安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2022年06月

 (仮称)竹原中央緑地広場の向いにあった「NECマイコンショップ パソワード」はいつ頃、閉店したのだろうか?(2022/05/29撮影)
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 この建物がパソワードであったのを知ったのは先月だった。
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 その隣りの建物には餃子楼大学2Fから移転した英語塾。
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 ここがパソワードだったことが分ったのはこの窓の貼り紙。(2022/05/15撮影)
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 だが、閉店が平成なのか令和なのかが分からない。
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 営業されていた写真はこの2枚しか見付けられなかった。旧型の「NEC」ロゴとカラーの看板。隣りは天満屋竹原店であった。(1996/01/06撮影)
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 NECパソコン全盛期の頃。Windows95とUSBが話題となっていた頃だ。この写真を撮った頃の店名が「NECマイコンショップ パソワード」。その後「マイコン」は死語となったので「パソコンショップ」に変ったかもしれない。
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 隣りの天満屋、ギフトショップ店として「福屋」と「そごう」が在った頃。(1996/10/11撮影)
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 現在、パソコン関連の店は竹原に何件あるのだろうか?高度な専門知識と修理技術を要する修理専門店が青果店「よしなが」の隣りにあるのは心強い。

 入梅前の晴れた日曜日、久しぶりに根古屋でランチ。

 前回食べた「紅焼牛肉麺」の味が忘れられず、とうとう我慢がしきれなくなり、今回は夫婦で訪れた。(2022/06/12撮影)
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 到着時、何となく前回とは違う落ち着いた雰囲気。
#02
  
 今回の注文、私は訪れる前から紅焼牛肉麺と台湾茶、食後は台湾カステラと決めていた。
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 先ずは台湾茶、今回選んだジャスミン茶が運ばれてきた。

 職場の知人が根古屋のリピーターになったようで、この給茶ポットを自家用に通販で買ったと聞いた。それがトリガーとなって紅焼牛肉麺の味を急に思い出してしまい、今回の日曜日は根古屋でのランチとなった。
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 本日の紅焼牛肉麺は「パクチーのせ」が選べるとのこと。
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 刻々と複雑に変わる香辛料の香り。柔らかくて風味豊かな牛肉。刀削麺のもちもち食感。濃厚でありながら飲み干せる独特のスープ。
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 家内は一人で何度か訪れている。今回は甜品セット(ドリンク付き、デザートをプラス)を注文。
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 紅焼牛肉麺にプラスで頼んだデザートの台湾カステラ(ハーフ)。
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 食事後に気が付いたのが暖簾の落ち着いた色。
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 オープンからこれまでは白地だった暖簾が掛け替えられていた。(2022/05/0撮影)
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 ランチの後は照蓮寺前の猫の群たちと戯れようとしたが工事中。・・・残念・・・
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 普段であれば猫まみれ。(2022/05/22撮影)
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 本日、竹原も入梅となったようだ。昨年の豪雨災害による傷跡、町並み保存地区を含むこの周辺は床上浸水の甚大被害となったが、竹原市内の至る所では復旧工事が現在も進行中。

 本日、大井地区宿根の知人から以下の貴重な書籍を譲り受けた。一冊目は『たけはらの神仏を訪ねて』(著:神野勝)もう一冊が『芸州竹原 旧下野村大井郷史』(著:大井郷土史研究会)(2022/06/13)
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 一冊目は著者の知人から無期限で借用中の愛読書と同一書籍なので、これで後ろ髪を引かれることなく返却ができそうだ。

 もう一冊は竹原書院図書館にも見掛けていない超貴重本。『竹原聞きある記』を買った古書店でも売られており、国立国会図書館にも所蔵されている。
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 本書を譲り受けた知人の御主人が、宿根の「たたら遺跡」調査関連で著者より贈呈されたものらしい。納屋の整理中に竹原関連の書籍が2冊見付かったとのことで、私が所有を引き継げることになった。
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 目次
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序文
はじめに

第一編 大井地域の概要
 第一章 大井地域の立地と気候
  1.大井郷の位置
  2.気象状況
 第二章 大井辺りの自然環境
  1.有史以前の瀬戸内について
  2.大井郷や周辺の自然環境の変容
 第三章 周辺地域の江戸時代までの歴史的背景
 第四章 郷内及び周辺各所に残る古くからの呼称の例示

第二編 農業・経済関係
 第一章 歴史的概要
 第二章 農業関連事項
  1.主な産品
  2.今次大戦後行われた農地改革について
  3.大井灌漑水利権について
  4.往古の農作物について
 第三章 商工業
  1.地元営業主
  2.外部営業主

第三編 交通・高圧送電線関係
 第一章 道路
 第二章 鉄道
 第三章 高圧送電線

第四編 厚生関係
 第一章 各種公共施設について
  1.消防
  2.警察
  3.学校
  4.農業協同組合のあゆみ
  5.公民館
  6.諸石碑について
 第二章 大井区有林について
 第三章 衛生・医療関係
  1.概要について
  2.今までの医療施設
  3.「手記」原爆の日の記憶

第五編 文化的遺産・事蹟
 第一章 神社
 第二章 観音さん
 第三章 寶泉寺
 第四章 お地蔵さん
 第五章 主な年中行事
 第六章 伝承・伝記など

第六編 古文書類と関連事項
 第一章 戊辰戦争従軍手帳について
  1.戊辰戦争従軍の足跡
  2.神鬼隊員実藤兼助氏の従軍手帳記載内容
  2.元浅野藩士寺西安之居一統の当地在住について
  3.『古宮(磯ノ宮)由来記』(寺西安之曰く)について
  4.古文書「大井谷由来記控」
  5.西南の役以降の戦没者名簿(旧下野村関係抜粋)について

