2020.11.27
かなり前から探していた「竹原小学校 創立100周年(空撮写真)」のオリジナル画像データが見つかった。色々と試行錯誤しなから画像を加工をしていたら、いつしか元データがどこかへ消えてしまった。オリジナルの色合いや画素数などが分からない状態となっていた。
この写真データは 1997年 9月に旧ホームページの読者(竹原出身)からフロッピー送付にて頂いたものである。読者自身が購入していた卒業アルバムを自らスキャンしたもので、創立100周年であることを示す「100周年」と卒業年度「1973年」、校章中央の「學」を石灰による白線、校章の笹の葉とアンダーラインは先生(私服)と生徒(体操服に赤帽)による一文字で描いているように見える。(低画素数のため不鮮明)
そのオリジナルをどのようにして加工しているかの一例を紹介する。画像加工のアプリケーション・ソフトウェアは「Adobe Photo Shop 5.5」であり、これを現在のブログにも使用している。
やっと見つかったオリジナル画像はなぜか薄紫色だった。卒業アルバムをどうやってスキャンしたのか、色合いはこのままだったのかはもう分からない。画素数は 横668 x 縦704 という半端なものだった。

#00:オリジナル画像(1997/09/02受取り)
先ず薄紫色を修復するには「自動レベル補正」機能を使うのが一番楽である。手動で補正もできるのだがアプリが適度に補正してくれる。この補正で古い色褪せたセピア色の写真へと変わった。

#01:自動レベル補正をかけた
次にセピア色に色褪せた画像を少しだけ通常の色の濃さへ復元してみる。「色相・再度」の調整を使って全体の彩度を +20% とし、劣化の激しい黄色系と茶色系を +20% にしてみた。だが、未だ色褪せ感が強い。

#02:緑と茶色の彩度を20%UP
続いて「明るさ・コントラス」の調整によって全体のコントラストを +20% にしてみると色褪せ感が改善された。70年代の雰囲気を残したいのでこの程度の補正にしておく。

#03:全体のコントラストを20%UP
写真を掲載する目的は「100周年と1973年」であり、人文字や建物の詳細を拡大で示したいのでフィルタ(シャープ)をかけてピントのボケを強制解消しておく。

#04:フィルター(シャープ)をかける
山の木々などがシャープにはなったが第一校庭に描かれた「100周年」と「1973年」が殆ど確認できない。
「トーンカーブ」機能によって手動で諧調補正をかけてみて白飛びによる土の色を濃くしてみる。

#05:トーンカーブで階調を調整
手動にて「レベル補正」の機能で「色合い・彩度」の不自然さを減少させてみる。補正前は大河ドラマ「麒麟がくる」のドギツイ緑やピンク色(8K普及目的なのか黄緑の彩度が目が痛い)となっていたので、画面で観ても「1970年代」に感じられるレベルにしてみた。

#06:レベル補正で彩度を調整
最後に色合いを「カラーバランス」の調整にて「ミント色っぽさ」を低減させてみた。

#07:カラーバランスで色合いを調整
以上が画像加工で多用してきた機能である。
以下の一枚、同様の空撮画像が有るのだが、こちらのオリジナルは未だ見つかっていない。
#08:同様に調整したと思われる別画像
参考として、これら写真2枚を使った旧ホームページの記事も載せておく。
----------------
0330 #6 竹原小学校(創立100周年 空撮写真)
掲載月日:1998/02/15(#6 N119)

竹原出身のびわきびーこさんより、14日にすばらしい写真が届いた。(後記:これは卒業アルバムの掲載写真らしい)1973年(昭和48年)の竹小創立100周年の行事として3学期に行われた生徒による人文字(校章)の空撮写真である。私より若い竹小卒業者は記憶にあるかもしれないが、私が卒業した次の年に行われたので、このイベントは全く知らなかった。この写真には、焼失する前の懐かしい校舎の並びや地蔵町と田中の家並みが空撮なのでハッキリ。南北は手前の鎮海山麓にある稲荷神社から三井田ノ浦住宅、東西は市立竹原保育所(東幼稚園と勘違いしていた)から児玉米店あたりまでが写っている。現在は住宅がたくさん建てられているが、田中には道草をしていた頃の田圃が埋め立てられた広大な空き地(左端中央)がある。

