安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

絶景スポット

 フェリー乗場の「スナメリ花ロード」に続いて新たなロード看板を発見。場所は国道を挟んだコスモスの向いの「文化と竹の公園都市 竹原」の石碑がある花壇の中。(2024/07/16撮影)
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 ここがその花壇。
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 ここはかなり古くから丁寧に整備されている花壇で、
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 車窓からでも殆ど目立たないが、この低い「文化と竹の公園都市 竹原」の石碑がある。
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 この花壇の中にいつのまにか?いや、これまで気が付かなかっただけなのか、
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 この「花かぐやロード」の絵看板が立てられていた。
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 看板左上には「花街道No.01」が書かれていることから、ここの他にNo.02・・・が存在しているはず。

 そこでネットで探してみると容易に「花街道」の情報が得られた。この「花かぐやロード」は平成26年3月20日に下野老人クラブと中通小児童によって3回目の植栽が行われた際に、中通小児童がデザインした「花街道No.01」看板が立てられたとの解説が書かれていた。ちなみに「花街道」は竹原市内ではここのみ。ここの交差点で私は信号機の色変わりと前々車の挙動しか見ていないので、長らくこの看板には目が留まらなかったようだ。

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 今年の的場海水浴場の海開き(海水浴可能期間)は7月13日~8月15日。海水浴客で賑わう直前に的場公園を訪れてみた。(2024/07/09撮影)
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 国道185号線から的場公園に入ると警告看板に夜間車両侵入禁止期間が書かれていたが・・・
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 今年は7月13日~8月31日なので未書き換えのようであった。夜間はチェーンで出入口が施錠されるとのこと。
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 こちらの看板では7月15日から夜間車両侵入禁止。
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 平日のせいか来訪者(車)は疎らだった。釣り人が数人程度。
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 砂浜(ビーチ)には誰一人いない。右突堤に釣人2人。
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 前回訪れた際は、この防潮堤間際に車両が多数停められたが・・・
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 今回はトラロープ(黄色黒のナイロンロープ)が張られて近寄らせなくなっていた。
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 海水浴期間中に開放されるシャワー室。ここを最後に利用したのはもう10年以上前になる。
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 左突堤にも釣人は2人。
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 海開きは7月13日からだが、未だ梅雨が明けていない。
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 シャワー室の向こうに監視塔。
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 的場公園には遊具が有ったのを忘れていた。
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 夏季帰省して泳いでいた頃の記憶にある遊具とは変わっていた。
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 変わっていないのは公衆便所ぐらいか。
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 これまで何度も書いたが、定年後に帰郷してからの夏に真っ先にしてみたかったのは「ナフコでバーベキュー用品を買って、的場の砂浜でバーベキューをする」だった。10年前ぐらいまで砂浜にタープを張ってバーベキューをしている家族を多数見掛けたが、いつのまにか夜中の花火と共に禁止になっていた。いや、そもそも昔から禁止だったのかもしれない。

-以上-

 明神側からフェリー乗場を望むと駐車場脇の公園に[竹原港]の巨大パネルが見える。「見える」と言っても目を凝らしてやっと文字が読める程なので、乗船してデッキから眺めないと目に留まらない程の大きさではある。これまでこのパネルはペンキで文字が書かれたコンクリート製だと思っていたが、ズームしてみると照明付きの象嵌による御影石製であることが分かった。(2024/06/25,07/09撮影)

 明神側からズームしたパネル。背後の駐車車両と比べると大きさが分かる。(2024/06/25撮影)
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 肉眼では黄色矢印部分にあるのだが、場所を言われなかったら存在に気が付かない。
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 ✕5ズーム
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 ✕10ズーム
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 ✕20ズーム。写真を拡大してみると竹の色は深緑、文字は黒い石であるこど分かった。また、竹の一部と文字にはドット(点)による照明器具が嵌め込まれているようであった。
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 では、フェリー乗場側へ移動して実際にパネル面を確認。(2024/07/09撮影)
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 パネルは公園脇に設置されている。当然、正面を見るのは無理だが、フェンスにもたれて脇からもパネル面が見えない。
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 そこでカメラを持ったまま手を伸ばして数十枚を連写してみた。何とか撮れた中から2枚を載せてみたが、全面背景と竹の輪郭、竹の表面、竹の後ろの草?、「竹原港」の文字は異なる素材が嵌め込まれてる凝った造りであった。
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 まだ、丸い照明器具だが、「竹原港」には文字をなぞって嵌められているが、竹の絵図では竹をなぞっているとは言えない部分もあった。
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 今更だが、この照明器具は本当に照明なのだろうか?バネル背面からは配線等は見当たらない。
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 パネル下部分の数ヶ所に電線の配管と接続ボックスがあるので、照明機器への給電はされているようだ。・・・ということはパネル自体は二重構造でコンクリート面と御影石面が貼り合わされており、その接合面に電線が這っている構造とみた。よって、照明が壊れたら修復は超困難。
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 電気の供給はこの白い箱の中。時限式なのか暗い時に点灯させるのかは分からず。公園内に数本ある電灯柱と点灯消灯が連動してはいそうだ。
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 今回は夜中まで待てなかったが、夜中になると「竹原港」の文字の形と「竹」の絵に照明が灯る様子を「きっと、いつか」確認してみたい。

