。

 多数のWEB訪問記がある「忠海八幡神社」を初めて訪れた。特にここを目指しての忠海散策では無かったが、網の目状の路地を気の向くまま歩いていると偶然に鳥居を見つけた。竹原町で八幡神社といえば礒宮八幡神社(通称:お宮、いそのみや)が挙げられるが、忠海町ではこの「八幡宮(鳥居の額)」になるのであろう。この「忠海八幡神社」の呼び名は他にも色々あるようで「開発神社」「忠海開発神社」など。ではその訪問した写真を紹介。(2021/05/25撮影)

 昨日の記事に載せた五郎丸酒店の店頭路地を右折した所にこの鳥居が現れる。
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 礒宮同様に第一?鳥居からかなり先に神社名がわかる鳥居がある。
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 鳥居の額?には「八幡宮」と彫られていた。
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 神社へお参りする前に手・口と心を清めておく。
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 一礼して鳥居の右脇を潜って境内へ入ると右脇に目立つ池田快堂の碑があった。観光協会による解説板も撮っておいたので興味ある方は読んで欲しい。
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 境内から見上げると拝殿がチラリと見えた。
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 石段を上がって振り向くと境内の様子がよく分かる。向こうの大瓦屋根は西養寺である。

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 ここは拝殿までの中程であった。左右には併祀されている社の祠がある。
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 右側の社は「天満宮」のようだが、鳥居から額が落ちてしまったようだ。
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 左側の社の鳥居には額が無い。
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 拝殿へは更に石段が続く。
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 拝殿の左右には狛犬と獅子が阿吽で出迎えてくれる。
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阿形の狛犬。
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吽形の狛犬。
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 拝殿がある境内から見下ろすとこんな感じ。
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 拝殿の右側には国指定天然記念物の忠海八幡神社叢(・・・しゃそう)の記念碑がある。ちなみに聞きなれない「社叢」とは、神社における社殿や神社境内を囲うように密生してる林のことらしい。この巨樹が天然記念物だと思っていたが、この巨樹を含めた神社の周りに自然に群生している(いた?)樹木が稀な海岸樹叢だったことが記念物に指定されたようだ。
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 そしてこれが拝殿、その奥が本殿である。
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 階段は土足禁止しだったので靴を脱いで床へあがったが、御賽銭箱は格子戸から1m奥。投げ入れても箱へ入れる自信が無かったので小銭を財布へ戻し、カラン~カランと縄を振る鈴も無いので拝まずに階段を下りることにした。
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 拝殿の軒下に正式な神社名?の額を見つけたが、予想に反して「開発八幡宮」と書かれていた。この「開発」とは一体?
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 奥の本殿裏まで行ってみる。
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 「禁煙 はいざらのないとこ 絶対だめ」の平仮まじり警告看板が景観とはミスマッチなのだが、高校の体育館裏でタバコを吸うような輩がここは絶えないのだろうか?
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 本殿後ろをぐるりと回ると天然記念物社の碑がある場所に戻れる。
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 そろそろ陽が落ち始める17時前になっていたので境内へ下りて本町の路地へ散策を続けた。
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 ここ天満宮では6月上旬に成人した輿守(こつ)による祇園祭の集金がある。集金で町内を巡ることで大人としてのデビューとなり顔を覚えてもらえる。
 その後、祇園祭の1ヶ月前に行われる「蔵出し」では、輿守が神輿舎から神輿を出して拝殿へ運び入れ、祇園祭当日まで毎日通っては神輿を磨きあげなければならない。
 更に祭りの2週間前に行われる「足洗い行事」では、町の男衆が集まって担ぐ神輿や太鼓などの準備を行い、清めの神事が行われる。神事の前に神輿の屋根に擬宝珠を取り付けるのだが、擬宝珠に触れるのは輿守から選ばれた輿守の長のみ。
 そして祭りの1週間前、予行演習としての「七日祇園」が行われる。八幡宮から弁財天へ神輿を移動して祭りの前日を待ち、当日の朝に注連縄と提灯が吊るされる。
 祇園祭は町内の全員が何らかの役割で参加する。祇園祭については竹原市の「忠海町祇園祭みこし行事」を参照して欲しい。
 都会を出て竹原(忠海での例)で暮らすには、このような祭事などへの参加が不可欠であるのだが、昨年、故郷竹原へ移住した私は早速の「ドブ掃除」と恵美須祭りの集金回り、今年の初めには「神明さん」造りには仕事で参加できなかったが、燃やす当日の神事から後片付けまで一日がかりの校庭に快く参加できた。テレビ東京BSで放送された『都会を出て暮らそうよ BEYOND TOKYO』(広島県竹原市)では、このような参加すべき行事が多数あることも紹介されるといいなぁ~と少し期待はしていたのだが・・・。

