安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2021年12月

 11月下旬に足場が組まれて内部の解体が行われていた「旧竹原福祉会館」が、先週あたりから外観の解体作業が国道から見える状態となった。耐震化された建物かは分からないが、見た目では壁の厚さや柱の多さから、特殊な重機による解体でもかなり手強そうな建築物そうである。

 本日、福祉会館解体中の国道交差点で信号待ちをしていた時に、敷地内の池田勇人前総理大臣立像を歩道上からスマホで撮っている女性を見掛けたことから、12月初旬から現時点までの様子をブログ記事ネタにしてみた。

 防塵ネットが張られ始めたのを確認したのは12月初旬。(2021/12/04撮影)
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 その1日後には四方が囲まれていた。(2021/12/05撮影)
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 (2021/12/09撮影)
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 そして瓦礫を搬出するダンプの出入りが激しくなったことから、福祉会館の交差点では誘導員が配置されていた。(2021/12/14撮影)
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 一般車両への通行制限も行われていた。
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 国道からは壁面の大穴が見える。
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 次回のブログへの掲載は、防塵ネットが撤去された頃の予定である。解体後の「(仮)竹原中央緑地広場」についての設備や完成予想図などは未だ探せていない。池田勇人前総理大臣立像とその周囲がどうなるのかも気になるところである。

 12/07に初めて弾いた「道の駅ぴあの」を1週間後(12/14)にも弾いてみた。館内の休憩エリアが鉄格子で閉じられる1時間半前にトイレへ立ち寄った際、自販機で缶コーヒーを買って暫し休憩。この日もピアノは蓋が閉じられたままで、先週にピアノ横で本を読んでいたオジサンが同じ本を読書中。
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 この日は弾きに来たわけではなく道の駅WiFiに接続してスマホをいじりながらコーヒーをススっていたら、観光客らしき女性グループがピアノ傍のテーブルに集まり始めた。「街角ピアノがあるよ、弾いてみたら・・」などと話していたが6人集まると椅子が足らず、ピアノの椅子に後ろ向きで座って雑談が始まった。本を読んでいたオシザンは何処かへ消えていった。誰か弾いてくれるのではと期待したが観光バス出発時刻になったのかグループは退散。やれやれという感じでオジサンが定位置に戻ってきた。
 15分が経過した頃、スーツ姿の営業マン風の男性がテーブルに鞄を置いてピアノの椅子に座った!もしかしたら初めて演奏が聴けるのでは?と横目で見ながら期待していたら、立ち上がって入口付近で電話対応。暫くして戻ってきて立ったままで鍵盤の蓋を開いた。おもむろに和音を試し弾きしてから座り、いよいよ演奏が始まった。何と!クラシックの曲(オルゴールで聞いたことはあるが曲名知らずのワルツ)、習っていたのか上手い!巧い!数分間、館内に澄んだ音色のワルツが響き渡った後に男性は立ち去った。これを機に演奏者が続いてくれることを期待するもその気配なし。
 鉄格子が閉まるまで残りあと1時間、じわじわと弾きたい欲求が湧き始めて我慢しきれずピアノ椅子に座ってしまった。(2021/12/14撮影) 
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 今回も楽譜を持参していないので、先ずは「Yesterday」をコード進行の記憶を辿りながら演奏を始めてみた。前回弾いた時よりは少しマシにはなったが、毎回つかえる場所は未だつかえる始末。
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 コードを憶えている曲を2,3曲弾いた後で、日曜日に耳コピーし終えた曲「雨にぬれても(Raindrops  keep fallin' on my head)」を初めて生ピアノで試し弾き。デパートや大手スーパーで雨が降り始めると館内に流れる「雨対応シフト」のあの曲である。コードは単純だが歌詞の句読点と小節の区切りが殆ど一致せず、コード楽譜化するのにかなり手間取った。
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 これが持参できるよう印刷したコード楽譜である。
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 アズりながらも10分程度弾いてみた。やはり、生ピアノの音色と鍵盤のアクションは自宅の電子キーボードと比べると格段に上質だ。このままずっと弾いていたかったが、気が付くと横のソファーに女性が座っていたのでピアノを譲って外へ出た。鉄格子が閉まるまで残り40分、その女性が続いて弾いたか否かは確認していない。書き忘れる所だったが、あの読書オジサンは私が椅子に座った途端にどこかへ消えてしまった。

 小中一貫校として「吉名学園」が開校されたことで、竹原市立吉名小学校は2018年に閉校となったが、現在の校庭や体育館辺りは避難場所などに継続利用されているようだ。しかし、市内の廃校3小学校(旧忠海東小、旧忠海西小と旧吉名小)が公共施設として利用される見込みが低いことから、事業所向けに施設の活用事業公募があり、私が知る限りでは旧忠海東小については「忠海集学校」として再利用されている。旧吉名小の校舎は非耐震化であり、何れ利用事業者が決まれば解体される可能性もあることから、今回、その外観を写真にとどめておくことにした。(2021/12/07撮影)
 なお、現時点では吉名小のHPは残されているが、これも何れは削除されるであろう。校歌は「緑あかるい光海の 社の前の稚児桜」で始まり、神社名(光海神社)がそのまま歌詞に登場するのは興味深い。なお、吉名学園の校歌にも「光・海・社」が受け継がれている。

