安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 2024/09/15

Instagram版「安芸の小京都 竹原アルバム」のアドレスとQRコードです。

https://www.instagram.com/takehara.album/
takehara.album_qr


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 長らくご愛読有難うございました。

 毎日更新(すべき日記)のブログ版を本日で終えて、(気が向いた時の更新でも良い)写真に特化した Instagram版への移行を予定しております。酷暑が終わる頃までかかりますが Instagramの使い方の勉強を兼ね試行錯誤を終えた後に、本ブログの本最終ページにて「新・安芸の小京都 竹原アルバム」の公式アドレスを公開いたします。
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 ブログ版のラストページは普明閣。平日の舞台を独り占めして板場に寝転びながら酔いが醒めるまで空を眺めていた。写真としては青空を期待していたが、観光客が舞台に訪れて立ち去る最後まで雲は途切れなかった。(2024/07/30撮影)
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 「竹すずめ」でグラスビールと「かき氷」を食べた後に、徒歩で普明閣を目指した。16時を過ぎていたので観光客の姿はなし。
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 本堂にて参拝を済ませた後に普明閣の舞台へ。
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 普明閣から眺める朝日山の姿は格別。
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 舞台には誰も居ない。
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 一応、ベスト・アングル(AT-X)で撮ってから・・・
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 舞台に腰を下ろした。
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 板場に大の字になって朝日山を撮影。
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 時折り、雲の隙間から陽が射しこむ。
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 酔いが醒めてきたので舞台上から街中を撮影してみた。
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 先ずは竹原中学校。賀茂川に架かる朝日橋からも普明閣が良く見える。
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 真下には岩本邸。
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 彼方には「ゆめタウン竹原」跡と「竹原市役所新庁舎」が見える。
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 朝日山方面は甍の波が美しい。
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 その中に歴史民資料館。
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 池田勇人立像が吉名町へ向きを変えたのだから、本来ならば竹鶴邸方面に向くべきと思うのだが・・・。
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 そして竹原町のランドマークの三井の煙突「竹太郎」(どうも馴染めない)。
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 遠くから話し声が・・・
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 普明閣の扁額とレトロな電灯(LEDかは未確認)。
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 天井を撮るとレンズのゴミが写る。
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 最後まで青空は出ず仕舞。
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 既に17時を過ぎているが観光客なのか、話し声が近くなった。
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 17時10分頃に眼下の境内から「カチン」と音がしてLED照明が自動点灯。
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 眩しすぎて目視できない。
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 観光客だろうか?普明閣に上がってきたので挨拶してから退散。
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 鐘撞堂と朝日山のフレームも美しい。
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 石段を降りていると香ばしいソースの香りが漂って来た。
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 その香りはここからだった。久しく訪れていないが、また観光客のふりをして食べに行ってみたい。
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 同級生から帰郷した頃に「ほり川へ行きょ~るよ~じゃ、まだ竹原人には成り切れとらんで!」と言われたのを思い出すが、私は今もここの「お好み焼」が一番好きだ。

-以上-

 昨年末から今年の3月末まで行われていた森川邸の修理工事(正式名:竹原市指定文化財 旧森川家住宅離れ座敷保存修理工事(第1期))だが、現在は続く第2期の工事が行われている。先月頃から離れ座敷側の白いフェンスが撤去されて工事の様子が見えており、奥座敷の床下と礎の間に多数のジャッキが取り付けられていた。これは遠い昔に竹原の何処かの家屋で視た光景。家屋を解体することなく別な場所へ平行移動させる「曳家(ひきや)」の準備施工である。(2024/07/23,25撮影)

