安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2022年07月

 チケットを購入してから2ヶ月が経過、本日は待ちに待った竹原市民館での映画『吟ずる者たち』の上映日である。本日で2度目の鑑賞となるが、私の場合は竹原市民館での映画鑑賞は初めてであり、上映終了後には油谷誠至監督の舞台挨拶も予定されているので、東京銀座TAUでの監督&市長トーク以来の生での観覧もできることから価値があるイベントである。
 午前の開演開始は11時、市民館へは10時過ぎに到着。出入口にて検温を受け、チケットの半券を切り取られて市民館のロビーへ入った。(2022/07/31撮影)
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 ロビーにはホール口脇に『吟ずる者たち』各種グッズと「若竹」のクッキー販売コーナー、南側には映画のポスターと撮影風景写真の展示パネルが立てられてた。イベントスタッフへ映画ポスター前での記念撮影ができることを確認して写真を撮った。
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 グッズ販売コーナーでは映画パンフ、「吟ずる者たち」題字入りの前掛けと手ぬぐいや油取り紙、「若竹」の各種クッキーが販売されいた。パンフレットと油取り紙は、昨年11月9日に東広島ジョイのシネコンでの鑑賞時に買っているので悩んだが、右脇奥に目をやるとソファーに見覚えがある人物。それはパンフレットの束にせっせっとサインをされている油谷監督の姿であった。今回販売のパンフレットは全て監督の直筆のサインが入っているとのことで購入を希望した。
 その際に販売スタッフへ東京銀座TAUでの話をするとサイン中だった監督まで案内をして頂けた。監督からは本フログへの有難い応援メッセージを頂いていたが、今回が初の直接顔合わせによる御挨拶となった。

 ホールへ入る前に販売コーナーにて直筆サイン入りパンフと手ぬぐいを購入。
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 市民館ホールへ入ったのは何十年ふりだろうか?成人式以後ではシオタで貰ったチケットで観た芸能人(誰だか忘れた・・)の歌謡ショウと、親戚の子のバレエ発表会かピアノの演奏会で訪れたような記憶がある。
 映画はもちろんだが監督の挨拶等も写真に収めるのはNGだろうから、ホールに入った「証し」として舞台のスクリーンと舞台袖を撮っておいた。
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 11時定刻にブザーが鳴って午前の上映イベントがスタート。先ずは主催者による挨拶の後に、津軽三味線奏者の田岡隷山さんによるソロ演奏が披露された。

 津軽三味線を生で聴くのは、青森県弘前市への出張にて居酒屋で打上げをした際に披露された座敷での生演奏以来である。津軽三味線を聴く際には「拍手をするタイミング」がある事は知ってはいるのだが、今回の演奏での小音から徐々に音量が増して高音による激しいバチさばきが連続したタイミングになっても拍手は無かった。自分でもイザとなると、どこでどう拍手をして良いのかが分らず、誰かが拍手を始めるのを待ち構えてはいたのだが・・・。

 ホール内を見回したところ観客はコロナ感染予防策の1つ分席明けをして8割程度であった。津軽三味線の演奏が終了するとホール内の照明が徐々に消え『吟ずる者たち』の上映が始まった。
 1度目の鑑賞では気付けなかった重要なシーンとセリフが、2度目では平行で進行する過去と現在のストーリーに散りばめられていることが分り、1回目では竹原でのロケ場所シーン探しをしていた自分が恥ずかしくなった。本映画では「百試千改」がテーマ的なキーワードであったが、今回のセリフでは「この子はこまいけん、腹一杯食べさせて大きくしてやらんといけん」が軟水での酒造りの重要なヒントとなっていることに気が付いた。
 竹原でのロケ場所探しはどうても良くなり、クライマックスではマスクに涙が滲むほどにジワリと心を打った。上映時間は約120分、上映中に市役所で鳴らされる正午のサイレン音と救急車のピーポー音が微かに聴こえてきたが、ホール内においてはスマホやLINE着信音などは一切聞こえてこなかったのは予想外にスゴいことだ。

