安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2022年04月

 国道432号沿い中通のトヨタカローラ広島竹原店の新築工事が完了するまで残すところあと1ヶ月となった。工事期間は昨年9月中旬から今年の5月末で、現在の竹原店の北隣りの敷地内である。(2022/04/29撮影)

ここが現在のトヨタカローラ広島 竹原支店。
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 そしてその北隣りにて工事が進行中の新店舗。完成した看板は隠されている。
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 更にその北隣りにはスズキ店(株)井上サービスの巨大看板があるのだが、新築トヨタ店の影に隠れることはなさそうだ。
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 新旧竹原店が隣り同士、新築が完成した後には営業しながらの隣りへの移転という珍しい光景も見れそうだ。最近では北崎のセブンイレブン竹原港町店が同様の新築への移転を行っている。移転後の旧トヨタ店は解体されて更地や中古車ヤード等になるのか、空き店舗を残してテナント募集となるのか気になるところ。
 気になると言えば最近、旧創建ホーム本社ビルが防音幕で覆われて、窓枠が外され中で何かの工事が行われている。

 東野町の賀茂川沿い国道432号に架かる「水の口橋(みのくちはし)」の災害復旧工事が令和3年度末で完了。水害で壊れた橋脚と橋梁の修復は昨年末にてほぼ完了し、えぐられた橋根元の護岸壁の修復も年度末までに完了、2018年の豪雨災害から3年8ヶ月通行止めとなっていた橋が4月からは普段通りに渡れる状態となっていた。(2022/04/29撮影)

 上条橋から水の口橋方面への国道432号から見た水の口橋と護岸法面の様子。橋半分に新たなガードレール欄干が取り付けられ、橋両サイドに真新しい護岸ブロック壁が積まれている。
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 中央橋から賀茂川を渡って、東野農協側から水の口橋方面へ。
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 水の口橋東詰め左敷地には工事現場のプレハブ事務所や看板などが見えるが、もう工事車両の姿はない。
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 右敷地はこれまで通りの状態に植樹されていた。
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 架橋半分が解体されて長らく通行止めになっていた橋には特に通行制限の標識などは見当たらない。
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 幅員は狭いが自動車でも渡って良さそうだが。先ずは歩いてみて再確認。
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 架橋は新たなアスファルト舗装が施されており、特定車両の通行止、幅員や制限重量などの標識または路面文字は見当たらなかった。
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 橋の名称は「水の口橋」。通例であれば反対側には平仮名表記の「みのくちはし」銘板があるのだが未確認。工事前は西詰も漢字表記の「水の口橋」であったが、半分残されたガードレール欄干はそのままなので銘板もそのままであろう。
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 早朝からの大雨で賀茂川は濁流となっていた。
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 それでは自動車に乗って復旧後の水の口橋を初渡り。
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 地域住民の大切な生活道であったこの橋の復旧が完了し、東野町(賀茂川東沿い)から水の口橋を渡っての芸陽バス停「水の口」の利用が再び可能となった。

 いよいよGW・・・なのだが・・・「ひろしま竹原観光ナビ」によると、帰郷してから毎年中止となっていた「竹まつり」がまた今年も中止とのこと。ここ竹原でも増加傾向のコロナ感染者数なのだが、その詳細や感染経路などが公表されないため、感染者の二の舞にならないようどう行動すればよいのか分からず、GW期間もうがいと使用毒とマスクをしながら人混みを避けて行動するか一日中家に籠るしかない。
 となると午前中は家に籠り、午後からは人混みの多い街並み保存地区を避け、寂れた社寺の境内や秘境を訪れるか、誰も居そうにない山の頂上や海沿いで広島FMを聴きながら「ボーッ」と過ごすことになりそうだ。
 「竹まつり」以外にも有名なイベントの中止が無いかを「ひろしま竹原観光ナビ」で探してみると、「福田の獅子舞」が目に留まったのだが、その開催場所を知ったのは今年になってからである。意外にも福田町は広く狭い路地が毛細血管のように巡っており、福田に住む知人宅を訪れる際に道に迷いながら目印の神社をやっと見付けられたのだが、その神社の鳥居を見れば「稲生社」の扁額があった。
 「福田といえば獅子舞はどこでしょ~るん?」と訊けば「そこの神社の境内でしょ~るんじゃが去年もコロナで中止じゃった。」とのことで、とりあえず鳥居と路上から境内を撮って帰ったのがこれである。(2022/04/11撮影)

 駐車スペースが見当たらなかったので変形十字路の真ん中から鳥居を撮影。
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 左の建物が「穀神社」で右側が「稲生社」である。
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 この境内にて「福田の獅子舞」が毎年10月に開催される。
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 「たけはら神仏を訪ねて」の調査によれば・・・
 開催日は10月第一日曜日。昭和52年に「福田のしし舞」として無形文化財に指定されている。江戸中期に四国伊予讃岐地方で盛んに舞われていた獅子舞をこの福田へ移入し、以来毎年10月1,2日に稲生社の祭礼にて厳かに奉納されるもの。その年に12歳になる男児が選ばれ、厳しい訓練を受けた神童の32通りに打ち分ける太鼓の舞に合わせて獅子が戯れて遊ぶ舞の姿は可憐で高雅である。

