礒宮八幡神社の秋のお祭り、子供の頃はこの祭りを「祇園さん(ぎょんさん)」と親しく呼んでいた。竹原町の街を「蒲団太鼓(ふとんだいこ)」と子供神輿が練り歩き、街中の大人や子供が祭囃子や掛け声に酔いしれていた。蒲団太鼓や神輿が通るコースの軒下や塀にはしめ縄?(正式名不明:細い縄に等間隔で雷り状の半紙を下げたもの)が張られ、高い雲の青空に心地よい風が流れ始める季節であった。昭和の古き良き時代の竹原、この祇園さんと住吉まつりが最大の風物詩なのである。

 「祇園さん」がいつ頃から行われているかは分からないが、竹原市の資料では蒲団太鼓が登場したのは明治11年と推測されるとのこと。昭和時代も暮れとなると蒲団太鼓の担ぎ手が足りなくなって衰退してしまったようだ。「祇園さん」自体は続けられていた記憶があるのだが、ピンクレディーが登場した75年頃からは、街を練り歩く祭囃子も蒲団太鼓も見かけなくなった覚えがある。小学生の頃は子供神輿を担いでみたがったが、どのような参加資格や手続きが有るのかが分からなかった。

 その蒲団太鼓が平成9年(1997年)に復活したのだ。1998年元旦の夜中に初詣に礒宮を訪れてみたら神輿倉庫の横に真新しい蒲団太鼓が入れられた格納庫が建てられていた。この格納庫はガラス張りでほのかにライトアップされていた。
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#a01-a02:蒲団太鼓(1998/01/01撮影)


  この真新しい蒲団太鼓を見付けたことで、実家の親に聞いてみて初めて復活を知った。この礒宮は勝手知ったる遊び場だった。夏休みには旧蒲団太鼓が置かれていた広い倉庫でよく遊んでいた。鉄砲水で本堂が流される30分前まで石段で遊んでいたことや、本堂が崩れた土砂の中からご本尊の手を見付けて社務所へ持って行ったこと、徐々に蒲団太鼓が朽ちてゆき解体されるまで見届けた長い季節の流れを思い出す。

 蒲団太鼓が復活してから「祇園さん」が開催される時季には帰省することは無かったが、2014年の9月に法事で帰省した時、初めて懐かしい祭りを体験したのである。

 その2014年初詣でも、あの新調から17年が経過した蒲団太鼓を確認していた。2003年の6月に行われている夏越祭りに撮られた写真と合わせて以下に紹介する。特に3枚目に注目、新調した蒲団太鼓を竹原ライオンズクラブが寄贈した証が伺えるであろう。17年前の1997年、2003年、2014年と比較してみると経年変化は分かるのだが、朱塗りではない写真がある。もしかしたら2基あったのか途中で修繕されたのか。
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#c01-c03:蒲団太鼓(2003/07/15撮影)

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#b01-b02:蒲団太鼓(2014/01/01撮影)

  さて2014年の9月14日に復活した蒲団太鼓を訪れた時の写真を紹介しよう。担ぎ手は商工会議所青年部(ぶちぇぇ竹原)のメンバーと厄を迎える男性、小学生4人が乗り込んで太鼓を叩きながら、決められたコースを練り歩くのである。

 もちろんコースは調査済みだったので撮りやすい場所で待ち構えたり、ぐるっと回って戻ってくるのを待ったりできた。

 コースは礒宮出発、向島の路地を通って田中を抜け、享保町から竹小へ、地蔵町から地蔵堂前、町並み保存地区のメイン道路から胡堂、照蓮寺前から上市を抜け、番屋橋手前でUターン、西幼稚園横の照蓮寺Pで休憩、楠通りを抜けて渡逢橋を渡って榎木町を北上し、旧国道を新町まで戻って秋葉神社向かいから渡逢橋手前で観光駐車場から一冨士で西へ、新町交差点から郵便局へ抜け、ゆめタウン(Pで休憩)から御幸、竹高から中尾を曲がって・・中須・・皆実・・明神(休憩)でUターン、神田善太郎碑経由で御幸に戻り、ナフコ(Pで休憩)、あいふるから竹原駅、本川商店街、踏切を渡って黒浜・・・大石・・で礒宮へ戻る。歩くだけでもかなりの距離で相当疲れるであろう。