 エンドロールが終って拍手ののちに場内ライトが明るくなると、先ずは特別ゲストの今榮市長による挨拶。市長は監督のことを「あぶさん」と呼ばれるお互い親しい仲であった。市長も2度目の鑑賞とのことで2度目は深く感じるものか多数あったとのこと。
 そして油谷監督の舞台挨拶では撮影秘話などが市長やエキストラ出演もされた主催関係者を交えてのトークとなった。過酷なロケと豪雨災害やコロナなどによる資金難の話、監督は事前準備を隅々まで済ませることで撮影現場では俳優やスタッフへは大声で指示するようなことはしない方針であることを話されていた。

 これはトーク終了のロビーの様子。出入口では監督自ら来場者へ挨拶をされていた。名残り惜しいが竹原市民館での『吟ずる者たち』の上映イベント参加はこれで終了。
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 これは油谷監督がロビー脇のソファーでサインを書かれていたパンフレットの表紙を捲った1頁目。1回目の鑑賞で買っていたパンフレットと一緒に並べてみた。
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 これは今回買った「吟ずる者たち」の題字が書かれた手ぬぐい(半分折り)と、1回目に買った「油取り紙」のパッケージである。特製の前掛けは既に「龍勢」を持っているので今回は見送った。
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 市民館内で「追花心」や「吟ずる者たち」ラベルの吟醸酒が売られていればとプレミアム商品券の束を持参したが、それ用にと購入した共通券のうち5枚は壁掛け扇風機の買い直し(5年酷使したものが昨日とうとう完全に壊れた)に使ってしまった。

 最近、太田裕美関連のテレビ番組や動画サイトを偶然に視る機会が増えている。太田裕美は私の青春時代そのもの。竹中時代はビートルズにハマっていたが、忠高時代はそれに太田裕美が加わった。私が太田裕美に興味を持ち始めたのは高校2年の1976年。イントロが無い歌謡曲「赤いハイヒール」をテレビ番組で聴いてからだ。イントロが無いビートルズの「All My Loving」は聴き慣れていたが、歌謡曲では衝撃的であった。歌番組ではオーケストラとタイミングを取るためにドラム・スティックのカウントで始まるのである。
 その後の曲も他のアイドルとは違ってピアノの弾き語りや、歌謡曲というよりはニューミュージックへの黎明的な曲が多く、今考えれば太田裕美というよりは作曲・編曲者に興味が魅かれたようであった。

 竹中3年になってスズヤ楽器店で親に買って貰ったモーリスのフォークギター。キハラ楽器店で買った楽譜を見ながらいつもビートルズを弾いていたが、高3時にコロンビア製の電気ピアノもスズヤで買って貰えたので太田裕美の曲が加わった。

 これは高3当時、キハラ楽器店で買った太田裕美の楽譜本である。
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 これを買ったのは1979年8月3日水曜日。字の癖と汚さは今と全く変わっていない・・・。
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 購入日は記入していないが 「9月の雨」が流れていた頃なので1977年にキハラで買ったと思われる。
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 その当時のキハラ楽器店の写真は当然だが無い。だが、営業当時の写真と移転?後に残された店舗とアーケードの吊るし看板の写真はある。(1997/04/28、2002/08/xx撮影)
19970428a
200208xxa

 キハラついでにキハラで買ったビートルズの楽譜本もいくらか現存しているので紹介する。

 これら2冊は1974年頃と思われる。竹中2年時に卒業式の予行演習で「LET IT BE」を初めて聴いて買ったのを覚えている。
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 これらは高1かも。
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 そしてこれは高2頃かも。
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 ビートルズの楽譜を倉庫で探していたら竹小と竹中で使っていた音楽の教科書も出てきた。

 先ずは竹小6年生時の本。(1971~72年使用)
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 この教科書で好きな曲は以下2曲。

 アメリカ民謡だったとは・・・・。
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 これはビートルズの「ミッシェル」のような音楽技法のクリシェが使われていた。
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次は竹中1年。
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 お気に入りの1曲目。「風のように馬を駆り・・・」。児玉先生の顔が浮かんできた・・・。
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 2曲目は「テデレコデン」。
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 そして竹中2年生も。
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 お気に入りは音楽室にてレコードで聴いたパイプオルガンの曲。
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 もう1曲は雅楽のこれ。かなりアレンジされていて原曲らしさが無かった。
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 教科書と一緒に1970年~1980年代初期に買っていた雑誌の唄本(フロク)も多量に見つかったので紹介する。80年代物は私は買った記憶が無いので弟かもしれない。