第七編 補遺
 1.製鉄(たたら)遺跡の学術調査開始
 2.大井谷出土の弥生式臺型土器について
 3.深山山中の宝筴印塔と五輪塔及び幻の山寺などについて
 4.朝日山山頂で見つけた自然石への刻字について

【巻末添付書類】
 1.竹原地域自然災害の年表(慶長十五年~平成六年)
 2.大井の昭和時代の年表
 3.大井の平成時代の年表

あとがき

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※項番の重複や固有名の漢字はそのまま転記

 発行日は平成12年(2000年)前述の『竹原聞きある記』と同一の印刷所であり、製本様式が近似していた。
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 本日、ブログを書く前に粗読みしてみたところ、謎のままだった「仏石」についての情報が僅かであるが得られた。「大井」(旧下野村)とは大井郷と宿根地区および築地地区であること。

 また、大井地区の氏神様「九郎神社」の詳細な謂れや、馬場病院の歴史、製塩業に次ぐ製鉄業で栄えていたこと、礒宮八幡神社は下野村多井(大井)から1658年に遷宮など。

 他に、地域内の地蔵尊や観音様についての謂れも興味深い。

 以上、本編の内容以上に驚いたのが、「あとがき」の大井郷土史研究会員の集合写真の中に見覚えがある方と思われる22年前の笑顔が見られたこと。

 昨年に続いて今年も礒宮八幡神社から「夏越祭(なごしさい)のご案内」が届いた。(2022/06/07)
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 週末からだろうか。一般民家や店舗の窓や壁に夏越祭ポスターが貼られていた。(2022/06/11撮影)

 照蓮寺近くの民家の窓ガラスや壁には縦型。
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 日本橋通りの工務店や精肉店の窓ガラスには横型が。
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 そして礒宮八幡神社の掲示板も夏越祭へ更新されていた。(2022/06/11撮影)
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 開催は6月20日(金)の18時から神事が始まる。人形(ひとがた)と車形(くるまがた)に氏名やナンバーを記入して擦り、初穂料を添えて受付へ納めてから境内の茅の輪くぐりへ。その後は拝殿内での神事と境内での御焚き上げに参加。
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 夏越祭の開催は曜日に関係なく毎年6月30日。茅の輪くぐりは夏越祭の前後日にも参加できるようだ。秋の例大祭は昨年もコロナ禍で中止となったが、今年の開催予定については御焚き上げ後の挨拶にて告げられるであろう。

 塩町4丁目のメガソーラーを下見に訪れた際に一般民家の玄関横に立てられた案内板に目に留まった。「竹原塩田9番浜跡 この先250m」と書かれており、メガソーラー沿いに250m進むと「塩田跡」が観られる場所があるらしい。ここはこれまでに何度か通っているが、目に留まったのは今回が初めてであった。(2022/06/06撮影)
#01
 
 「竹原塩田の跡」が残されていことは知らなかった。「道の駅」で買った『塩が育んだ文化の町 竹原 増訂版』(竹原郷土文化研究会/令和元年発行)を見返してみたら、62頁に「現存する塩田遺跡」として写真と実測図が載せられていた。見学が可能か否かについては書かれてはいなかったが、「この先250m」の案内板があるならば・・・と、実際にその場を自転車で訪れてみることにした。

 竹原駅から塩浜踏切を渡って江戸堀沿いに現場へ向かう途中、いつもの釜屋跡の煙突が見えるのだが、ここからは私有地なので近寄れない。もしかしたら「竹原塩田9番浜跡」とは、この煙突がある場所なのだろうか?(2022/06/07撮影)
#02
 メガソーラー沿いに江戸堀方面へ向かうと道路が行止りなのだが・・・・
#03
 ここから左へは住宅街になるので、真っすぐ進めば良いのだうか?
#04
 草むらが整地されたような道は自転車ならば走れないことも無い。先へ進むと何かの看板が立てられていた。
#05
 ここは自動車を停めて見学するための駐車場であった。どうやらあの「煙突」手前までは「特別な許可」が貰えなくても徒歩で行けるようだ。この看板、かなりの経年変化であることから、「竹原塩田9番浜跡」はかなり前から見学ができていたことになる。一般には知られていないのか、私が知らなかっただけなのか・・・・。
#06
 自転車を押して江戸堀の手前まで行ってみた。
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 塩田跡と言っても汚れた池と釜屋の煙突しか見当たらない。
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 南側にも池があり、これも塩田跡地であり10番浜の区画であろう。その対岸には新たな住宅が建設中であった。
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 塩田廃止となる直前は流下式製塩であったことから、釜屋近くのこの池に鹹水が溜められていたのだろう。
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 それでは、これまでは対岸からしか眺められなかった釜屋の煙突下へ。
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 未踏だった江戸堀の西沿い側も一部自由に歩けたのであった。
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 この煙突から先は私有地とのことで、近寄るのはこの辺りまでにしておこう。
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 煙突に気を取られて気が付かなかったが、江戸堀沿いに「竹原塩田9番浜跡」の説明パネルが設けられていた。
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 説明によれば、この解説パネルは「竹原郷土文化研究会」によるもので令和2年2月のもの。ここは塩業遺産として遺されていた遺産的な場所であった。この池はやはり鹹水を溜めるためのものであった。
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 ここは「絶景」というよりは「秘境」としておこう。
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 10分程度滞在して帰宅したが、ここに来るまの路上からも「竹原塩田9番浜跡」が見える場所が何ヶ所かあった。立入禁止手前まで訪れてみたが、この辺りも「竹原塩田9番浜跡」の区画のようである。
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 竹原が塩田として栄えた歴史を学童へ学ばさせるには、吉名町の流下式製塩所とここをセットで見学させる必要があろう。

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