  ここで疑問がわいたのだが、2003年に弟からもらった格納庫の蒲団太鼓を撮った写真は6月の祭りでキャプションが「祇園祭」となっていた。その頃に礒宮の祭りが有った記憶は無かったのでイベント一覧を確認したら「夏越祭(なごしさい)」があった。新たに始まった祭りなのかもしれない。では秋の「祇園祭」は「祇園さん」なのか?「秋の例大祭」だったのである。昭和時代の「祇園さん」は秋だったが9月中旬から10月上旬の幅があったような気もする。この「例大祭」は9月の第三日曜日と決められているが、2014年に法事帰省で撮ったのは9月14日(日)で第二日曜日だったのである。ゴミ収集日のように厳格ではないようだ。

 話は反れたが「祇園さん」の名前は昭和生まれにしか分からない時代となった。では昭和の「祇園さん」がどのぐらい継承されているのであろうか。子供神輿は無くなったが、蒲団太鼓が復活して神社境内でも各種イベントが開催されている。そして「祇園さん」には欠かせないのが面を被った「きじん」「はなぼけ」「ひっかけばばあ」の3人衆。振舞い酒に酔って舟を漕ぐ櫂や割れた竹刀のような棒で地面をバチバチ叩きながら子供めがけて突進してくる。子供は悲鳴を上げながら逃げ回り、気の弱い子は親の陰に隠れる。気の強い子はこっそり後ろから叩いて逃げる。秋田男鹿のナマバケのような巨大面ではないが、トラウマとなるぐらい怖かった子もいただろう。嬉しいことにその「きじん」「はなぼけ」「ひっかけばばあ」が継承されていた。

 面も修繕または新調されたのか、昭和時代に不気味だった朽ちて色が剥げ落ちた面ではない。一度被れば神が降りて人が変わり、気を失うまで面が取れないぐらいの不気味さだった。この不気味さはもう無いが「うおーっ!」とくぐもった声で駆け寄ってくる迫力は当時のままであった。竹原町内では通じていた「きじん)」「はなぼけ」「ひっかけはばあ」だが、その名も未だ残っているのだろうか?「きじん(きしんとは呼ばない)」は「鬼神」で鬼の面、「はなぼけ」は「鼻ボケ(ボケ=ボケカス)」で天狗の面、「ひっかけばばあ」は「引掻け婆」で般若の面だと勝手に解釈していたのだが、どうやら違っていたようだ。

 この「例大祭」に登場するのは「鬼神」=蒼白の般若の面、「赤鬼青鬼」=鬼の面(豆まきのような面)、「天狗」=赤い天狗の面、そして獅子舞の「獅子頭」の計5体なのである。たぶん「はなぼけ」は「天狗」の俗称だったのだろう。だが一番怖かった「ひっかけばばあ」の存在がないのである。記憶していた般若面の「ひっかけばばあ」は実は「鬼神」だったのだ。「巨人の星」の主題歌冒頭の歌詞「重いコンダラ」、堺正章の「サヨナラ東海鬣(タテガミ)」状態で今までずっと「紙飛行機の推進力」のようにボーッと生きていたようである。

 

 それでは2014年9月に撮った蒲団太鼓と「鬼神」「赤鬼青鬼」「天狗」そして「獅子頭」を紹介しよう。
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#01-02:蒲団太鼓(2014/09/14撮影)

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#06,08:「鬼神」

 
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11
#03,11:「赤鬼青鬼」

05
10
#05,10:「天狗」

 
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#09:「鬼神」と「赤鬼」


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#07:「獅子頭」