-以上-

 明神の灯台突堤の根元壁に「この先行止り」の警告パネルがあり、ならば「この先の行止り」まで試しに行ってみたのを思い出した。それはもう10年以上前の帰省時だったが、現在はそのパネルも朽果てたのか既に消失していた。そこで再びその「行止り」まで訪れてみることにした。(2024/06/25撮影)

 灯台突堤の途中から見える「行止り」の場所を黄色矢印で示す。
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 集会所の傍にあるゴミ・ステーションに掲示された防災マップでもその場所を示した。
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 灯台突堤の根元から防潮堤沿いに西へ進むと・・・
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 防潮堤が途切れた。この先に右へと続く坂道は有ったが墓地と民家への私有路であった。
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 防潮堤の最西端に切れ目があり、砂浜ではなく小石だらけの海岸へ出入りできる。普段は開放されているが、津波・高潮発生時には広島県東広島地域事務所建設局 竹原支局 維持管理課によって閉じられると書かれたパネルも経年変化で真っ白になっていた。
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 前回、この海岸を訪れたのは 2010年の夏帰省。その時の景観と左程の違いは無いので過去写真は載せないが、消波石とテトラポットの集合体の先に突堤と灯台が見えるだろうか。
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 海岸正面には生野島や大崎上島が見える。
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 遥か彼方に契島や大崎上島間を航行する船舶が見えた。
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 晴れていれば絶景なので長時間滞在するのだが、この日は曇天だったのが惜しい。
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 大潮の干潮なので右手にも長く海岸が露出している。ここを歩けば横島沿いにハチ岩まで行けそうだが、さすがに時間・距離的に無理そうだ。
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 遥か彼方には吉名町宗越の送電鉄塔が見える。
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 パノラマを撮って・・・
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 元の場所(突堤根元)へ戻る。
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 今月の自治会回覧で分厚い竹原市防災マップ冊子が各世帯へ配布されたが、WEB版では津波時のこの海岸の浸水深は予想外に1m以下、だが高潮時ではなんと!4m超であった。津波の想定が南海トラフかは未確認だが、竹原市の南側では津波よりも高潮の浸水深が深刻な被害となることが分かった。ちなみに我が家は津波被害範囲外なのに高潮では 3.4mの浸水、洪水では 1.6mの浸水予想であった。倉庫の2階に的場で遊んだビニール製のボートや浮き輪があるが、空気入れと一緒に捨てずに残しておくことにした。

-以上-

 久しぶりに吉良崎塩田跡の「野鳥撮影のスポット」を訪れてみたが、珍しい野鳥どころか見慣れた鴨類さえ一羽もおらず。仕方なく護岸道を毛木方面へ向かおうとしたところ、護岸の海側には広大な干潟が拡がっていた。(2024/06/25撮影)

 普段は穏やかな海が、これまで見たことが無い干潟になっていた。
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 場所は天池大橋を渡って・・・
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 天池の排水ゲートの先。
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 パノラマでゲート側を撮影。
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 向いのハチ岩側も。
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 大潮の干潮時だったのか、ハチ岩(写真中央)まで歩けるほどの干潟が拡がっていた。
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 ズームしてみるとハチ岩が完全に露出。
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 数年前にハチ岩へ上陸したが、再度訪れてみる気力と体力はもう無い、
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 護岸道の中程まで進むと、これまで見たことが無い広大な干潟が更に拡がっていた。
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 ここからもハチ岩を撮影。
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 ここから干潟へ降りればハチ岩まで長靴で歩けそうだが、賀茂川が流れ出ている幅は腰まで浸かる深さに違いない。

 最大ズームしてみるとハチ岩手前の細くて白い帯にみえる場所が賀茂川の河口であろう。
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 ハチの干潟を訪れている研究者や学生達とのワークショップ(参加者主体型体験講座)は、どのルートで訪れているのであろうか。私がトライした横島の峠を越えているのか、潮干狩りしていた頃の皆実橋のたもとから「賀茂の切り抜き」の危険な岩沿いルートなのか、それとも小型船で座礁ぎりぎりまでの浅瀬に上陸するのだろうか。

-以上-

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