2021年07月
関西長(カンサイチョウ)
中通郵便局の本川沿い"はす向かい"に古くからある「柿井酒店」。昭和時代に柿井商店をL字型に囲む醸造場「関西酒造」が存在していたことを知ったのは今年の春である。先週の豪雨災害当日に、我が家も床下浸水に見舞われる原因となった本川が溢れた場所を確認しに行った際、店舗前路上の汚泥を片付けておられた柿井酒店の方と立ち話程度で「関西酒造」について少しだけ訊くことができた。要点を忘れないうちにブログ記事として記録しておく。
・当初の関西酒造は柿井酒店による経営であった
・後ちに数社による共同経営となる
・銘柄は「関西長(カンサイチョウ)」
・醸造場は西側隣りと裏側であった。(現在は新興住宅地)
・裏側に煉瓦造りの煙突が立っていた
・その他、諸々個人的な懐かしい話
豪雨災害から一週間が経過した柿井酒店。(2021/07/15撮影)




右端が柿井酒店で「関西酒造」の醸造場はクリーム色の住宅部分に在った。ちなみに黒屋根の住宅は田んぼで、住宅地となる前の私の記憶では、黒屋根の右隣りから柿井酒店までが畑や駐車場などになっていたと思う。(2021/07/15撮影)

柿井酒店の裏側も「関西酒造」であった。斜めやるの住宅から右側がその場所である。(2021/07/15撮影)

「関西酒造」跡を蔵出し写真から探すもズバリ!の写真は見つからず。
先ずは柿井酒店西隣だが、この更地兼駐車用テントが有る辺り(現在はクリーム色の住宅)から関西酒造であった。(2012/05/01撮影)

柿井酒店の裏側は畑になっていた。(2012/05/01撮影)

旧々安田病院が在った頃の柿井酒店西隣。(2003/08撮影)

旧々安田病院が解体されて中電が見えている頃の柿井酒店西隣。(2009/08/02撮影)

以下は「関西酒造」の銘柄である「関西長(カンサイチョウ)」の広告である。
『竹原市の展望』 (昭和34年8月発行/中國観光地誌社発行 のP15より転載)

『芸南新聞』(昭和33年3月23日号の広告欄より転載)


『芸南新聞』(昭和33年4月20日号の広告欄より転載)

以上、小学生時代の私を憶えてくれていた柿井酒店の方に感謝。
・当初の関西酒造は柿井酒店による経営であった
・後ちに数社による共同経営となる
・銘柄は「関西長(カンサイチョウ)」
・醸造場は西側隣りと裏側であった。(現在は新興住宅地)
・裏側に煉瓦造りの煙突が立っていた
・その他、諸々個人的な懐かしい話
豪雨災害から一週間が経過した柿井酒店。(2021/07/15撮影)




右端が柿井酒店で「関西酒造」の醸造場はクリーム色の住宅部分に在った。ちなみに黒屋根の住宅は田んぼで、住宅地となる前の私の記憶では、黒屋根の右隣りから柿井酒店までが畑や駐車場などになっていたと思う。(2021/07/15撮影)

柿井酒店の裏側も「関西酒造」であった。斜めやるの住宅から右側がその場所である。(2021/07/15撮影)

「関西酒造」跡を蔵出し写真から探すもズバリ!の写真は見つからず。
先ずは柿井酒店西隣だが、この更地兼駐車用テントが有る辺り(現在はクリーム色の住宅)から関西酒造であった。(2012/05/01撮影)

柿井酒店の裏側は畑になっていた。(2012/05/01撮影)

旧々安田病院が在った頃の柿井酒店西隣。(2003/08撮影)

旧々安田病院が解体されて中電が見えている頃の柿井酒店西隣。(2009/08/02撮影)

以下は「関西酒造」の銘柄である「関西長(カンサイチョウ)」の広告である。
『竹原市の展望』 (昭和34年8月発行/中國観光地誌社発行 のP15より転載)

『芸南新聞』(昭和33年3月23日号の広告欄より転載)


『芸南新聞』(昭和33年4月20日号の広告欄より転載)

以上、小学生時代の私を憶えてくれていた柿井酒店の方に感謝。
梅雨明けまでの空模様
[7月7日(水)]
午前と午後に土砂降りの大雨が降った。夕方に朝日山上半分の霧が残っていたことから、上空に線状降水帯が発生する前兆といわれる湿度の高い空気が漂っていたようである。


[7月8日(木)]
令和3年竹原豪雨災害の当日の夕方。
9・10日は晴れ間も有ったが「一天にわかに掻き曇り・・」の土砂降りが多発。


[7月11日(日)]
清々しい晴天の空に初めての入道雲(小振り)が発生。
この日に梅雨が明けの発表があると思われたが据え置きだった。


[7月12日(月)]
早朝から初めてセミの鳴き声が聞こえたが、その後はカエルも鳴き始め8時過ぎから雨。
日中は晴と曇りが激しく変わり、時折、小雨と大雨も発生。
夕方には霧が晴れて朝日山の頂上が見えたことから明日は晴天になりそうであった。