1974年「明星」8月号付録。表紙は山口百恵。
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1975年「明星」9月号付録。表紙は野口五郎。
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1975年「明星」7月号付録。表紙は郷ひろみ。
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1975年「明星」10月号付録。表紙はずーとるび。
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1975年「平凡」1月号付録。表紙は山口百恵。
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1975年「平凡」2月号付録。表紙は野口五郎。
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1976年「明星」10月号付録。表紙は桜田淳子。
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1978年「明星」2月号付録。表紙は世良公則。
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1978年「平凡」6月号付録。表紙は世良公則。
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1983年「明星」6月号付録。表紙は堀ちえみ?かな?
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1983年「明星」7月号付録。表紙は薬師丸ひろ子。
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  1970年代の唄本には所々切り取られていて分からない部分があるのだが、なぜか太田裕美の曲は切り取られてはいなかった。また、83年の本にはあの竹原ロケ映画「時をかける少女」(唄:原田知世)がギターコード付きで載っていた。

 これの楽譜本、音楽の教科書やアイドル雑誌の付録を捲って見ていると、40年以上前の当時の想い出が色付きの映像と音声で浮かんでくる。

 吉名町の郷川沿いに墓地と寺院がある。近隣に住まわれている方々から訊けた話では竹原にある西方寺の分院とのこと。竹原の西方寺といえば普明閣を含む観光スポットでもあり、これまで各種資料で歴史等を調べていたが、西方寺に分院が存在していたことを初めて知って驚いている。
 
 吉名小学校の交差点から東へ向かって郷川に架かる橋(郷大橋)を渡ると左手に密集した墓地がある。その墓地の脇に石段があるのだが、山門も無く寺院らしき建物でもないことから以前から気にはなっていた。(2022/07/26撮影)
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 石段の左脇に立て看板があり、写真では鮮明ではないが拡大してみると柱に「西方寺吉名説教所」と書かれていた。この初めて聞く「説教所」とは何であろうか?
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 参考までに西方寺吉名説教所の場所(赤矢印)を示す。池田勇人元内閣総理大臣の実家に近い。
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 西方寺吉名説教所についての資料はネットでは殆ど見つからず、竹原書院図書館の郷土資料紹介における「池上彰と学ぶ日本の総理3 池田勇人」に名称が載っている程度であった。

 聞きなれないこの「説教所」は、浄土真宗大辞典によれば「宗教法人法に縛られることなく、布教などの宗教活動を行うことを目的とした施設」であり、「一般の建造物に仏像を安置し、定期あるいは随時に布教を行う場所が説教所である。」と書かれていた。

 愛読書「たけはらの神仏を訪ねて(著:神野勝)」においても竹原の西方寺が本寺で吉名分院である程度の掲載で、賽銭箱が無い寺院の本堂には見えない古民家風の建物と、その玄関脇にある「旅立ちの法然さま」と彫られた立像の写真が載せられており、御本尊は阿弥陀如来と書かれていた。