 「たけはら聞きある記」に掲載された「大乗百年史」による記事・・・(こちらが上記の元情報と思われる)
 竹原市福田町で古くから伝えられている氏神さんへの奉納の芸能で、今からおよそ250年前(江戸中期)、当時四国伊予讃岐地方で盛んに舞われていた獅子舞をこの福田村でも、その頃早魃(かんばつ)や水害などの天災や疾病などが相つぎ悩んでいた人達は、部落の荒神社(稲生神社)ゆ獅子舞を奉納し、五穀豊穣・部落繁栄を祈願したものと伝えられている。
 以来毎年10月1,2日の神社の祭礼のとき、村の若連中により一ヶ月前から代々厳しい訓練を受け継承されたもので、その年に12歳になる(当時疾病で一番多く亡くなったのが12歳であると言われている)男の子の中から選抜されて、太鼓打ちとなった子どもは非常に名誉であり、バチの持ち方、足のはらい方ひとつにも、叱声やムチが飛ぶという厳しい訓練にも耐えて、その年の祭礼の日には聖なる神童として大切にもてはやされた。
 文久3年(1893)ね新しい獅子頭を部落の長老たちが伊予へ購入に行きねその船が福田の沖へ帰り着いたとき、鐘を打ち鳴らして部落の人達みんなで港へ迎えに行ったといわれ、その頃から一層この獅子舞は盛んになったと言われている。
 昭和29年に竹原と合併し、以来福田の祭事であったこの獅子舞が広く竹原の獅子舞として紹介され、一頭の獅子と二人の太鼓打ちの構成もこの頃から倍加し、基本の型も固持しながら次第に華やかさを加えて来た。
 昭和47年に保存会を結成し、ともすれば消えようとする郷土芸能を大切に保存継承している。特に牡丹の花笠を冠った稚児姿、可憐な少年の32通りに打ち分ける太鼓に合わせて獅子がたわむれあそぶという舞姿は可憐で高雅な感じである。
 昭和52年4月24日に県無形民俗文化財に指定される。


 令和3年度においては獅子舞・巫女舞・神輿の巡業がコロナ感染予防のため中止となった。

 干潮時に陸続きとなった「龍島(りゅうじま)」を訪れた際に吉名町の海岸沿い最西端の地に初めて足を踏み入れた。その場所は瀬戸内コルフリゾート沿いの道路から西へ反れて海岸沿いまで南下するルート。(下地図の赤矢印)こから小川に架かる橋を渡って更に西への道が存在したが通行止めで断念。
 この場所からの「龍島」は息をのむ絶景!!(2022/04/17撮影)
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 瀬戸内東亜煉瓦跡地からゴルフリゾート敷地沿いを北へ向かう途中を左折。
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 突き当りを左折して最西端の海岸沿いへ直進。
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 岸壁へ到達。遥か彼方に陸続きとなっていた龍島が見える。
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 岸壁沿いを東へ戻れば龍島へ渡れる砂浜まで行けそうだ。
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 北東方面はソーラー発電ヤードと瀬月内ゴルフリゾート。
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 真下には大潮時の干潮で広大な姿を現した干潟。
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 海岸沿いを西へ向えば映画「ズッコケ三人組~怪盗X物語~」のリーフレット撮影ポイントまで行けたのだが、その場所を知ったのは後日。再び大潮にならないと到達できそうにない。
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 こんな絶景ポイントが竹原にあったとは・・・。
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 この穴場中の穴場といえる絶景撮影スポット、大潮の干潮時にしか龍島へは上陸できないが、普段は人が訪れそうにないので新たな私の「癒しの場」のひとつにしたいのだが、この日に訪れた時は係留されている漁船の所有者とみられる?人が乗っている軽自動車が通行止めの橋手前に停められていた。

 保存地区エリアから少し外れた田中地区に鎮座する地蔵尊。愛読書『たけはらの神仏を訪ねて』(著:神野勝)によれば俗称は「田中礒田」なのだが、その地蔵尊らしからぬ名称の謂れについては特に書かれてはいない。
 場所は道の駅から三原方面への県道75号沿いで、本著書の解説では地域住民が生活水として共同利用していた古い大井戸を枯渇から守る水引地蔵であり、昭和60年代に井戸が埋め立てられ、道路の拡充にて現在の場所へ移転したものと思われる・・と読み取れる短い内容であった。

 その地蔵尊が祀られた祠が矢印で示した場所にある。(2022/03/25撮影)
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 現在は歩道脇のゴミステーション脇となっているが、埋め立てられた共同大井戸があった場所と、ここへ移動する前の祠の場所は元々は何処であったのだろうか?
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 大井戸が埋め立てられる60年代より前に発行された昭和55年の住宅地図を細部まで確認してみたが、県道が貫く前の路地沿いにはそれらしき土地は無さそうであった。また、俗名が「田中礒田」であることから田中地区全域について地蔵尊「礒田家」も探してみたが見つからず、「田中礒田」の謂れや井戸と地蔵尊の元の場所についての手掛かりは得られなかった。

 昭和60年代に大井戸が埋められ、後に現在の場所へ地蔵尊が移動されたとのことで、多量の「蔵出し写真」を探ってみたところ、最古のものでは以下の2001年に撮った写真1枚に祠が写っていた。(祠と土台は現在のものとは異なる)撮ったのは県道が貫く前の路地なのだが、その祠は既に現在の場所であった。(地前の理容金本は現在は県道になっている)
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 この古い写真を写してから21年が経過、この時は電柱がある石畳が敷かれていない昔のままの路地であった田中地区を散策していた際に、レトロな散髪屋の青白赤サインポール看板が目に留まったって撮ったものである。その後、この辺りを県道75号が貫くとは・・・その計画さえも知らなかった。もしかしたら大井戸が埋められたのはその計画があったからかもしれない。

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