安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

トリビア

 北崎から大石方面への旧道沿いにそびえ立つ高石台に座る地蔵尊。これまで何度か撮影しているが、高石台の周囲にも小地蔵が複数あり、本来ならば地蔵堂内に鎮座すべきでなのに野晒し状態。今更ながらその違和感に気付いて『たけはらの神仏を訪ねて/著:神野勝』を調べてみると、その謂れについて書かれていた。(2024/07/09撮影)
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 地蔵尊の場所は北崎の流通センターから山沿いの道を東幼稚園方面へ向かう中程である。
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 地蔵尊の高さは2mを越える程で・・・
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 周囲には数体の小地蔵が無造作に置かれており・・・
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 今回、撮った写真を見て初めて気付いたことが赤子を抱えていたこと。
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 正式名は「八鹿地蔵大菩薩」。
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 建立年は明治頃?
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 上書籍に書かれた「大石地蔵」の謂れは以下(原文)である。

 四国金毘羅宮の祭神と元夫婦であったらしく、琴平より大きな社を建立すれば一緒になるが小社となるならば、このままで社はいらないこの場に座す。

 なんとも主語が難解な解説であるが、地蔵堂(小社)が建てられていないのは、この場へ琴平よりも大きな社を(誰が?)建ててくれなかったので野晒しのままでよし・・・であろうか。そして、祭神と菩薩が元夫婦であったことも更に不思議な謂れである。ここ大石に夫婦だった頃よりも豪華な大御殿を建ててくれるなら復縁してあげるが、そうでないならホームレスのままで暮らす、それも赤子を抱えたままで・・・だ。

-以上-

 吉崎新開の県道464号線沿いにて古い納屋の壁に貼られた?レトロな看板に目が留まった。トタン屋根が垂れさがって隠れてしまい、道路から再び見えるよう看板部分が切り取られたのではなく、明り取りの透明屋根とその周囲のトタンが最近外れ落ちて偶然見え易くなっていたようだ。そもそもこれは看板としての役目ではなく、劣化した壁を覆うトタン板として古い看板が張られたのかもしれないが、そうであれば無地の裏返にするハズ。(2024/06/25撮影)
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 看板には「菓子と進物 とくなが 竹原駅前」と書かれている。竹原駅前にて菓子や進物などを売る店といえばロータリー向いの歩道先の店を思い浮かべるが、そこは「とくなが」ではなく「あわむら」であった。だが、アーケード街のどこかに聞き覚えのある店があったはず。
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 そこで倉庫へ仕舞い込んでしまった地図を引っ張りだしてルーペで探索すると見付かった。場所は現在の「磯っ子」である。昭和50年代の地図では「徳永製菓」と書かれており、その隣は「焼肉 力」で、平成8年の地図では「とくながフルーツ」になって、隣が自転車置場へ変わっていた。そして令和2年の地図では現在の「磯っ子」へ変わっていた。
 ちなみに過去に掲載したレトロな商業電話帳「竹原市まちのダイヤル」では、バン・菓子・餅のページに「御進物・菓子・果物 とくなが 竹原市竹原町駅前通り」が掲載されていた。1996年から撮り始めた数千枚ある「蔵出し写真」をルーペで探索すれば、自転車置場などの写真へ部分的に「とくなが」が映り込んでいるかもしれないが、さすがにその時間と気力と体力はない。

-以上-

 明神大橋を渡る際に竹原港へ慎重に接岸している見慣れない中型船舶を目撃。(2024/06/25撮影)
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 大潮の引き潮だったのか、普段は見られない海底の石積みを眺めていると、どこからか「あと10m・・・5m・・・」と拡声器の声が聞こえた。声が聞こえてくる方向に真っ白い船舶が座礁を回避しながらなのか、超スローで接岸をしている最中であった。
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 船舶の名称は「豊潮丸(TOYOSIO MARU)」だった。
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 最初は海上保安庁の監視船の類に見えたが・・・
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 広島大学生物生産学部の船舶で、的場カーブにある水産試験場に陸揚げされている小型船舶とは明らかにサイズが違っていた。
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 見覚えのある慣れ親しんだ広島大学の学章が取り付けられていた。
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 竹原港灯台下からも撮影。
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 「豊潮丸」の正式名称は「広島大学 生物生産学部 附属練習船 豊潮丸」で目撃したのは4代目の船舶であった。竹原市への寄港目的は広島大学水産実験所の見学または共同研究の一環であろうか。それとも本日はハチ岩まで歩いて渡れた「ハチの干潟」の海底泥や水生生物などの調査だったのだろうか。

-以上-

 「道の駅たけはら(旧竹原警察署)そば」にある「神田もち店」、ここは北堀だが、かなり離れた新町区にレトロな「神田もち店」の看板がある。(2024/06/11撮影)
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 その看板は第一生命ビルのはす向かいの街路灯に1枚だけ取り付けられている。見上げる位置にあってモノクロで目立たないので、これまで見落としていたが、新町にて同型の「大阪食堂」の外灯看板を見付けてから目線が上を向くようになった。
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 看板の南面がこれ。店舗の看板とは違って活字ではなく書初めのような手書き風のタッチで「神田もち」と書かれている。ちなみに活字の「竹原警察署そば」がレトロ感を更にそそる。
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 北面がこちら。遠目では南面と全く同じだが・・・
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 たぶんどちらも同じコピー印刷なのだろうが、よく見ると「田」と「神」の「ネ」のハネや、「申」の横棒の長さや「とめはね」の形状が微妙に異なっている気がする。両画像を透かして重ねてみたが、看板が「ひわって」いるので比較できず。以下の左右を目視で比べてみて欲しい。
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 これが両面異なる手書きの「書」で作られた外灯看板であれば、ある意味「発見」である。

-以上-

 昨日、町並み保存地区経由で帰宅中、「憧憬の広場」の前を通り過ぎた際にいつもとは違う光景が目に留まった。広場へ入ってみるとあのマッサン&リタ銅像の光沢が強烈に増していたのである。(2024/05/28撮影)
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 本銅像を初めて撮ってもらったのは建立直後の2015年の6月頃。その頃の光沢よりも増しているようだ。
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 「竹まつり」の数日後に広場前を通った際、出入口からチラリと見えたのがリタ像の椅子を掴んでしゃがみ込んでいる人の姿。その際は怪しい?撮影者かと思って視過ごしたが、あれは銅像を磨き込んでいた作業者だったようだ。
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リタの頬やマッサンの背広の光沢もツヤツヤ。
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 後ろへも回ってみたがマッサンの指先まで磨き込まれていた。背面から撮っている際に広場に入ってきたチャリダーに視られてしまった。怪しかったに違いない。
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 吉名町の海光神社前にある「池田総理胸像」では修繕された時の銘が座台に嵌め込まれていたが、本銅像では特に明記はされてはいなかった。銅像を磨くレベルでは「修繕」という程ではないのかもしれない。
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 以下からは今年の「竹まつり」で撮ったマッサン&リタ銅像である。ご覧の通り、艶光は殆ど無い。(2024/05/03撮影)
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 背広や頬はガサガサ。
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 あの、マッサン狂騒曲から約10年が経ってしまった。竹原ではウヰスキー「竹鶴」はもう手に入らない。初めて竹鶴政孝を旧HP記事にしたのが 2001年だった。あの時、近所の酒屋で買ったのが「竹鶴12年」、飲み終えても瓶を取っておけば良かった。

-以上-

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