安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

2023年12月

 「えしま家」の店主と馴染み客とで黒滝山の初日の出イベントなどを雑談中、かなり前の事だが黒滝山の山頂真下にある観音堂に人が住んでいたそうだ。住んでいたと言っても僧侶や管理人ではなく、勝手に住み着いた不法占拠者であり、その後に観音堂は施錠されたとのこと。そのヤカラはどのように暮らしていたのだろうか?観音堂まで登山と下山を毎日繰り返していたのか?どう生計を立てていたのだろうか?

 ここ三年間、黒滝山の観音堂へは年に一度以上は訪れたが、一度だけ観音堂の扉が開かれており、堂内を拝見することができた。その際に境内(展望台?)を掃除しておられたのが観音堂の管理人だったのを思い出した。その管理人から聞いた話では、余程の悪天候でなければ冠崎から毎日定時刻に登山と下山を繰り返されているとのことだ。片道50分かかるとのことで、定時刻には鐘を鳴らして境内に吹く風と空の雲の流れ具合で雨が降るまでの時間も予測できるらしい。

 その不法占拠者の話と管理人との会話を思い出しながら忠海港の駐車場へ戻る際、観音堂の鐘の音が聞こえてきた。あの管理人か鳴らしたのか登山者なのか2個所から20倍ズームで撮影してみたが境内には人は居なかった。(2023/12/03撮影)

 山頂奇岩の真下にある建物右が観音堂、真ん中の建物は倉庫だろうか?その手前脇に沿って左へ行くと鐘撞堂があるのだが、地上からは屋根瓦しか見えなかった。
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 先ずは観音堂の境内から地上を望む美観。(2020年秋撮影)
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 今回、地上から観音堂にズームしてみた場所が以下の2箇所(忠海港入口と忠海駅脇コンビニP)。(2021年秋撮影)
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 先ずは忠海駅脇からのズーム。
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 鐘の音を聴いてから10分程度経ったが、観音堂の境内には誰も居ない。
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 次は鐘の音を聴いた直後の撮影場所。
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 ここからは鐘撞堂の屋根すら見えない。数分間撮影していたが人がいる様子はない。
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 考えてみれば今年は未だ観音堂を訪れていない。2024年の初日の出の御来光を黒滝山から拝んでみたいが、さすがにこの歳で暗闇の登山道をぞろぞろと一列に連なって登るのはかなり辛そうだ。さて、来年の初日の出は何処で観ることにしようか?

-以上-

 今年の夏に紹介した「三度霧」の伝承は一度目の宵の口の霧であったが、二度目の夜中の霧は未だとして、三度目の明け方の霧らしき気象現象を撮ることができた。前日の一度目とその夜中の二度目を確認していないので、これが「三度霧」である確証は無いが、今回は「賀茂川に沿って河口へと棚引く霧」という年に数度程度しか観られない幻想的な景観であった。(2023/12/06撮影)

 前日は一日中冷たい雨、時刻は晴天の朝7時過ぎ。東野町辺りから賀茂川に沿って濃霧が流れていた。
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 北から南へと霧が移動しているのが分かる程に流れが速かった。
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 霧は賀茂川の成井地区から来須地区を経て、馬場病院がある大井の山の隙間を跨いで天池方面へと棚引いていた。
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 本渡橋から。この日は田ノ浦から小梨町への山道も濃霧で視界不良だったとのこと。
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 大井の谷を抜けて下ってきた霧が国道185号を跨いて天池上に漂っていた。
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 宿根の伝承に書かれていた「朝日山まで、海原にあこがれて見に来たというおとぎ話は有名」に登場する「奥の竹林寺の小野篁(おののたかむら)についてネットで調べてみたところ小野小町の父との事。しかし「三度霧」については「・・・おとぎ話は有名」にもかかわらず該当する情報は皆無。小野篁と朝日山の関係については多々見つかるも、その朝日山は京都府宇治市にある朝日山であった。他には竹原山岳会による小野篁の生誕地である入野町の篁山への登山レポートぐらいしかない。

-以上-

 西方寺や普明閣が写真に撮られる場合、地上から見上げた西方寺の石段と山門や、普明閣の境内から見上げた舞台が定番アングルなのだが、敢えて「ひねくれた視点」で撮ってみると「新たな発見」があることも多々ある。今回は屋根瓦の上で一番目立つ存在でありながら、なぜか目立っていない「装飾瓦(鬼瓦)」について着目してみた。(2023/11/27撮影)

