安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年11月

 小冊子『たけはら町なみめぐり』を読んでいて、外観・屋内・窓からの眺め・内庭等どれもについても見応えのある古民家でありながらも、入館料無料で管理人による解説付きなのが唯一「笠井邸」であることに今更ながら気が付いた。
 この笠井邸は出入口がある側から眺めた場合、左側が「平入(屋根が四角に見える)」で右側が「妻入(屋根が三角にみえる)」の2棟構成で、平入屋根が妻入屋根を包み込むのが特徴的な珍しい建造物で町並み保存地区の通りの最南端にある目立つ場所にある。歴史的には塩田経営者による江戸末期から明治初年の建築で、その後、贅を尽くした装飾や増改築が何度も施されたようである。

 前回、笠井邸を訪れたのは何時頃だったのか・・・10年前ぐらい経ったかもしれない。今回は敢えて「観光客モード」で入館してみた。(2021/11/28撮影)

 先ずは外観の全景。
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 左側の建物が「平入」で入館口はこちらから。
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 右側が「妻入」である。こちらは物置と車庫なのだろうか。
#03
 町並み保存地区でありながら電柱が残されていたのも今更だが気が付いた。
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 この建物は「NPO法人ネットワーク竹原」による管理である。
#05
 先ず撮りたかったのは二階の窓からの本通りの眺め。
#05a
#05b
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 これこれ。ここを訪れた観光客が撮りたくなる窓からの眺め。
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 ゆはり電柱と駐禁標識が気になる・・・。
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 窓から見た左側。
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 右側も。
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 平入棟の二階では展示などの催しが行われるスペースがある。
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 入館口の右横には機織機、糸巻車
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 箪笥
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 重箱
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 ラヂヲ、練炭炬燵・・・
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 ラヂヲの裏側を確認するもメーカー名なし。真空管が見えないがST管(ダルマ型)であろう。この状態では鳴りそうにない。
#21
 妻入棟の二階へ戻る。 
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 窓側の部屋は「たまゆら」部屋。
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 各種ポスターと背景画が展示されている。
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 もう台本やサイン色紙類は無さそうだ。
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 「夏鳥」の歌詞にある「急な階段」はここに違いない。
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 平入棟には「製塩」関連の資料が多数。奥の庭には水が枯れた池。 
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 趣きのある明かり窓。
#29
 ここで竹原の扇状地ができた経過、入浜式塩田の仕組み(干満による塩水の供給)、北前船による塩の代名詞「竹原」の搬出など、興味深い「製塩」についての説明をして頂けた。現在の製塩は吉名町沿岸の最西端にあるNPO法人ネットワーク竹原の製塩所で「たけはらの塩」が流下式塩田枝条架と釜屋式にてつくられている。おな、この「笠井邸」はVR(仮想現実)でも観覧することができるので試してみて欲しい。

 古書店で買った『竹原聞きある記』に掲載されていた伝説「天池のお地蔵さん」を探しているのだが、本文にはその場所については触れられていない。その伝説を以下に転記・・・

今から約百年前の事。西神田の杉の木の所に石風呂かありました。
普段は人通りの少ない寂しい場所です。
冬はまた大変に寒く、何となく容器の漂うような所でした。
ある日、ほらふきの晋平という船とんびが船を買うため、明神に行く途中、たまたま相撲取りのかなめ石と一緒になりました。
晋平は小銭を持っていたのです。ほらふき晋平は「わしは船を買いに行くんだぞ、代金を持っているんだ」と胸を叩いて見せたのです。
大男のかなめ石は「ようし、その大金をとってやろう」と考えました。
吉名の峠を過ぎ、やがで大井の峠まで来ましたが、なかなかチャンスがありません。
とうとう大井峠も過ぎました。
天池のほとりを通り、稲浦も過ぎ、例の石風呂の所に出たのです。
大男のかなめ石は背後から切りかかり、金をまきあげて逃げました。
その晋平の出血で水路は真っ赤に染まったということです。
近所の人たちが、あわれな死をとげた晋平をとむらい、その供養のためにお地蔵さんを祀りました。


場所を特定する文中のキーワードとしては吉名の峠・大井の峠・明神・天池のほとり・稲浦・石風呂・血に染まった水路、そして供養のための地蔵さんを祀る・・・以上のキーワードから推測できる場所をyahoo地図を利用して示すと・・・
#00

地図左上の国道185号を西の川がくぐった先にある明神踏切、天池のほとりを流れる水路(西の川)が天池に合流する地域が稲浦、その先にて吉良崎地蔵を見つけた。(2021/11/28撮影)

