No.2019.12.30

 思うがままに書いてしまい長文となって申し訳ない。

 毎年、師走の仕事納めを済ませると朝3時30分が冬季の竹原帰省スタートだった。首都高速の渋滞が始まる5時までには東名高速の海老名SAに到達して暫しの休憩。帰省土産をここで買って軽食を済ませ、ここで給油満タンにして次の休憩地点となる富士川SAまで巡航速度でひたすら前進である。この途中にラジオから流れてくるのがいつもラジオ体操だった。富士川SAに到着するとレストランが開く7時を待ってから朝食をとる。10時頃に浜名湖SAに到着、ここで1時間程度の休憩と気分転換である。そして11時頃に東名高速から名神高速へ入って、12時頃に養老SAで昼食と2回目の給油満タン。13時頃には吹田JCTから中国道へ流出する。この時点で出発から10時間が経過している。

 途中、大型ダンプに進路を遮られたり、あおり運転の遭遇にも慣れたもの。遮られそうなトレーラやダンプには違法出力の無線機が付いているので専用受信機で傍受していれば挙動と会話で相手が特定できる。殆どが「こちとら忙しいのによぉ、チンタラ帰省で抜くんじゃねぇや!い~りゃんさんしで、あ~らよっと~一丁上がり~」で抜きかけの車の右レーンにハンドルを切って遮っているのである。もちろん故意に暇つぶしでと気分転換でやっている。カモをワナにハメるため2車線に2台(無線連携)で並走したり、3台でコの字囲みまでする悪質なのが東名名神には多い。こんな輩には近づかないのが一番だ。追い越し車線で抜かさせろと喘いでいると後ろから追突されたりコの字に囲まれると危険度が増す。

 そんな時は早めに走行車線を遮る輩のかなり後ろへ回り、別なカモとなる対象車をひたすら待つのである。幸運にも高級車が迫ってくれば輩は一切手を出さないので追い越し車線の高級車に速度を同期させながら連れの車として抜き去る。庶民の車が遮られた時には予め十分に隙間を空けて置いた走行車線へ入れてあげれば良い。こちらは車間が詰められる事になるので追い越し車線へハンドルを切って危険回避として抜き去る。輩はカモが走行車線に入ったので再び遮るために速攻で戻っており、もう追い越し車線には何もいない。

 これで見事に抜き去れればバンザイなのだが、それで済む輩はそう多くはない。車が詰まってくると自車の前に再び割り込んで遮るのは確実。そんな時は走行車線を維持しながら敢えて輩を割り込ませてやり、ワザと困った振りをバックカメラで見せながらPAに差し掛かる手前でスッとPA内へ抜け出ればよい。輩がカメラに目を戻した時にはカモは消えて無くなっているのである。30分も経てばお互いにアドレナリンも減っているのでPAで30分程度休憩してから再び走行車線に合流すればよい。

 これはダンプやトレーラーの場合だが、普通車で煽る輩はタチが悪い。同様にカモを待っているので先ずはカモにされない運転を心がける。挙動不審な運転を見抜いて近寄らないよう予防線を張り、急加速減速、方向指示不履行、過剰な低速度維持、スモークガラスは特に近寄らない。遭遇した場合は抜き去るのはやめてPAへ逃げ込むのが一番。不幸にも後ろから煽られ始めたら巡航中のトレーラを探してその前に1台入れない程の間を空けて並ぶ。煽る輩が自車とトレーラに割り込もうものなら進路を遮られたトレーラーは警笛を鳴らす。自車の前に輩が入って蛇行や減速しても同様にトレーラーは危険に巻き込まれるため警笛を鳴らす。輩が自車の後ろにいても前にいても居場所は無くなるのである。もちろん輩が走行車線上で急停車したならドアが開く前に路肩から一気に抜き去るしかない。

 このような経験はなるべくは経験したくはない。昼過ぎには名神を抜けてしまい山陽道の三木SAで1時間程度の休憩をとる。まだ山陽道が無かった頃は七塚原SAで最終の給油を済ませ三好ICから竹原まで下りていた。山陽道が開通してからは福山SAで最後の給油満タンにして本郷ICか河内ICから竹原へ。竹原の国道2号線の河内分かれに到着するのは早くて17時、渋滞にはまると21時頃となる。よって出発から15時間から19時間で実家へたどり着くのである。