もう一枚は、竹小のズームアップである。田浦川の第一校庭には「うんてい」と走りは幅跳び/高飛び用の砂場がかすかに見える。また、右下にはコンクリでできた観客席とバックネット、この観客席は運動会の特等席であった。運動会の昼食はこの裏にある道を森近のバタンコが竹を積んで行き来するのを見ながら、親子そろって重箱をつつくのであるが、鼓笛隊や応援団の出番が次に控えているので落ち着いて食べてはいられない。甘い寒天とタコの形をしたウインナーを頬ばって、スピーカーにせかされながら教室へ縦笛を取りに戻るのである。つかの間の親子団欒、しかし、教室で寂しく弁当を食べいてるクラスメイトも何人かおり、贅沢は言ってはいられない。私も5,6年は教室で弁当であった。
この観客席の左隣に、そういえば謎の建物が写っている。貯水塔のようでもあり、鳥か猿が飼われていたのかよく分からない空洞であった。東側の保育所そばにも砂場があるようである。この北に滑り台らしきものが写っているが、有ったはずの登り棒が写っていない。卒業後に登り棒で転落死亡事故があった記憶があるが、撤去されたのかもしれない。この滑り台の東が学級農園であり、ジャガイモや菜の花を植えていたはずである。
更にこの農園の北の建物が体育倉庫で、重すぎるマットや持ち上げると抜け落ちるハードル、ダルマ競争の竹の骨組み、それにくす玉や玉入れのポールがとらげてあった。この体育倉庫の横はたぶんゴミ焼却場であろう。
第一校舎の一階の窓には、ボールでガラスが割れないように緑色の針金ネットがあるのがかすかにわかり、西側の色の違う屋根の2階には、音楽家の写真にかこまれた音楽室と図書室、殆ど白い点ではあるが中央出入口の上には時計も確認できる。
次は第二校庭である。ここにはバナナの木か植えられていた温室や百葉箱、それに花壇が確認できる。ここの平屋には理科室があったと思うがハッキリしない。第三校庭は思っていたより広い。足洗い場が確認できないが、第四校庭ではなかったと思う。校庭東端には、一番汚かったトイレが写っている。
第四校庭は逆に狭いが、ギンナンが落ちて臭く、秋になると竹ほうきで掃くそばから葉が降ってくる創立以前からありそうな立派なイチョウが写っている。この奥の平屋が3年生の教室であった。
この横(写真左上)にある白い屋根が給食室であり、給食当番は白いエプロンと三角巾、マスクを着けてここまで給食を取りに行くのである。台車なとは無く、アルミの食器(牛乳用、おかず用、パン用)とスプーンの入った小カゴが入ったおおきなカゴのバネの取っ手を持つ係り、ニコニコ牛乳(2年生までは脱脂粉乳)の箱を持つ係り、青虫がたまに煮込まれていたスープなどのおかずの入ったバケツ、マーガリンとコッペパンの入ったケースを持った大集団が廊下と渡り廊下を毎日通うのである。
そして最後に、体育館(講堂のままかもしれない)である。新築の建物が写っているが、「はよー建ててくれりぁーえかったのにのー」とみんながぼやいていたので、ここを使ったのは6年生の3学期だけであったのであろう。仕事で忙しいはずなのに、こっそり親が来てくれていた卒業式は確かに新しい建物の臭いがしていた。古い講堂での思い出といえば毎年の辛い音楽会であるが、みんなが出来るまで誰一人帰れない集団責任主義や、出来たひとから帰って良いという劣等感を与える習慣は今も残っているのであろうか。楽しいはずの音楽会が生徒に苦痛と憎しみを植え付けていたのは確実である。講堂での他の催し物では、子供にとっては理解に苦しんだ狭山裁判の映画上映だけは別として、有名空手家による瓦や石割りの実演、手品師によるトランプ芸、薄汚れた縫いぐるみ劇団による風刺のきいた童話等の楽しいイベントは今も脳裏に焼き付いている。
この空撮から1年後ぐらいであろうか。朽ち果てても建て替えられない100年を越えた貴重な校舎が、放火による全焼となって生まれ変わったのは。
かなり前から探していた「竹原小学校 創立100周年(空撮写真)」のオリジナル画像データが見つかった。色々と試行錯誤しなから画像を加工をしていたら、いつしか元データがどこかへ消えてしまった。オリジナルの色合いや画素数などが分からない状態となっていた。
この写真データは 1997年 9月に旧ホームページの読者(竹原出身)からフロッピー送付にて頂いたものである。読者自身が購入していた卒業アルバムを自らスキャンしたもので、創立100周年であることを示す「100周年」と卒業年度「1973年」、校章中央の「學」を石灰による白線、校章の笹の葉とアンダーラインは先生(私服)と生徒(体操服に赤帽)による一文字で描いているように見える。(低画素数のため不鮮明)
そのオリジナルをどのようにして加工しているかの一例を紹介する。画像加工のアプリケーション・ソフトウェアは「Adobe Photo Shop 5.5」であり、これを現在のブログにも使用している。
やっと見つかったオリジナル画像はなぜか薄紫色だった。卒業アルバムをどうやってスキャンしたのか、色合いはこのままだったのかはもう分からない。画素数は 横668 x 縦704 という半端なものだった。