先ずはここが明神踏切。
#08
次に天池沿いに流れる西の川。
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そしてこれが稲浦の南先にある吉良崎地蔵。
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 以上のキーワードの場所が見つかったことから、確定的では無いもののこの吉良崎地蔵が伝説「天池の地蔵さん」である可能性が高い。ちなみに『たけはらの神仏を訪ねて』に載せられていた吉良崎地蔵では別の伝説(民話)「大蛸と大蛇のハチ岩沖での乱闘による渦潮で水難事故死があった。釣り・水泳の人など注意すること」が書かれていた。この伝説についても『竹原聞きある記』には以下が書かれていた。

むかしむかし、築地木良崎海岸(吉良崎の誤記か?)の沖の方から大きな大きな蛸がやってきました。
横に折れた松の大木が有るので、それを枕に昼寝をしていました。
松の木ばかりと思っていたが、それは大蛇が昼寝をしていたのでした。
目を覚ました大蛇は大変怒って大喧嘩になり、大蛇は大蛸の足を一本喰い切って食べてしまいました。
大蛸は大変怒って残りの七本足を大蛇に巻き付け、沖へ沖へと引き込んで行きました。
そして横島のハチ岩の沖で大乱闘となりました。
海の砂の渦を巻き、底へ底へと沈んでしまいました。
とうとう大蛸も大蛇も姿は二度と見られなくなってしまいました。
それから後、そこには今も渦が巻いていて、釣りに行った人や泳ぎに行った人は、砂の海の底へのみ込まれて二度と生きては帰らない人が何人も何人もあったそうです。


この吉良崎海岸は天池(東の川と西の川などが合流した河口)の水が海へ流れ出ている海岸である。
ここが天池の水が流れ出る水門(県営大井地区ゲート)。
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ゲートの先には防潮堤(三丁堤防?)がカーブしており、突き当りには溜池の水門もある。この堤防の湾が吉良崎海岸と思われる。
#05
 この溜池は約200年前から昭和まで入浜式の塩田であったが、現在は野鳥を撮るスポットとして人気らしい。
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 そしてこれがハチ岩と大蛸と大蛇の大乱闘があったハチ岩の沖である。
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 このハチ岩があるハチの干潟、昭和時代は潮干狩り(貝掘り)の行楽地であった。干潟の沖には海砂を採取して掘られた穴が多数あるとのことで危険な場所であり、一見遠浅のようだが急に深くなるので沖まで歩いたり泳がないようきつく言われていたことを思い出した。どうやらこの伝説でもハチ岩沖が水流がきつく急に深くなる危険な場所であることを代々言い伝えていたようだ。
 さて、今回の散策で偶然見つけた「吉良崎地蔵」ではあるが、これが「ほらふき晋平」の弔い地蔵だったのかは謎のまま。近いうちに築地に住む知人に両伝説について訊いてみる予定である。

 本日、照蓮寺前を通った際に山門の開口から紫色の幕を目撃。本堂には普段掛けられていない幕と珍しい旗が掲揚されていた。(2021/11/28撮影)

 本日は何かの祝日でもないし・・・仏教に関係する特別な日なのだろうか?自転車を石段下に停めて境内へ訪れてみた。
#01
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 この旗は「仏旗」(ぶっき)と呼ばれるもので法要などの行事の際に掲げる仏教を象徴するものらしい。この配色は国際仏旗。
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 本堂には巨大な紫色の幕が掛けられ、中からは何かの講話の声が聴こえていた。その声には聞き覚えが無く、照蓮寺の住職ではないようだった。
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 先週の火曜日は半分残っていた葉が全て落ちており、地面に敷かれたイチョウの葉の絨毯は消滅していた。
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 本堂からコロナ禍に関する話が・・・漏れ聞こえていた。何の講話なのだろうか?
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 裏門の掲示板にこの貼り紙。「報恩講法要」が昨日と本日に開催。
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 講師は北広島町 本立寺の朝枝暁範 師。
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報恩講」とは「おかげ(恩)を知らせていただく集い」で、宗派によって開催日程が異なっており、照蓮寺は浄土真宗本願寺派なので11月27~28日に開催されたということである。「報恩講」は浄土真宗の僧侶・門徒にとっては、年中行事の中でも最も重要な法要であるらしい。

この人生やりなおしはきかないが見なおすことがてきる

 今月、竹原書院図書館で借りた5冊の小冊子のうち4冊目が『たけはら町なみめぐり』(発行:竹原市/1994年)である。本冊子は町並み保存地区内とその周辺の主な観光資源的建造物を写真入りで紹介されている。
#01