 旧吉名小の場所は、光海神社・池田勇人胸像がある公園の真向かいである。吉名に煉瓦工場が複数あるためか、敷地の塀はぐるりと赤煉瓦製になっていた。
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 廃校になっても交差点名は「吉名小学校前」として残されている。
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 光海神社の注連柱側から見た校舎。
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 交差点の歩道を渡って旧吉名小へ。
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 正門は校庭の南側にあるが、プールと体育館脇にも出入口がある。
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 ここがその出入口。
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 立入禁止ではなさそうだ。
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 左には水が抜かれたプール跡、右には体育館跡があり、体育館横は粗大ごみの回収場所として利用されていた。
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 グランド内では一般車両の出入りも見られた。
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 ここが校舎の正面玄関か。
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 グランド隅には二宮金次郎像ではなくロダンの「考える人」らしき銅像がある。
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 もしかして、この石球は光海八幡社の御神体をモチーフにしているのだろうか。
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 創立百周年記念の岩石園
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 そして煉瓦土台の「考える人」、昭和54年度卒業生による寄贈であり、個々の煉瓦に卒業生の名が彫られている。
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 隣りにも煉瓦製の日時計がある。これは1986年卒業生によるものだ。
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 目盛の15時に影があり、撮った時刻は14:26。
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 校庭にはもう誰もいない・・・何だか物悲しい。
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 校舎玄関横には「いきものががり」が世話をしていたケージ。
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 校舎からの体育館の出入口
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 このプールも何かに再利用されると良いのだが・・・。
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 この道路右側の敷地は1970年代の市計画ではショッピングモールとなる構想があった。
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 以上

【お詫び】下書き状態のままとなっていので 12/14にて公開。

 塩町から明神へ抜ける道の途中、アヲハタ竹原工場の向いに広大な池がある。(2021/12/07撮影)

 google地図で場所を示すと、丁度真ん中辺りである。
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 鴨などの野鳥が棲んでおり、景観的にも自然豊かな湖に見えるのだが、この辺りは元は海だったので人工的な池に違いない。向こうの山は「横島」で塩田として干拓されるまでは文字通りの「島」だった。
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 池の北側には広大な駐車場とスレートの建物。右には治水設備の建物が有る。
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 穏やかな水面は時折、波立ったり何かが飛び跳ねる時がある。
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 巨大な鯉が水面下を泳いでいるようなのだが、その姿は地上からは確認できない。
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 先程までは晴れ間がのぞいていたのに急に曇天に変った。暗くなると少々薄気味悪い。
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 池の反対側にはアヲハタ(株)の竹原工場がある。ここは以前は芸南食品だったと記憶している。
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 道沿いに池のほとりを歩いて行くと祠がある。これは吉崎荒神社(吉崎穀神社)
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 正面の樹々が茂って中を拝むことはできなかった。
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 その先には工事車両が作業中。
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 工事名は「吉崎配水機場遊水池浚渫工事」、作業は「土砂を撤去しています」であった。池の底に溜まった土砂を取り除いているようだ。ということは、この「遊水池」なるものは深くなくてはならない池のようである。
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 別の工事も行われている。工事名は「除塵設備躯体部改修工事」、作業は「排水機場の躯体工事を行っています」。
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 ここには水門があり、遊水池に溜まった水を江戸堀へ排水する設備がある。これがその「排水機」であろうか。
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 そしてこれが「除塵設備」であろうか。
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 遊水池に溜まった水は除塵設備にて濾過され、排水機にて江戸堀へ放出される仕組みに違いない。
これがその江戸堀であり、排水は海水と混ざって竹原湾内へと流れでる。
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 そもそも「遊水池」とは何であろうか?調べて見ると洪水時に一時的に溜めておく治水設備の池のようだ。ならばこの遊水池にはどこから水が流れ込んでいるのだろうか?上空写真にて確認してみると葡萄園の外周を河川が囲んでおり、その末端がこの池へと流れ込んでいる。大雨時に葡萄園に溜まった雨水を、ここへ一時的に溜めておくことで冠水となるまでの余裕を持たせて水害を事前回避する仕組みと推測される。
 本川の河口にある巨大水門と除塵場と同様の治水設備といえるのだが、本川における「遊水池」は除塵場の地下にあるのだろうか?それとも本川自体が遊水池の代わりなのだろうか。

 昨日の「前半」に続く「後半」。(2021/12/07撮影)