[7月13日(火)]
朝から激しいセミの鳴き声が聞こえる。
昼前から巨大な入道雲が発生するも、にわか雨に至らず。
オータニ・ホームラン競争前に「中国地方が梅雨明けしたと思われる」とのニュースを聴く。







梅雨明けの翌日となった本日14日(水)は、朝方から晴天とは言えず汗も出ない程に湿度が高い。
巨大な入道雲が出来ては散り、上空の空気が不安定のようだった。
13時半頃に小雨が降って、15時過ぎには雨雲レーダーに突然の雷雨が発生したが、本郷から三原上空を南上して消滅。かすめた竹原は雨も降らず無事であった。
竹原市の災害メールで竜巻注意報が告げられるも風も吹かず。
関東に住んでいた頃は、梅雨が明けても毎日のように何処かで「ゲリラ豪雨」と呼ばれている突発的な豪雨が発生していた。竹原に戻って住み始めてから1年と4ヶ月が過ぎたが、空が真っ暗になる程の関東版「ゲリラ豪雨」レベルには未だ遇っていない気がする。
午前と午後に土砂降りの大雨が降った。夕方に朝日山上半分の霧が残っていたことから、上空に線状降水帯が発生する前兆といわれる湿度の高い空気が漂っていたようである。


[7月8日(木)]
令和3年竹原豪雨災害の当日の夕方。
9・10日は晴れ間も有ったが「一天にわかに掻き曇り・・」の土砂降りが多発。


[7月11日(日)]
清々しい晴天の空に初めての入道雲(小振り)が発生。
この日に梅雨が明けの発表があると思われたが据え置きだった。


[7月12日(月)]
早朝から初めてセミの鳴き声が聞こえたが、その後はカエルも鳴き始め8時過ぎから雨。
日中は晴と曇りが激しく変わり、時折、小雨と大雨も発生。
夕方には霧が晴れて朝日山の頂上が見えたことから明日は晴天になりそうであった。


[7月13日(火)]
朝から激しいセミの鳴き声が聞こえる。
昼前から巨大な入道雲が発生するも、にわか雨に至らず。
オータニ・ホームラン競争前に「中国地方が梅雨明けしたと思われる」とのニュースを聴く。







梅雨明けの翌日となった本日14日(水)は、朝方から晴天とは言えず汗も出ない程に湿度が高い。
巨大な入道雲が出来ては散り、上空の空気が不安定のようだった。
13時半頃に小雨が降って、15時過ぎには雨雲レーダーに突然の雷雨が発生したが、本郷から三原上空を南上して消滅。かすめた竹原は雨も降らず無事であった。
竹原市の災害メールで竜巻注意報が告げられるも風も吹かず。
関東に住んでいた頃は、梅雨が明けても毎日のように何処かで「ゲリラ豪雨」と呼ばれている突発的な豪雨が発生していた。竹原に戻って住み始めてから1年と4ヶ月が過ぎたが、空が真っ暗になる程の関東版「ゲリラ豪雨」レベルには未だ遇っていない気がする。
「コーヒーの店 潮風」
「中国地方の梅雨が明けていたらしい・・・」との宣言がそろそろ出そうな晴天となった午前。本日は豪雨被害の有無確認も兼ねて照蓮寺と田ノ浦の墓地へ久しぶりの墓参り。お供えの花を買いに楠通りの「竹原園芸店」を訪れたところ、向いの藤井酒造同様に本川が溢れて床上浸水されたとのことで、Pタイル床には泥の靴跡が多数残されていた。照蓮寺の墓地へ向かう際中には、旧西幼稚園跡の園庭が無数の土嚢と水没して使えなくなった家財道具が積み積み重ねられ山になっていた。

照蓮寺にて墓参りを終え水汲み場へ戻って住職と立ち話をしていると、近所の人が訪れて豪雨災害の話に加わった。保存地区内の自宅が突然の床上浸水に遭い、畳2枚をよけるので精一杯、残りの畳が泥水にプカプカ浮かぶのを見ながら途方に暮れていたとのことだ。
田ノ浦の墓地は坂道が泥流の川になった跡が残っていたが、幸いにも山肌が崩れて流れた墓所は見当たらなかった。前回の墓参りから3ヶ月が経っていたことで、枯れた笹の葉と伸びた雑草で荒れ果てていたので大掃除。ここの藪蚊はしつこ過ぎる為、手足首耳に虫よけを塗りたくって完全ガード。炎天下の中、暫くして目まいがし始めたのは他に誰も居ないのにマスクをしていせいある。
あまりの暑さで墓参りの帰りに先ず立ち寄ったのが「みちの駅たけはら」。外の自販機でコーラを買い、がぶ飲みをして一段落。

