安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年07月

 西野町から田万里を走行中に見かける看板「お好み焼かも川」。あれからもう30年以上前になるか、関東から自動車で帰省した際に一度だけここのお好み焼きを食べに家族で訪れた事が有った。それ以来、帰省時に何度もここを訪れるも、盆正月の時季のせいなのか一度も営業中の機会には恵まれなかった。
 確か、ここ「かも川」は水を注ぎキャベツを無理やり押さえず、キャベツ自体の水分だけで蒸して仕上げるスタイルで有名だったと記憶している。これが本場広島での「お好み焼」の作り方だとか、押さえて蒸すのは邪道だとか、そもそも「お好み焼」を「広島風」や「広島流」とか「広島焼」などと一言でも語れば見知らぬ広島県人に「ぶちまわされる」とか・・まことしやか・・に言われていた懐かしい時代であった。
 今回も西野町から田万里へ向かう際にこの看板を見かけたので、戻りの際に駐車場へ入って停めてみたが、入口に何かの貼り紙かあるものの、わざわざ石段を上がって読むまでもなく暖簾が掛かっていないので営業中の感じでは無かった。コロナ感染対応で休業中なのか、たまたま定休日だったのか、どこかへ移転したとの告知だったのか訪れた際に見ておけば良かった。(2021/07/27撮影)
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 この通り、入口扉には白い貼り紙(小さな文字で何か書かれていた)
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 ここ「かも川」には右隣りにも建物が有る。確かここは一時的に「喫茶すずめのお宿」という併設店舗だったと思ったのだが、看板を見ると「珈琲館かも川」と書かれていたので記憶の間違いか。ここも営業中ではないようで、入口にはつまづく様な棒が置かれていたことから長期間営業されていない雰囲気が漂っていた。
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 帰って最新の「竹原うまいもんマップ」冊子を開いてみたが「かも川」は載っていなかった。ネット版の「お好み焼」店舗一覧にも見当たらず。(加盟店のみなのか、知っている店も載っていない)

 これは「かも川」を撮った最古の写真1997年当時の様子である。(1997/01/06撮影)
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 これは営業中を撮った最後の写真である。この色褪せた看板は現在の看板「お好み焼 一品料理 かも川」とは異なっており、「珈琲館かも川」の看板もある。(1999/05/08撮影)
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 店舗入り口には赤い暖簾も掛けられており、こだわり店の噂を聞いてかツーリング客も立ち寄っている。あれっ!?左端の看板上に「広島焼?」の文字が写っているが、地元広島の一流店でも「広島焼」を使っていたのだから、やはり1980~90年代当時に「ぶちまわされる」のはウソだったようだ。
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 今更だが「かも川」は何と読むのだろうか?「かもがわ」なのか「かもかわ」なのか?料亭や小料理店ならば濁らずに「かもかわ」となる気もするが、賀茂川と何か関連があるのか?だが「かも川」の道路向いに流れているのは田万里川である。(そもそも田万里川が本当の賀茂川だったとの説もあるが・・)

遠すぎて何度も訪れられない「かも川」の営業が気にはなるが、微かな記憶の「すずめのお宿」は一体何処だったのだろうか。

 ショートケーキをフレシュールへ買いに行った際、9月1日にリニューアルオープンされることを知った。「フレシュール・ブレス7・8月号」によると、このリニューアルはケーキと焼き菓子のショーケースを一新しての店内改装とのことだ。そして興味深いのが日本橋通りの旧店舗から現在の竹原駅西へ移転(2011年春夏)して丁度10年が経過したこと。(2021/07/28入手)
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 モンシェリか新町から現在の新店舗へ移転した頃、フレシュール(旧店舗)が日本橋通りに出来たことを知った当時に「こんな高齢化が進む田舎の竹原に、こんなオシャレなケーキ屋さん」が増えてきて、お客さんはどのくらい訪れてくれるのであろうか・・・と内心心配していた当時を思い出す。

 先ずはその日本橋通りに出来た当時のフレシュール旧店舗の写真を掲載する。(2002/08/10撮影)
未だOPEN時間前だったのでシャッターが閉じていたようだ。この2002年の春頃にフレシュールができたことをSNSで知って、8月の帰省時に初めて訪れたと記憶。
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 OPENしてからの初訪問時にショートケーキなど?を購入。
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 続いてそれから2年後の正月。親戚への新年の挨拶用にとフレシュールでケーキを購入。(2004/01撮影)
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 そして2011年夏に現在の竹原駅西の店舗へ移転。(2011/08/15撮影)
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 それから旧店舗は一時的に介護関連の事業所として利用されたが、現在も空店舗のままである。
(2013/01/01撮影)
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(2013/12/31撮影)
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 最後に、以下がリニューアルされることを知った時に買ったフレシュールのショートケーキである。(2021/07/28購入)
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7月28日の夕食後デサート&コーヒーとして先ず2つ。
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7月29日の午前にアイスコーヒーと一緒に残り2つを。
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 デザート用のショートケーキは、フレシュールも含めモンシェリや末広堂などでも購入している。竹原でこんなに色々な店でオシャレで美味しいショートケーキが何時でも買えることを知ったのは帰郷後であった。