 これまで数年に一度の徒歩での忠海、改めて街並みを散策してみると・・・特別に保存されるでもなく、生活感を残しながら自然に朽ちて行くレトロ感が何だかとても心地よく懐かしい。
(2021/05/25撮影)

 先ずはメイン・ストリートにあるレトロ感溢れた「河畑たばこ店」。2014年に訪れた時は未だタバコ(TOBACO)の窓?が開いていた。バイパス化前のメインストリート突き当りに在った「カシコ時計店」の次に私のお気に入りの建造物である。
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 たばこの販売窓口はベニヤ板で閉じられたまま。歩道に立っていた外灯の店看板や路地角の自販機も撤去されていた。
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 その河畑たばこ店の角を曲がると、またレトロな看板「中井旅館」があり、その先のT字路角に赤ポストが現役で残っている。
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 T字路を右に曲がって旧忠海~小泉線を横切り進むと、またレトロな看板と赤ポストを見つけた。
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 ここは「五郎丸酒店」。なぜか宝寿や誠鏡ではなく「千福」なのがレトロ感倍増だ。
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 バイパスを跨いで(旧)本町を抜け、旧メインストリートに入ると古民家が並んでいるが、そこに「りは」と書かれた看板を発見。一瞬「リハビリ?」に読めてしまったが、右書きの「はり」であることに気付いた。
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 かなり劣化して店舗名が読めないのだが「浜本鍼灸」かも。
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 更に進んで役場方面へ抜ける角にレトロなガチャが置かれていた。ここは玩具店だったはずだが、一般民家に変ってもガチャだけが残っていた。
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 中身もレトロかと近寄って覗いてみると最新のプラケースが入っていた。
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 更に役場方面へ進むとレトロ風に造られた看板かと思いきや、本当に古い看板であった。
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 これも文字が薄れて店舗名が読めないが「衣料スーパ ことぶき商店」であろう。
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 前述のT字路を左へ曲がると教会風の聖愛幼稚園がある。
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 そして忠海高校生時代に電車待ちしていた懐かしい本屋。壁に書かれた草間書店の店舗名が今も残っていた。
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 次回、散策するときは「忠海劇場跡地」の探索である。現状、場所は曖昧だが旧地区名「本町」の区画は判明。国土地理院の空撮写真では、本町エリアには大きな建物が確認できないので、この付近の住民に直接聞いてみようと思う。もう10年近く訪れていないが、幸い近くに親戚も在るので挨拶を兼ね再訪も良いだろう。
 忠海町は昭和33年に竹原市に合併。当時の合併騒動の様子は竹原書院図書館所蔵の「芸南新聞」縮小版で知ったのだが、その広告欄に「忠海劇場」の上映予告が載っていたことが、竹原市の映画館探索のキッカケとなった。

 あいにくの曇天でスーパームーンの皆既月食は観られなかったが、月が地球に最接近することで大潮となった的場にて普段は見ることができない広大施設の実験設備を撮ることができた。(2021/05/25撮影)
 先ずはその広大施設についてだが、的場の国道カーブに広島大学の竹原ステーション(水産実験所)があり、古くはここに宇宙物理学や場の理論、時間空間論を研究する全世界的にも特異な研究所「広島大学理論物理学研究所」が一時的に有ったようで、敷地の国道沿いにその記念碑がある。その関連なのか近くに在った佐々木ホテルで1963年に「第2回 科学者京都会議」開催され、物理学の著名人が参加されたようだ。
 その実験設備とは、ここの水産実験所で使用する海水の取水管である。詳細は竹原ステーションの構内マップで図示されている。

 この白い建物が的場側の突堤から見た竹原ステーションである。撮影した日にはスクールバス?(NOROSANバスだったような・・)が到着していた。
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 野外水槽なども突堤から見ることができる。
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 そしてこれが海水の取水管である。普段は殆ど海中に隠れており、大潮の引き潮時でないと、ここまで長い管を見ることはできない。
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 パイプ2本が対になっているのは取水用と排水用なのだろうか?それとも片方は予備なのか?
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 取水口までは見ることができなかった。
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 広大といえば西条の東広島キャンパスが近いが、竹原にもその関連施設があることは竹原市民には余り知られていない。ここ的場へ昭和22年に竹原市が誘致・寄贈した土地に在った「広島大学理論物理学研究所」の跡地へ、福山市から東広島市へ移転した水産実験所が平成3年に移転している。その研究所の記念碑を撮っていたはずだが見つけ出せない。

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