 石段下には2,3台停められる駐車スペースがあるが、彼岸時期に墓参り客が停める程度で、普段は郷川沿いの狭い道の離合場所になっている。

 酷暑到来!!NHKの朝の天気予報、広島県の予想最高気温は35度。午後は外出するのが嫌になる程の快晴、背中に陽射しを浴びると、まるで1000Wのドライヤーを挿し込まれたような暑さ。竹原の気温は風通しの良い高崎洞門の近くで測られているせいか、他の市町村よりも測定気温は比較的低いのだが、北崎、吉名の国道185号線にある国土交通省の気温計は、天気予報の広島県予想気温と大差ない。
 本日は、昨日までとは明らかに異なる入道雲が県北辺りの上空にわき出ていたので、仕事から帰った18時頃にその様子を写真に撮っておいた。(2022/07/28撮影)
 場所は東洋コルクの国道432号バイパス工事辺り。昨日までは走行中に窓を開けてればエアコンを消しても快適だったが、本日は風呂上りにドライヤーを浴びているるような熱風が吹き込んできた。
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 帰宅後にアイスクリームを食べても熱さは引かない。明日も仕事なのでビールは飲めず、思い出したのが「生協ひろしま」で買ってくれていた「広島レモンサイダー」。生産数が少ないのか売れすぎて品薄なのか抽選販売扱いだったらしい。数本が食器棚に収められていたが、冷蔵庫から1本冷えた瓶を取り出してくれた。
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 この「広島レモンサイダー」は、帰郷前までは東京銀座のTAUで買い込んでいたが、帰省時にも道の駅でやスーパーなどでも買っていた。生協で買わなくても現在も市内のどこかで売られているに違いない。
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 なぜ、「広島レモンサイダー」にこだわるかと言えば、生レモン味の爽やかさに加えて、販売者が忠海に本所がある広島県果実農業協同組合連合会(愛称:JA広島果実連)だからである。
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 忠海港の桟橋とアヲハタの中間にあるこの建物。アヲハタ関連の建物に見えてしまい目立たないが、忠海高校のカーブにダンボール工場もあり、地元では広果連で親しまれている。(2009/08/07撮影)
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 天気予報では、広島県の明日の予想最高気温は36度、竹原市は前述の観測場所のせいか34度と比較的低い気温。なぜか暑い日に限って夕刻のお好み焼き屋が満席となる竹原、熱いお好み焼を頬張りながら生ビールを一気に飲んでいるに違いない。明日もビールは飲めないので私はアイスクリームと「広島レモンサイダー」になりそうだ。

 「日の丸写真館」がある新町のアーケード通り。その向いにもアーケードがあり、そこには思い出深い「山陽書房」があったので、これまで撮った写真は「山陽書房」跡の看板や閉じたままのシャッターばかりだった。今回、「住吉まつり」の軽トラ神輿巡行を探しに新町まで訪れた際、ふと目に留まったのが「キヨーレオピン」と書かれた店舗跡。(2022/07/24撮影)

 これまで「見えていても見えなかった」このレトロな看板、ここは何の店舗だったのだろうか?
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 その店舗跡には「ぱれっと」跡と「市川印舗」に挟まれた建物の壁には取り外された看板跡がある。昭和56年から平成13年までの古い市街地図には「やまだ薬局」となっており、令和2年では空欄になっていた。アーケード下の看板を拡大してみるとアサガオの葉の隙間から見えるのは「やまだ薬局」と読めなくもない。帰郷してからもこのアーケード下を通った際に全ての看板を撮った記憶があるのだが、「キヨーレオピン」同様に気に留めていなかったようだ。
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 「キヨーレオピン」が何かの薬であることは知っていたが、何に効くのかまでは知らず。調べてみると疲労改善・滋養強壮の効果がある第3類医薬品であることが分った。だが、薬局名そのものを掲げずに滋養強壮剤の薬品名の看板がある店舗は珍しいと思う。昭和時代はこれが普通だったのだろうか。

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 これまで気に留めていなかった新町の「やまだ薬局」。その為、「蔵出し写真」を探しても被写体として撮った写真は皆無であった。殆どが「山陽書房」跡の看板が遺されているかの確認で撮ったものであり、「やまだ薬局」が写り込んでいた写真を以下に紹介する。

 先ずは最古の写真。アーケード下に吊るされた「やまだ薬局」の看板が確認できた。(1997/04/28撮影)
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 次は「くすり」と書かれた看板がある。(2004/05/05撮影)
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 創建ホーム(旧福屋)の交差点空き地に掛けてあった地図。赤矢印で示した場所に「やまだ薬局」と書かれている。この地図は「イズミ」や「山陽書房」が有るので、かなり古そうである。(2004/05/05撮影)
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 それから6年後の写真には外灯に「やまだ薬局」の看板が取り付けられていた。「キヨーレオピン」の文字と色パネルが見える。(2010/05/01撮影)
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 新町の「やまだ薬局」は、手持ちの市街地図では令和2年版では空欄になっていた。どこか別の場所へ移転されたのだろうか?ネット検索してみると「株式会社やまだ薬局」が法人リストに見つかったが、新町に在ったこの「キヨーレオピン」の「やまだ薬局」が「株式会社やまだ薬局」となったのかは未確認てある。続きを読む

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