まだ昼食を食べていなかったが、コーラで腹が膨れたのて自動車を「あいふる通り」の駐車スペースに停め、次に訪れたのが竹原駅向いの「コーヒーの店 潮風」である。(2021/07/13撮影)

この日の注文は「ケーキセットとアイスコーヒー」。

店主と駅前商店街の懐かしい昔話しをしながら小一時間程度くつろげだ。

横断歩道の向いの工事。忠海駅のコロナ感染防止対策工事と同様に、古い観光案内板を撤去しているとのこと。跡地に何ができるのかは未だ分からないらしい。そして私が店主に一番訊きたかったのが「消えた映画館/竹原東宝」が在った場所である。そしてついにその場所が確定か?!そこは現在解体中の「大きいほうモード大岡」であった。ちなみに末広堂はオリオン辺りから現在地へ移転したとのこと。


照蓮寺にて墓参りを終え水汲み場へ戻って住職と立ち話をしていると、近所の人が訪れて豪雨災害の話に加わった。保存地区内の自宅が突然の床上浸水に遭い、畳2枚をよけるので精一杯、残りの畳が泥水にプカプカ浮かぶのを見ながら途方に暮れていたとのことだ。
田ノ浦の墓地は坂道が泥流の川になった跡が残っていたが、幸いにも山肌が崩れて流れた墓所は見当たらなかった。前回の墓参りから3ヶ月が経っていたことで、枯れた笹の葉と伸びた雑草で荒れ果てていたので大掃除。ここの藪蚊はしつこ過ぎる為、手足首耳に虫よけを塗りたくって完全ガード。炎天下の中、暫くして目まいがし始めたのは他に誰も居ないのにマスクをしていせいある。
あまりの暑さで墓参りの帰りに先ず立ち寄ったのが「みちの駅たけはら」。外の自販機でコーラを買い、がぶ飲みをして一段落。

まだ昼食を食べていなかったが、コーラで腹が膨れたのて自動車を「あいふる通り」の駐車スペースに停め、次に訪れたのが竹原駅向いの「コーヒーの店 潮風」である。(2021/07/13撮影)

この日の注文は「ケーキセットとアイスコーヒー」。

店主と駅前商店街の懐かしい昔話しをしながら小一時間程度くつろげだ。

横断歩道の向いの工事。忠海駅のコロナ感染防止対策工事と同様に、古い観光案内板を撤去しているとのこと。跡地に何ができるのかは未だ分からないらしい。そして私が店主に一番訊きたかったのが「消えた映画館/竹原東宝」が在った場所である。そしてついにその場所が確定か?!そこは現在解体中の「大きいほうモード大岡」であった。ちなみに末広堂はオリオン辺りから現在地へ移転したとのこと。

竹原市中央1丁目2番5号解体工事(モード大岡跡)-その1
モード大岡跡の解体工事が始まったのを知ったのが今年の5月7日。長らく防塵シートで覆われて解体作業の様子を外から確認することはできなかったが、大きな屋根が無くなった頃から徐々にその解体工事の大変さが分るようになった。(2021/07/11撮影)
礒っ子側からも防護ネット越しに大屋根が無くなったことが良く分る。



これまで見逃していたのか、シャッターに工事内容が貼り出されていた。工事名は「竹原市中央1丁目2番5号解体工事」。工期は令和3年5月6日から8月31日と書かれており、工事を知った前日から始まったことが分かった。

この日は「七夕飾り」の最中だったが、アーケード内からは大規模な解体工事が行われていることが目立たぬよう考慮されているようだ。このシャッターは最後に撤去されるのであろう。

南側の様子。

東側から北側へパン。


柱には姿見&店内を広く見せるミラーが残っていた。


解体された瓦礫か撤去されて更地になった頃に「その2」を掲載予定である。
礒っ子側からも防護ネット越しに大屋根が無くなったことが良く分る。



これまで見逃していたのか、シャッターに工事内容が貼り出されていた。工事名は「竹原市中央1丁目2番5号解体工事」。工期は令和3年5月6日から8月31日と書かれており、工事を知った前日から始まったことが分かった。

この日は「七夕飾り」の最中だったが、アーケード内からは大規模な解体工事が行われていることが目立たぬよう考慮されているようだ。このシャッターは最後に撤去されるのであろう。

南側の様子。

東側から北側へパン。


柱には姿見&店内を広く見せるミラーが残っていた。


解体された瓦礫か撤去されて更地になった頃に「その2」を掲載予定である。