2020.01.15
 竹原関連ブログならば神明掛町通りと久保町通りの角にある竹原電化の看板について何か書かない訳にはいかないだろう。ここは町並み保存地区圏ギリギリ外なのだが、まるで保存地区対象物件なのではと間違う程に時間が止まったままなのである。竹原の自然でやかな「時」の流れを感じたくて訪れた旅人の多くがここの看板「キドスカープ」に魅了されている。
 道の駅からの観光推奨ルートだと、栄町通りか享保町通りを抜けて笠井邸からスタートし、照蓮寺で折り返して、藤井酒造の酒蔵交流館から掛町通りを抜けて戻るので、ここを通る機会は少ない。旧日の丸写真館が目的か、製塩町ホテルへの宿泊、レストラン青での食事ならば確実にここを通るであろう。

 試しに「キドスカープ」でネット検索してみてほしい。殆どの結果が竹原電化の「キドスカープ」に関するものであることに驚くであろう。私のは場合は在りし日の「エイデン」シャッターに描かれていた光速エスパーへフォーカス・ロックしていたので、ここはそんなに写真を撮っていなかった。2010年頃から「何だか気になる存在」となって、その経過を時々見守っているのだが、塗り潰された電話番号だけが徐々に色褪せて晒され始めたことぐらいで、逆に看板自体は褪せるどころか彩度が上がっているように感じる。撮った写真は以下の1998年から2017年までの数十枚なので、その変化(していない様)をざっと眺めてみてほしい。(見え始めた電話番号はモザイク加工した)
#01
#01:竹原電化(1998/05/04撮影)

#02
#02:竹原電化(1998/08/09撮影)

#03
#03:竹原電化(2003/09/28撮影)

#04
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#04-05:竹原電化(2006/01/03撮影)

#06
#06:竹原電化(2011/01/04撮影)

#07
#07:竹原電化(2011/08/18撮影)

#08
#09
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#07-10:竹原電化(2013/01/03撮影)

#11
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#11-12:竹原電化(2013/12/31撮影)

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#13-19:竹原電化(2015/05/03撮影)

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#20-22:竹原電化(2017/05/03撮影)

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#23-25:竹原電化(2017/05/04撮影)

以下は自己満足の世界へ入っているのでわざわざ読まなくてよいかも。

 では「キドスカープ」とは?過去記事で少しだけ触れたが、これは日立のカラーテレビ用に開発されたブラウン管の愛称である。もう「ブラウン管」は死語だが、その時代に使われていた「チャンネルをまわす」とか「チャンネルをひねる」の表現はなぜか残っている。「巨大な真空管」と表現しても「真空管とは?」となるのでなかなか説明が難しい。
 テレビの仕組みを軽く説明したほうが良いのだが、もう過去の技術なので詳しく語るのはよそう。中から貞子が這い出して来るような分厚いガラス瓶の画面がブラウン管とでもしておこう。液晶テレビのパネルを拡大すると赤緑青の粒が1組で並んでいるのだが、ブラウン管でも同じである。赤緑青の光り具合で黒白を含む全色が表現できるので、この赤緑青1組が2Kテレビなら水平方向へ約2000組を1本とした線が垂直に約1000本のスダレ状に並んでおり、これを1画面とした写真が1秒間に30枚の速度で差し替えられている。200万画素のスマホカメラで例えれば1秒間に30枚撮った写真を実時間で再生しているようなもの。
 この赤緑青1組それぞれは液晶テレビならシャッターの高速開閉、LED型テレビなら粒の明るさを高速で変化させ色合いを変えているのだが、ブラウン管テレビは電子銃と呼ばれる光線銃で画面内側のガラス面にビッシリ配置した電子が当たると光る蛍光粒を正確に狙い撃ちしている。銃には赤用、緑用、青用の3本が有り、ゴルゴ30も驚くほどの正確さと速さで350組×525本のスダレ状に並んだ1粒を同時に3本の銃で撃っているのである。また器用にも奇数目のスダレと偶数目のスダレを交互に射抜き、電子銃からの電子が当たった粒はその弾の強弱によって光る強さを変えている。目の残像効果と発光の余韻によって結果的に30分1秒に1枚の写真がすげ替わって動画として見えている。
 この電子銃の精度と粒の配置の精度、まっ黒の表現方法に関する技術向上が昭和40~60年代の家電各社で競われていた。この辺りから製品の商標名なのか技術方式名なのかが怪しくなるが、ソニーでは商標名を「トリニトロンカラー」、東芝は「ユニカラー」、松下は「パナカラー」、三菱は「ダイヤカラー」、そして日立は「キドカラー」だった。ブラウン管の技術ではソニーが「トリニトロン」で売りは電子銃「ワンガン・スリービーム」(1本の筒に電子銃が3本が入った技術)、松下の「クイントリックス」や日立の「キドスカープ」である。他のメーカーのブラウン管技術はソニーのシャドーマスク(粒に被せた網目状の枠)を使わない新技術(トリニトロン方式)が幅を利かせていたのか目立っていない。その代わりなのか電源を入れると電子部品が温まるまで画像がなかなか出ないのを改善した日立のポンパ(スイッチポンでパッと点く)などが出始めた頃から商標なのか技術名なのか区別が難解となる。竹原電化の看板にある「鳥」の名前は「ポンパ君」であり、電源を入れてから温まで動かない真空管式の電子回路をトランジスタ回路へと置き換えた技術だった。もちろん真空管の親分であるプラウン管はソリッドステート化(ICやトランジスタ化)できなかったので車やファンヒーター暖機のような余熱手段しかなかった。この頃、更に三洋の「ズバコン」(回すチャンネルがそのまま抜けて、超音波式リモコンとして使える)や、リモコン操作でチャンネルつまみがガチガチと遠隔回転するものなども一般受けしていた。
 私がソニー党だった理由は、何かのテレビ歴史番組で観たデファクト・スタンダードを効かせてユーザーを囲い込む、電球と二股ソケット販促のためは他社による蛍光灯の普及を阻止するような社風の会社ではなく、技術者の「弛まない技術の探求」が大好きだったからである。松下がトーマス・エジソン型ならばソニーはニコラ・テスラ型といえよう。もちろん今でも押入れには小型のベータ式ビデオムービーやとラジオのスカイセンサー5800(竹原の旭電機で購入)などが保存されている。