 1980年代、は田万里町の国道2号線ヘアピンカーブは片側1車線(カーブ前のみ登坂車線有り)の対面交通だったと記憶している。(自信はない・・・)ここがいつしか三原方面ルートと西条方面ルートに分離され、既存道路が西条ルートの2車線化、三原方面ルートが2車線の新道となった。
 初めてこの新たな区間を写真に収めたのがデジカメが黎明期だった頃の1996,7年頃。あれから約24年が経過した2021年に改めて両ルートを撮り直してみた。(2021/07/27撮影)

 マップで示した赤線が西条方面ルート、青線が三原方面ルートである。今回は両ルートの分離点から竹原市(田万里町)と東広島市(三永)の境界線辺りまでとし、三原方面ルートは敢えて側道を走ってみた。
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 先ずここが分離点である。標識の通り、ここから先は上下それぞれ別々の2車線となる。
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 このアーチはNシステムなのだろうか?
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 ここからの2車線は左が登坂車線同様の扱いとなり、低速車は左へ避けて走るのが暗黙のルールである。
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 曲がるにはかなりの危険と無理があるが、三原方面ルートが走る右側壁面には2,3ヶ所の狭いトンネルが有り、三原方面ルートへUターンすることができる。
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 三原方面ルートとは徐々に間が開いて見えなくなる。
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 このポイントが三原方面ルートとの立体交差である。
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 ここを過ぎると上下分離の名残りである3車線になる。左が登坂車線、中央が追越車線的に使われ、右は三原方面の下り車線になっていた。当時は、上下車線を仕切るポールが並んでいたと記憶。
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 殆ど使われない登坂車線区間が終了すると、その先には魔の?ヘアピンカーブの予告標識がある。
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 この辺りから勾配が徐々にきつくなり、坂を登るチカラがない車はスピードが低下。
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 そして、いよいよヘアピンカーブが訪れる。50km/h程度に減速しないと、強いGによって左車線は右車線、右斜線は路肩へ向かってスライドしてしまいそうな恐怖に見舞われる。
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 昔はこのカーブ部分に何かの建物が有り、車線から反れて停まる事かできた。
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 ここが一番キツイ急カーブ。
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 カーブを過ぎると勾配はなだらかになり、右カーブで田万里隧道の入口となる。
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 ここが田万里隧道。分離前はこの中を対面通行していた。
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 隧道を抜けるとすぐにもう一本の隧道となる。
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 この隧道入口から東広島市となる。
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 ここからは三原方面ルートの写真となる。竹原市の境界標識は撮り損ねたが、ここは既に竹原市エリアである。下り坂は徐々にキツくなり、エンジンブレーキを効かさないと制限速度オーバーとなる区間である。もちろん、そうなるポイントには、帰省時期に移動式オービスが設置されているのを何度も見かけている。
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 そして長いトンネルが訪れる。
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 トンネルを抜けると更に速度が増す。
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 今回は敢えて側道へ反れてみた。その目的は田万里川沿いへ抜け出るトンネルが有りそうだからである。
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 そのトンネルが有った!ここから国道下を潜って「珍古堂」へ。諸事情で旧国道へは進めず、その後は再びここに戻ってきた。
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 ここには芸陽バス停「熊野神社」が有るが、西条方面からの芸陽バスに乗った時に、ここを通ったような覚えがないような・・・。芸陽バス路線図を確認すると「熊野神社」が有った。
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 トンネルの両面には「岡山」と「広島」の方向案内があるが、広島方面へは車両は進入禁止。
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 トンネルから「岡山」方面への側道を更に下る。
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 今度は「上田万里」バス停。
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 更に側道を下ると、国道への合流となる。(合流しないと民家への私道となる)
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 三原方面ルートに合流。
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 「かぐや姫も見守っている安全運転」の看板。
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 続いて「ようこそ安芸の小京都たけはらへ 道の駅たけはら 13km」の看板。
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以上、この遥か先にて1車線となる。

 田万里の国道2号が片側2車線になる辺り、遥か左手に白い建物と大きな看板「骨董」が見える。この看板には控えめ?に屋号らしき「珍古堂」と書かれているのだが、どう発音して良いのか未確定のままである。その「珍古堂」は後ちに「リサイクルショップ・ハイカラさん(旧珍古堂跡)」となっており、現在も国道から見える看板自体が「珍しくて古い骨董品」となってしまったようだ。

 今回はその「珍古堂」の看板がある白い建物の傍まで訪れてみることにした。(2021/07/27)

 先ず、ここへは江戸時代にインドから寄贈された像が歩かされた旧山陽道(田万里宿)の田万里川沿いへ行かなければ゛到達できない。広島方面への国道2号線から田万里川沿いへ下る反れた道は何箇所か有るのだが、登坂斜線?から一瞬にして反れて出るには慣れないと難しい。下り口を逃がすと三永まで上がるか追越車線を逆L字右折して側道を潜ってUターンする不便さである。今回は三原方面側の側道にある芸陽バス停から国道下を潜って田万里川沿いへ到達できた。