 ではなぜここまで苦労してマイカー帰省をするのか?もちろん運転が好きだからだが、竹原の隅から隅まで撮るためには何らかの足が必要であり、親戚や親を乗せて買い物に出かけたりと車なくては不便でしょうがなぃ。芸南観光がレンタカー事業をやっていた頃は台数が少なく、盆正月にはサービスも休み。この頃はETCカードを利用すれば3900円~1万円程度で高速道が使えていた。

 また長々と前置きを書いてしまったが、そのマイカーを映したフィルムが見つかったので再スキャンしたものを紹介する。車歴は中古で買ったスターレット1300ccに始まり、次が1500ccトレノでどちらもマニュアル式。渋滞にハマると足がつるので3代目からはATとなった。3代目はスープラ3000ccにしたかったがトヨタ店が相談に素っ気なかったのでその足で日産へスイッチ。そこで発売直前だった180SXの展示車に一目惚れして即予約、選んだカラーはなぜか血の色だった。たぶん手相で「赤いものに包まれていると幸せが訪れる」と言われたせいであろう。

 トレノでの竹原帰省は2回程度だった。開始の同僚が海島博へ行きたいということで3人を同上しての帰省となり、この時は朝6時に出発して竹原シーサイドホテルの到着したのが午前1時であった。翌朝8時に迎えに行ってその後はもう覚えていない。

 180SXが発売された時はシルビア全盛期であり、シルビアと同一のシャシでハッチバックのクーペが180SXであった。これで竹原に帰省すると外車扱いされて気恥ずかしかったが、3年経てば走りやアンチャン御用達の車種となっていた。信号待ちをしていると無理に競わされたり、法定速度で走っていても白バイが1台後ろに見え隠れしたのは日常茶飯事。180SXでの選択は有り得ないATだったせいか下手なMT車より加速が早いのか信号ダッシュは負けることは無かった。ターボやECUの故障も多く疲れ果ててたぶん5年乗って下取りしたと記憶。

 その下取りでの4台目がスカイライン2500GTSの4ドアセダンである。もう若くは無いのでターボではないのだが、180SXがおもちゃに感じるほど安定性とハンドリングに優れ、スカテラインによる竹原帰省が長らく続いた。白バイも付いてこないし、信号ダッシュも求められない。踏けば踏むだけ走るし、ドリフトも自由自在で実に快適な車であった。だがとある年の5月、巨大なゴルフボールサイズの雹に襲われたのである。隣りにハイラックスサーフがいたおかげで被害は左半分で済んだが、片側だけボンネットやルーフに北斗の拳でやられたようディンプルが無数。それからの竹原帰省ではSAスタンドに寄るたびに窓ふきスタッフに理由を問われるようになった。

 加入していた任意保険の車両保険でこの被害だけ優遇されたので5台目となるホンダのステップワゴンへ乗り換えた。ヒデブと化したスカイラインは15万程度で下取りだったと思う。産まれた子供を狭いスカイラインの後部座席のチャイルドシートに乗せると何も積めないので、もうスポーティーカー仕様は卒業である。

  もしかしたら他県ナンバーの真っ赤な180SXに乗るオヤジ、やたらに道に詳しく大福地橋や上条橋の直角クランクで煽っても追いつけない他県ナンバーでシルバーのスカイライン、狭い道を戸惑うことなく抜けて去る他県ナンバーでシャンパンゴールドのステップワゴンに遭遇した人が多数いるに違いない。それがママチャリを使う前の私である。来年の帰郷時にはこのステップワゴンにサヨナラを告げて地元竹原で軽自動車を買う予定である。ではその竹原帰省に使っていた3台を紹介しよう。どれも竹原での撮影である。

#01

#01:日産180SX 1800cc FRターボ ATハッチバッククーペ仕様による帰省

#02

#02:日産SKYLINE GTS2500cc FR NA ATセダン仕様による帰省

#03

#03:ホンダSTEP WGN 2000cc FF NAワンボックスによる帰省

  さて、6代目となる軽自動車は何にしようか。仁賀の坂を楽に登れて、田万里のトンネルも楽に超えられ、雪が積もる入野の峠もスイスイ行ける軽でなければならない。もちろん朝日山の山頂へも、的場で念願のバーベキューへも行ってみたい。