竹小第一校庭東沿いの「竹原立竹原こども園(旧竹原市立保育所)」向こうに郷賢祠(きょうけんし)の鳥居がチラリと見える。ここは桜満開時に鳥居と一緒に撮ると「映える」写真が撮れるようで、ネットなどでも多数写真が掲載されているスポットのひとつである。今年は初めて桜満開の時季に照蓮寺の境内や成井土手の並木道を撮ることができたのだが、郷賢祠の桜、宿根の大桜とハンブージョイハイランドの千本桜は撮り逃してしまった。宿根やバンブーへは3月末に買った中古車の納車待ちで遠方へは訪れられなかったが、郷賢祠はその存在すらすっかり忘れていた。もし撮っていたとしてもネット環境構築(ドコモ光工事)が整わず他の満開写真と同様にブログ記事へは載せることができなかったのだが。
以下は「旧竹原市立保育所」の様子を撮りに出かけた時に、この郷賢祠の鳥居が目に入り誘われるように訪れた時の様子である。(この撮影は1998年と2014年に続いて3度目)
(2020/08/23撮影)
神社御参り時の鳥居を潜る作法は伊勢神宮への旅行で初めて知ったのだが、その作法通り中央の敷石は通らず、一礼して鳥居の隅である枠左側から潜った。その時に感じたのは前回の2014年と何も変わってはいない印象だ。かなり昔(昭和時代)には境内南側中央へ石灯籠が2基有ったのだが、いつしか撤去されて近隣の駐車場となっていたのには驚いたが、台数は減ったものの現在も駐車場になっているようだった。
この祠が竹原が輩出した郷土の賢人22人を祀ったものである。(賢人については旧HP参照)
庄原市から寄贈された「杏坪柿」の標を今回見付けたのだが、2005年に柿の木が植樹されたようで初回撮影時1998年には未だ無かったものである。この「杏坪(柿)」とは祠の解説に書かれていた21番目の文化人で広島藩校教授、郡代官、頼山陽の叔父でありこの郷賢祠創始者である頼惟柔(杏坪)に因んだもののようだ。(「杏坪柿」については庄原市の教育用PDF資料を参照)、郷賢祠へは創始者自身も祀られていることから、後継者によって21番目に祀られたと思われる。
こちらの併設の祠については分からず。そこで「たけはらの神仏を訪ねて」を調べると「招魂杜」とだけ書かれていた。「招魂社」でWikiを調べると明治維新頃以後の殉職者を待ったものであった。鳥居の正面にあるのでこちらが賢人の祠かと勘違いしそうだ。
「たけはらの神仏を訪ねて」によると昭和5年にどこからか竹小内へ遷座され、昭和21年にこの場所へ更に遷座されたようだ。この鳥居は昭和15年建(紀元2600年)と彫られているので竹小に有った時に建てられた鳥居が移設されたものと思われる。
これが境内である。来年の桜が満開となる時季には忘れずに取りに行くことにしよう。なお、最古の写真はこちらの旧HPを参照して欲しい。1998年頃は未だ賢人リストの解説板は無かった。
さて、23番目に祀られる賢人は誰になるのであろうか。
以下は「旧竹原市立保育所」の様子を撮りに出かけた時に、この郷賢祠の鳥居が目に入り誘われるように訪れた時の様子である。(この撮影は1998年と2014年に続いて3度目)
(2020/08/23撮影)
神社御参り時の鳥居を潜る作法は伊勢神宮への旅行で初めて知ったのだが、その作法通り中央の敷石は通らず、一礼して鳥居の隅である枠左側から潜った。その時に感じたのは前回の2014年と何も変わってはいない印象だ。かなり昔(昭和時代)には境内南側中央へ石灯籠が2基有ったのだが、いつしか撤去されて近隣の駐車場となっていたのには驚いたが、台数は減ったものの現在も駐車場になっているようだった。
この祠が竹原が輩出した郷土の賢人22人を祀ったものである。(賢人については旧HP参照)
庄原市から寄贈された「杏坪柿」の標を今回見付けたのだが、2005年に柿の木が植樹されたようで初回撮影時1998年には未だ無かったものである。この「杏坪(柿)」とは祠の解説に書かれていた21番目の文化人で広島藩校教授、郡代官、頼山陽の叔父でありこの郷賢祠創始者である頼惟柔(杏坪)に因んだもののようだ。(「杏坪柿」については庄原市の教育用PDF資料を参照)、郷賢祠へは創始者自身も祀られていることから、後継者によって21番目に祀られたと思われる。
こちらの併設の祠については分からず。そこで「たけはらの神仏を訪ねて」を調べると「招魂杜」とだけ書かれていた。「招魂社」でWikiを調べると明治維新頃以後の殉職者を待ったものであった。鳥居の正面にあるのでこちらが賢人の祠かと勘違いしそうだ。
「たけはらの神仏を訪ねて」によると昭和5年にどこからか竹小内へ遷座され、昭和21年にこの場所へ更に遷座されたようだ。この鳥居は昭和15年建(紀元2600年)と彫られているので竹小に有った時に建てられた鳥居が移設されたものと思われる。
これが境内である。来年の桜が満開となる時季には忘れずに取りに行くことにしよう。なお、最古の写真はこちらの旧HPを参照して欲しい。1998年頃は未だ賢人リストの解説板は無かった。
さて、23番目に祀られる賢人は誰になるのであろうか。
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