#00:オリジナル画像(1997/09/02受取り)
先ず薄紫色を修復するには「自動レベル補正」機能を使うのが一番楽である。手動で補正もできるのだがアプリが適度に補正してくれる。この補正で古い色褪せたセピア色の写真へと変わった。

#01:自動レベル補正をかけた
次にセピア色に色褪せた画像を少しだけ通常の色の濃さへ復元してみる。「色相・再度」の調整を使って全体の彩度を +20% とし、劣化の激しい黄色系と茶色系を +20% にしてみた。だが、未だ色褪せ感が強い。

#02:緑と茶色の彩度を20%UP
続いて「明るさ・コントラス」の調整によって全体のコントラストを +20% にしてみると色褪せ感が改善された。70年代の雰囲気を残したいのでこの程度の補正にしておく。

#03:全体のコントラストを20%UP
写真を掲載する目的は「100周年と1973年」であり、人文字や建物の詳細を拡大で示したいのでフィルタ(シャープ)をかけてピントのボケを強制解消しておく。

#04:フィルター(シャープ)をかける
山の木々などがシャープにはなったが第一校庭に描かれた「100周年」と「1973年」が殆ど確認できない。
「トーンカーブ」機能によって手動で諧調補正をかけてみて白飛びによる土の色を濃くしてみる。

#05:トーンカーブで階調を調整
手動にて「レベル補正」の機能で「色合い・彩度」の不自然さを減少させてみる。補正前は大河ドラマ「麒麟がくる」のドギツイ緑やピンク色(8K普及目的なのか黄緑の彩度が目が痛い)となっていたので、画面で観ても「1970年代」に感じられるレベルにしてみた。

#06:レベル補正で彩度を調整
最後に色合いを「カラーバランス」の調整にて「ミント色っぽさ」を低減させてみた。

#07:カラーバランスで色合いを調整
以上が画像加工で多用してきた機能である。
以下の一枚、同様の空撮画像が有るのだが、こちらのオリジナルは未だ見つかっていない。

#08:同様に調整したと思われる別画像
参考として、これら写真2枚を使った旧ホームページの記事も載せておく。
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0330 #6 竹原小学校(創立100周年 空撮写真)
掲載月日:1998/02/15(#6 N119)

竹原出身のびわきびーこさんより、14日にすばらしい写真が届いた。(後記:これは卒業アルバムの掲載写真らしい)1973年(昭和48年)の竹小創立100周年の行事として3学期に行われた生徒による人文字(校章)の空撮写真である。私より若い竹小卒業者は記憶にあるかもしれないが、私が卒業した次の年に行われたので、このイベントは全く知らなかった。この写真には、焼失する前の懐かしい校舎の並びや地蔵町と田中の家並みが空撮なのでハッキリ。南北は手前の鎮海山麓にある稲荷神社から三井田ノ浦住宅、東西は市立竹原保育所(東幼稚園と勘違いしていた)から児玉米店あたりまでが写っている。現在は住宅がたくさん建てられているが、田中には道草をしていた頃の田圃が埋め立てられた広大な空き地(左端中央)がある。