 装飾瓦を撮るきっかけとなったのは西方寺山門のこの鬼瓦。獅子なのか麒麟なのか?
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 先ずは普明閣の装飾瓦を撮れる範囲でズーム撮影。
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 真正面頂上。
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 典型的な鬼瓦。真正面と側面から狙ってみた。
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 何だか口と耳の中が赤い。
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 次は北側からのこの2箇所。
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 やはり口と耳の中が赤い!着色されているのか2色になるよう焼かれたのか?
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 続いて南側から。
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 ドローン撮影なら瓦の敷き方が分かるのだが、屋根の先端ではない場所にも鬼瓦がある。よく見ると先端のものとは顔が異なっている。
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 北面にも同様の鬼瓦。
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 次は西方寺の山門上。
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 頂上の手前には鯱と鬼の装飾瓦。
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 鯱の顔は見えないが鬼は普明閣のものと同じだろうか?だが、口や耳の中は赤くない。
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 西面の対は獅子だろうか?左足に獅子舞の布に描かれた模様と同じ彫り物。
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 反対側から見た顔では獅子であろう。でも獅子には角は無い。ならば麒麟か?
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 反対側の鯱で顔が分かった。
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 最後は東面の装飾瓦。
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 こちらは麒麟か?それとも獅子か?前足で倒立している姿が可愛い。
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 尾は4本?1本?頭には角がある。
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 反対側にて顔は分かる。
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 他とは違って角が無い。いゃ、眉毛ではなくて尖っていない角か?
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 山門の装飾瓦をズームで見た感じでは、近年に葺き替えられたのか艶も有って全く経年劣化していない。普明閣のはそれなりに劣化しているよで口と耳の中が赤色なのが「新たな発見」であった。

-以上-

行く当てなく辿り着いた日曜日昼前の忠海駅。(2023/12/03撮影)
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 久しぶりに待合室へ入ってみると外国人観光客向けの「大久野島への行き方(How to get to Okunoshima.)」パネルを見つけた。
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 英語、中国語と韓国語の3語混合型。
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 "Turn right at this sign"(この看板を右折せよ)。看板の丸枠写真は「大三島行フェリー乗り場」。あれっ?この看板まだ有ったかなあ?
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 実際に訪れてみると無い!たしか忠海港の待合室がリニューアルされた2020年夏に看板も取り替えられたのであった。看板を改めてよく見ると「大久野島(Okunoshima)」の文字が何処にも見当たらない。また、英語にも「Rabbit Island(うさぎの島)」としてだけ表記されていた。 
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 ちなみにガイドパネルの丸枠写真にあった看板が写った写真を探してみたら、まさしくこの「大三島行 フェリーのりば この先⇒」が見つかった。その横には今は無い「休暇村 大久野島 のりば竹原市・竹原市観光協会」の旧看板も立っていた。(2009年夏撮影)
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 そして2020年夏に両看板が撤去されて現在に至っている。興味深いことに出光GSも未だ旧ロゴだった。(2020年夏撮影)
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 逆に忠海駅の外国人向け「大久野島への行き方(How to get to Okunoshima.)」パネルには「うさぎの島(Rabbit Island)」の表記は一切なく、うさぎの写真と乗船券売場の説明に「兎の楽園 大久野島( "Rabbit Paradise" Okunoshima )」と書かれているのみ。本パネルが作られたのは、かなり前だったようだ。

-以上-

 今年の夏に撮った忠海の舟入堀に架かるJR呉線の鉄橋。他のサイトにて鉄橋名が「浜町川橋りょう」であることが分かったが、ならば内堀公園までの入江の名は「舟入堀」ではなくて「浜町川」であったことになる。そこで先ずは「舟入堀」を調べてみると固有名詞ではなく船着場がある水路(堀)の通称であった。
 元々、この内堀公園から県道までが「舟入掘」であったことから河川系ではないのだが、どこかに「浜町川」という河川名の痕跡がないかを各橋にて探ってみた。(2023/12/03撮影)

 先ずはJRの鉄橋。
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 常夜灯がある踏切名は「新田第2踏切」で、昭和時代の旧町名地図(本書の末頁)によればアヲハタ側は「徳浜栄町」で鉄橋の向こう側は「新地町」であった。しかし、この「新田」という名は地図には見当たらない。
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 これまで撮っていなかった「浜町川橋りょう」の銘板を撮影。
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 鉄橋名が「浜町川橋りょう」ならば国道185号の橋名は何だろうか?
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 残念ながらガードレール両端に橋名プレートは見当たらなかった・・・・。
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 内堀公園までの舟入堀は東堀。
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 東堀の末端には埋め立てられてしまった橋の欄干がある。
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 橋の西詰にある橋名は「栄橋」(右手)で、大抵は反対側(左手)に河川名があるのだが・・・
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 なぜか平仮名の「さかいはし」だった。
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 ならば東詰め側に河川名の漢字と平仮名があるはず。
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 あれっ?こちらも「栄橋」と・・
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 ・・・「さかえはし」だった。
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 この栄橋は「栄」から徳浜町に属していたのだろか?
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 昭和時代の地図を細部まで再度見直してみたら、舟入堀が埋め立てられる前の船着場だった狭い区画に「浜町」と小さく書かれていた。今週日曜に訪れた「お好み焼 えしま家」がある家並みが「浜町」だったのである。何の確証も無いが、この「浜町」を起点とする舟入堀は鉄橋が作られた昭和7年当時は「浜町川」と呼ばれていた可能性がある。色々と書いたものの推測の域を脱していないので、次回「えしま家」を訪れた際に店主へ「浜町」と「浜町川」について詳しく聞いてみることにしよう。

-以上-

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