 賽銭箱に「神社及び吉名の歴史をパネルにしてみました。どうぞ上がってご自由にご覧下さい。」の貼り紙。拝殿(舞殿)の板の間へは上がっても良いようなので、靴を脱いで中に入ってみた。
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 天井を見上げると歴史がありそうな奉納画などが多数掛けられていた。
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 左右の格子窓には神社と吉名の歴史のパネルが掛けてある。
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 この奉納画は「弁慶牛若合戦」大正四年、豊田郡吉名村と書かれていた。
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 これは「保手浜国平」賀茂郡仁方町字大東。
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 これは古銭を並べて鳥居と縁取りが書かれている。
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 これは昭和十一年。かなり傷んでいるし、表題は書かれていないが「弁慶と牛若丸の戦い」のようである。奉納者は本岡嘉作、妻ショウ、長男勝見。
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 これには表題・奉納年や奉納者は特に書かれてはいない。戦国武将同士の格闘のようである。
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 これも同様に文字は何も書かれていない。これから出陣にも見える。
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 舞台の右には「神社の歴史パネル」が並ぶ。
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 「撮影禁止」などの貼り紙は特に無さそうだが、撮った全てを載せるのはさすがに気がひけるのでパネルタイトルと概要を列記する。
  • 厳嶋社創建時(一三三三)の棟札・・・本殿裏の厳嶋社の棟札
  • 神社の文化財(小早川隆景公奉納)「法楽百韻連歌」・・・隆景による戦勝祈願の「連歌」
  • 社殿の変貌・・・海から上がった石を祀った当時は小祠のみ(900年前)
  • 八幡社の彫刻・・・本殿内左の八幡社の軒下に彫られた蟇股について図解(天女、大黒)
  • 厳嶋社の彫刻・・・本殿内右の厳嶋社も同様の図解(恵比須、獏)
  • 昭和10年代(1935)頃の境内入口・・・注連柱と艫綱の松が写る写真(カラー処理)
  • 往時の境内・・・古い境内の写真、唐獅子の段は現在より2m高い
  • 境内大改修(昭和61年)直後の境内・・・写真、現在の多段境内への大改修
  • ご神木「太閤松」の伐採・・・写真、隆景の戦勝祈願奉納(樹齢400年)が枯れた
  • 二代目松の植樹・・・写真、この松も松喰虫で枯れる
  • 境内の末社・・・全景を図示し、八幡社と厳嶋社以外の併設神社について図解
  • 町内の荒神さん・・・吉名全域に鎮座する荒神(地域の守護神)の場所を図示(※本フログに既掲載)
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 同様に「吉名の歴史」についてもパネルタイトルと概要を列記。
  • 吉名の人口推移・・・享保10年~令和3年の戸数と人工
  • 吉名の主な出来事・・・明治17年 大津波被害、大正8年 初めて電灯燈る、昭和20年 八千代座開館、昭和33年 竹原市と合併、昭和35年 池田内閣発足
  • 古くは「吉奈」・・・吉名に変った経緯と時期は不明
  • 江戸以前の海岸線・・・掛之蒲と吉名駅までは海だった
  • 吉名町古城跡図・・・土居城、野々本城、鍋倉城
  • 江戸期の開発・・・宮沖開発、宗越(むなごえ)塩田、汐留など、光る石を置いた「掛の大岩」の場所
  • 往時の幹線道路(通称「殿様道路」)・・・国道185号の木谷~大井までの古道を図示
  • 芸藩通志絵図・・・文政8年広島藩の地図に載った吉名村
  • 耳鳴地蔵・・・宗越にある地蔵尊の謂れと耳の病に霊験新たかと評判、耳か頭を貫通している
  • 往時の吉名・・・昭和20年の吉名町写真、池田勇人生家、小中学校、役場などが写る。三井堆積場は浅瀬の海水浴場だった
  • JR呉線の歴史・・・写真、昭和10年竹原~呉開通し吉名駅開業、煉瓦やジャガイモを積む引込線、急行「安芸」
  • 往時の小・中学校&幼稚園・・・写真、吉名小、吉名中、吉名幼稚園
  • 吉名のレンガ工場・・・松本煉瓦、山陽煉瓦、東亜煉瓦、中国煉瓦、吉名煉瓦の場所図示
  • 郷土の偉人:池田勇人・・・明治32年生誕、帰郷の写真(※本ブログ既掲載)
  • 吉名の銘菓「はやとヨウカン」・・・池田勇人にあやかった羊羹の口上書き(※本ブログ既掲載)
  • 往時の例大祭の一コマ・・・写真、昭和30年の大祭と奉納相撲(胸像の公園)
 一通りパネルを撮って舞台から降りた。
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 鳥居は「光海八幡宮」だが舞殿は「光海神社」。本殿内には「八幡社」と「厳嶋社」が鎮座する。
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 最上段の境内からは吉名駅方面が見える。
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 おみくじを縛るところ。
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 初詣の準備済
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 石段を下って、続いて次は旧吉名小へ
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 鳥居隅を潜り出て一礼。
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以上、中々見応えのある神社であった。

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