もう一枚は、竹小のズームアップである。田浦川の第一校庭には「うんてい」と走りは幅跳び/高飛び用の砂場がかすかに見える。また、右下にはコンクリでできた観客席とバックネット、この観客席は運動会の特等席であった。運動会の昼食はこの裏にある道を森近のバタンコが竹を積んで行き来するのを見ながら、親子そろって重箱をつつくのであるが、鼓笛隊や応援団の出番が次に控えているので落ち着いて食べてはいられない。甘い寒天とタコの形をしたウインナーを頬ばって、スピーカーにせかされながら教室へ縦笛を取りに戻るのである。つかの間の親子団欒、しかし、教室で寂しく弁当を食べいてるクラスメイトも何人かおり、贅沢は言ってはいられない。私も5,6年は教室で弁当であった。
この観客席の左隣に、そういえば謎の建物が写っている。貯水塔のようでもあり、鳥か猿が飼われていたのかよく分からない空洞であった。東側の保育所そばにも砂場があるようである。この北に滑り台らしきものが写っているが、有ったはずの登り棒が写っていない。卒業後に登り棒で転落死亡事故があった記憶があるが、撤去されたのかもしれない。この滑り台の東が学級農園であり、ジャガイモや菜の花を植えていたはずである。
更にこの農園の北の建物が体育倉庫で、重すぎるマットや持ち上げると抜け落ちるハードル、ダルマ競争の竹の骨組み、それにくす玉や玉入れのポールがとらげてあった。この体育倉庫の横はたぶんゴミ焼却場であろう。
第一校舎の一階の窓には、ボールでガラスが割れないように緑色の針金ネットがあるのがかすかにわかり、西側の色の違う屋根の2階には、音楽家の写真にかこまれた音楽室と図書室、殆ど白い点ではあるが中央出入口の上には時計も確認できる。
次は第二校庭である。ここにはバナナの木か植えられていた温室や百葉箱、それに花壇が確認できる。ここの平屋には理科室があったと思うがハッキリしない。第三校庭は思っていたより広い。足洗い場が確認できないが、第四校庭ではなかったと思う。校庭東端には、一番汚かったトイレが写っている。
第四校庭は逆に狭いが、ギンナンが落ちて臭く、秋になると竹ほうきで掃くそばから葉が降ってくる創立以前からありそうな立派なイチョウが写っている。この奥の平屋が3年生の教室であった。
この横(写真左上)にある白い屋根が給食室であり、給食当番は白いエプロンと三角巾、マスクを着けてここまで給食を取りに行くのである。台車なとは無く、アルミの食器(牛乳用、おかず用、パン用)とスプーンの入った小カゴが入ったおおきなカゴのバネの取っ手を持つ係り、ニコニコ牛乳(2年生までは脱脂粉乳)の箱を持つ係り、青虫がたまに煮込まれていたスープなどのおかずの入ったバケツ、マーガリンとコッペパンの入ったケースを持った大集団が廊下と渡り廊下を毎日通うのである。
そして最後に、体育館(講堂のままかもしれない)である。新築の建物が写っているが、「はよー建ててくれりぁーえかったのにのー」とみんながぼやいていたので、ここを使ったのは6年生の3学期だけであったのであろう。仕事で忙しいはずなのに、こっそり親が来てくれていた卒業式は確かに新しい建物の臭いがしていた。古い講堂での思い出といえば毎年の辛い音楽会であるが、みんなが出来るまで誰一人帰れない集団責任主義や、出来たひとから帰って良いという劣等感を与える習慣は今も残っているのであろうか。楽しいはずの音楽会が生徒に苦痛と憎しみを植え付けていたのは確実である。講堂での他の催し物では、子供にとっては理解に苦しんだ狭山裁判の映画上映だけは別として、有名空手家による瓦や石割りの実演、手品師によるトランプ芸、薄汚れた縫いぐるみ劇団による風刺のきいた童話等の楽しいイベントは今も脳裏に焼き付いている。
この空撮から1年後ぐらいであろうか。朽ち果てても建て替えられない100年を越えた貴重な校舎が、放火による全焼となって生まれ変わったのは。
コメント
コメント一覧 (2)
火事になった時は、なぜだか涙が出たのを覚えています。
廊下に並んだメダカやイモリの入った水槽、ツルツルになった階段の手すり。
はっきり覚えています。
takehara_photo
が
しました