※()内説明は自註釈である。
本小冊子の掲載内容の概要を以下に記す。
  1. 竹原の町並みの特徴・・・江戸時代から入浜式塩田で発展した重厚な町並み
  2. 竹原こうし・・・平格子、出格子、塗込格子、窓格子、与力格子など
  3. 頼山陽銅像・・・昭和55年7月19日、彫刻家の南部祥雲氏による制作(村上ベーカリー前の時代写真)
  4. 笠井邸・・・(「たまゆら」のわたしたち展会場として登場)
  5. 増森邸・・・(「時をかける少女」にて日之出時計店として登場)
  6. 堀友邸・・・(蕎麦処かんの隣り)
  7. 地蔵堂・・・塩浜の守護神
  8. 長生寺・・・小早川隆景による建立
  9. 妙見邸・・・昭和初期の洋風建築の代表
  10. 竹鶴邸・・・竹鶴酒造
  11. 財満邸・・・竹鶴酒造向いの角竹鶴、与力格子が特徴
  12. 松阪邸・・・非常に華やかな建築意匠が特徴
  13. 礒辺旅館・・・昭和5年建築(磯辺ではないことに注意、現在は茶寮一会)
  14. 岩本邸・・・波に千鳥の腰板を配した出格子、二階の高楼は中国風デザイン(テレビ取材あり)
  15. 二宮邸・・・竹原の町屋の一列型の基本型
  16. 吉井邸・・・御成座敷は茶匠不二庵の設計による
  17. 普明閣・籠堂・・・市重文、竹原の中心的景観
  18. 町並み保存センター・・・旧広島法務局竹原支局
  19. 久保谷邸・・・(角の馬留めが特徴、庭続きは「茶房ゆかり」)
  20. 永田邸・・・呉服屋「いづみや」、後に石田医院(現在は竹楽)
  21. 竹原市歴史民俗資料館・・・旧町立竹原書院図書館
  22. 城原邸・・・この付近はジュウドン横町と呼ばれ夜になると大入道が出るとの噂あり
  23. 修景広場・・・明治の学者中村三理の書斎「咬菜居」がある
  24. 頼惟清旧宅・・・県史跡、頼山陽の祖父が紺屋を営んでいた
  25. 胡堂・・・上市の商業守護神かつ境界神
  26. 照蓮寺・・・【重文】日本で最古の高麗鐘、橋本曇斎の墓がある
  27. 「復古館」頼家住宅・・・重要文化財、新頼と呼ばれている
  28. 「春風館」」頼家住宅・・・重要文化財、茶匠不二庵の設計、本頼と呼ばれている
  29. 巽邸・・・【たつみてい】(現在の笛吹亭イタリアン、イル・トラゲット)
  30. 大瀬邸・・・阿波屋小路(昭和初期は一番賑わっていた筋と地域住民から聞く)
  31. 桐谷邸・・・板屋小路
  32. 亀田邸・・・茶匠不二庵の設計(格子状の垣根は犬垣と呼ぶようだ)
以上、観光客が町並みを巡る際には興味深い解説が満載なのだが、本小冊子は何処かで観光客に配布されていたものだろうか。それとも観光ガイド・ボランティア用の「虎の巻」だったのだろうか。

 道の駅から町並み保存地区への途中にある「栄町通り(京栄区)」の一般古民家、その玄関横に「残置燈」と書かれた板が掛けてある。この「残置燈」とは一体何だろうか?以前からこれが気になって仕方がない。(2021/11/16撮影)
#01
 「竹原町警防団 残置燈 責任者第二分団」、字体からも第二次世界大戦中の雰囲気がする。
#02

 この「残置燈」をネットで調てみたのだが、なかなか「なるほど」と言える情報は得られなかった。散在する情報をまとめてみると戦時下における特別な街燈のようで、空襲警報時に暗がりでも避難ができるよう消さずにしてかれる街であり、上空の爆撃機から明りが目立たぬよう形状・明るさと照射角度に規定があったようである。
 この古民家の軒下を探してみたところ、保存地区内の至る所で見掛ける傘付きの裸電球のようなものは無いのだが、それらしき照明が取り付けられていたと思われる切断されたパイプは残っていた。
 ちなみに「警防団」とは、第二次世界大戦に地域住民を空襲や災害から守るために結成された団体である。ここに設置されていた「残置燈」の点灯消灯の管理責任者は、竹原町警防団第二分団だったのであろう。戦時中に栄町通りが薄暗くなると点灯、夜明けには消灯する操作を毎日欠かさず行わなければならない。もちろん自動的に点灯消灯させる原始的な照度センサ(CDSセル)や間欠タイマなど未だ無い時代である。

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