 さてこの「キドカラー」の「キド」だが、光り具合の「輝度」と電子銃が当たる発光材料の「希土」から名付けられたもので、ブラウン管自体の名称は「キドスカープ」だ。因みに「スカープ」は「スコープ」のことだと思うが、電球や真空管のようなガラスやレンズを使った機器の多くに「スコープ」が付いていおり、原始的な映画の上映装置は「キネスコープ」、電子工学の世界では計測器に「ブラウン管オシロスコープ」や「シンクロスコープ」、その他に「テレスコープ(望遠鏡)」や「マイクロスコープ(顕微鏡)」がある。会社ではこの「スコープ」はプログラミング言語で使われていたが、ビジネスで使うと「サステナブル」とか「ダイバーシティー」を多用する「カタカナおやじ」になるので要注意。

 最期に竹原における「キドカラー」についてトリビアが2つある。1つ目は「日立のポンパ号」が竹原駅に止まったこと。2つ目は「日立の飛行船キドカラー号」が竹原上空を飛んでいたこと。
 蒸気機関車と客車「日立ポンパ号」は日立の宣伝専用蒸気機関車で、車両自体が当時のカラーテレビを連想させる総天然色、車内も宣伝展示がされていた。呉線電化の寸前で未だディーゼル(キハ)が走っていた1970年の頃。平日の19時頃だったと思うが、家族で竹原駅まで訪れてホームに停まっていたポンパ号に乗り込んだ微かな記憶がある。この時、ホームへ渡る跨線橋が水色で木造だったこと、見終わってから駅を出たら駅前交番とシオタの隙間に月食が見えていたこと。その後に「一冨士」で中華そばを食べたこと。
 飛行船「日立キドカラー号」は竹小での授業中に誰かが空に浮かぶ飛行船を見つけて教室内が騒然。授業が中断され窓から覗くと銀色のボティーには竹原電化の看板にある日立ロゴと「キドカラー」の赤文字が入った飛行船が、何やら歌を流しながら西へと漂っていった。窓から隣りを見たら、どの教室からも生徒が体を出していた。これはポンパ号より少し前だったと思う。
 我が家がカラーテレビとなったのは大阪万博の1970年の頃だった。これまで白黒画面に「カラー」と出ていたのがカラーテレビで「カラー」が観られて喜んでいた時代である。「鉄腕アトム」、「どろろ」や「トムとジェリー」は白黒だったが、白黒だった「巨人の星」が途中からカラーになった。海外ドラマとしては原子力潜水艦シービュー号の「海底科学作戦」、「タイムトンネル」は白黒だったが、「サンダーバード」や「ジョー90」、「宇宙大作戦(スタートレック)」や「可愛い魔女ジニー」なとがカラーで観ることができた。この竹原電化はその頃から「キドスカープ」と「ポンパ君」の看板でここに現在も存在し続けている歴史的価値のある建造物なのである。