 このガードレール沿いが旧山陽道の西野町方面と思われる。右にチラリと白い建物が見えている。
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 川沿いから反れて坂道を上がった所に「骨董」の看板が見えている。
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 ここから先は災害復旧工事中。
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 この白い建物が「旧珍古堂跡」なのだろうか?田圃跡の駐車場があったが「リサイクルショップ・ハイカラさん」とは別名だった。この建物が「ハイカラさん」か否かは未確認。駐車場前に車を停めていたら、突然けたたましいクラクションが近くで何度も鳴り響いたので驚いて退散。坂道下の田万里川沿いに畑作業で軽自動車が停められ、道を塞がれた運転手ともめていたようた。関わりたくないので東方面へは進めずに来た道を引き返した。
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 写真では一部が隠れているが看板には「CURIO HOUSE 珍古堂 骨董 掘出し館」と書かれていた。ちなみに「CURIO」は和訳で「骨董品」だった。この看板の下にも看板が有るのたが雑草で隠れて判読不能。では?「珍古堂」は何と読むのかだが、その答えが大黒様の大黒帽(頭巾)に「ChinKodou」と書かれていた。
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この「珍古堂」、国道沿いから撮った写真は数少ない。

 これは 1999.08.03 に車窓から撮った一枚。白い館?と大黒様の看板が写っている。
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 これは 2002.08.10 に撮った写真である。10年前は未だ周りに新築の家が無かったようた。
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 そしてこれが問題作?の看板。旧HP読者からメールで頂いた写真の中の一枚(1999.02.21受信)である。その解説は「この看板を目にしたとき、通りすぎてバックして撮りました。田万里の三永よりの旧道沿いでのカット。」であった。この通学路を歩く小学生達が看板を見て「ChinKodou」と読んでいた光景が目に浮かぶようだ。
 これは田万里川沿いの道から右に反れて「骨董 珍古堂」への分岐点に立てられた看板なのだが、あれから 20年以上が経過しており、今回の確認では存在していなかった。(見逃しては無いはず・・)
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 この秀逸写真に読者が付けていたタイトルは「発音しにくい骨董屋」であった。

 本日は「お好み喫茶エデン」を初めて訪れてみる予定であったが、行く前に営業日を調べたら「月、水~日」。昨日夕方に店前を通った時は久し振りに開いていたのに、残念ながら本日火曜日だけが閉まっているようだった。お好み焼を食べた後は、長浜の砂浜海岸に折り畳み椅子を開いて寛ぎたかったのだが、また今週も猛暑の的場海水浴場で小一時間過ごすこととなった。(2021/07/27撮影)

 自動車を的場公園内の木陰に置いて車内でカップラーメンをすすり、アイスモナカとコーラを持って海岸へ出てみると先週火曜よりは海水浴客が増えていた。昨年夏は平日でももっと賑わっていたのだが、皆、猛暑を避けて「おうちdeオリパラ観戦」されているのてあろう。
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 西側突堤の「飛込禁止」柵手前に折り畳み椅子を広げ、炎天下の陽射しを浴びながら十数分間、的場の海水浴の様子わ眺めていた。10年前ぐらいまでは夏季帰省時に家族で的場で海水浴だったが、徐々に体力も衰え泳ぐことはなくなった。

 西海水浴場への海沿いの道を監視員シャツを着た人が交代のため歩いていたので、先週と同様に歩いて様子を見に行ってみることにした。
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 先週の同時刻は干潮だったが、今週は満潮が引き始めた状態。フェリーが航行する波が打ち寄せて歩道の一部が濡れていた。
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 最後のカーブを曲がると西海水浴場が見え始める。
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 テントに座られていた監視員に会釈をして木陰で撮影を開始。海水浴客らしき人はたったの2名。監視員の話では一人は杖を持って水中ウォーキング、もう一人は素潜りで魚を獲っているように見えているとのことだった。
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 竹小時代に臨海学校でここを訪れていた頃は、石ころゴロゴロの狭い海岸だったが綺麗な人工砂浜海岸になっていた。
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 歩いてまでここを訪れた一番の目的は朝日山と三井の煙突をバックに竹原港を往来するフェリーを撮るため。場所は西側の突堤からとなるが、フェリーが起こす波が突堤上まで上がるようで1隻撮って即退散。
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 あとは日陰で数隻の往来わ眺めていた。
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 穏やかなフェリーや漁船の音を聴きながら寛いでいると、東側から突然の爆音と共に二人乗りのジェット・スクーターがやってきた。的場海水浴場のすぐ沖を何度も往来している毎年恒例の風物時である。
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 長時間は日焼けとなるので退散。
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 13時過ぎだったが海水浴客は疎らであった。
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 さて・・・火曜が休みの「お好み喫茶エデン」へは日曜日にしか行けない。来週か8月の連休訪れてみることとしよう。

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