 そして「住吉祭」が終った今週始め、森川邸の路地を通っていたら違和感。
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 円山医院との道路の幅員が妙に狭く感じた。
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 これまでフェンス奥に建っていた離れ座敷が路肩まで迫り出していた。
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 路上から見える中の様子は、元々、離れ座敷が建っていた礎のみ。
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 やはり「曳家」であった。離れ座敷はここに建っていた。家屋全体が斜め横へスライドされていた。
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 農協側からも再確認。
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 塀と溝が有った位置を越えて路面脇まで迫り出している。
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 本日は「幅員減少」の看板が取り付けられていた。
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 離れ座敷の全体写真は探し出せなかったが、修理工事で撤去された塀と溝があった時の写真と比べて欲しい。(2019/10/20撮影)
20191020a

 迫り出した離れ座敷の家屋は、礎の修理を終えた後に元の場所へ曳き戻されるであろう。

-以上-

 「住吉祭」2日目の昼、保存地区の最北端にある「根古屋」から小路経由で「茶寮一会」へ。だがここも満席だったので更に南下して最南端の飲食店「tabenomi sumicco」を13時過ぎに訪れた。しかし、ここもテーブル席と座敷席が満席で空いていたL字型カウンター席(4人掛け)にて落ち着くことにした。前回、ここを初ランチで訪れたのは「竹まつり」の翌日だった。(2024/07/21撮影)
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 住吉神社の氏神エリアなのか、竹鶴酒造から先の軒先には「住吉祭」の注連縄が張られていた。
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 「sumicco」を目指して更に南下。竹鶴酒造から先には観光客の姿なし。
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 「ぎゃらりい梅谷」にも寄ってみたかったが、ランチタイム14時を過ぎると夕方までは準備中となるので急ぐ。
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 暖簾があるので営業中。向いの「風土」は竹高野球部への応援なのか閉まっていた。
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 ランチメニューはオープン当時から2種だが、各内容は以前とは変っているようだ。さすがに今回は祝いでも何でもない通常のランチなので安価なパスタを選択。
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 外気と比べて店内は強烈に涼しい・・・。 
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 ラストオーダーの13-時半まであと20分。この後に「茶寮一会」で「かき氷」を予定していたので別オーダーのドリンクは注文しなかったが、グラスに注がれた「お冷」は3杯も飲んでしまった。

 先ずはバルサミコス・ソースのかかったサラダと皿の隅っこに1枚スライスのフォカッチャ。
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 そして「フレッシュトマトとバジルのパスタ」(1530円)がこれ。
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 満席だったテーブル席と座敷席の客も徐々にハケて、食事を終えた頃には14時を過ぎていた。店外へ出ると「CLOSED」の看板が出されていた。満腹感はあるが腹八分なので続いて次は「かき氷」を食べに保存地区を北へ戻った。
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-以上-

 北崎のフェリー乗場(たけはら海の駅)へ渡る横断歩道の青信号待ちをしていると、歩道沿いに立てられた真新しそうな「スナメリ花ロード」のこの看板に目が留まった。これを何気なく撮影している際に、遠い過去にも同じ名の看板を撮った記憶がよみがえってきた。それが既視感(デジャヴ=実際は見ていないのに見たことがあると感じる)なのか否かを調べるため、これまで撮りだめた写真から探し出してみたら2枚見つかった。(2024/07/09撮影)
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 横断歩道の信号待ちにて・・・
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 歩道の右手を見ると青っぽい「スナメリ花ロード」の看板。
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 ここは阿波島付近のスナメリ廻遊海面エリアがある高崎町ではなく、内港がある北崎なのに「スナメリ」とは如何に・・・。この丁寧に整備されている花壇のある区間が「スナメリ花ロード」なのか・・・。
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 高崎洞門の先の先にあるスナメリ廻遊海面碑辺りまで「花ロード」が続いているのだろうか。
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 その区間が分からないので看板の傍まで寄ってみたが他の文字情報なし。
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 そして探し出したのが以下の写真2枚。撮ったのは2009年の正月であった。今回撮った上の写真と同じアングルで看板の柱は当時のままを現在も使用。看板下の「まちをきれいに」の戒め?看板も当時のものが酷く色褪せて今も残っていた。(2009/01/02撮影)
20090102a

 看板は現在とは異なるデザインで「花」の文字横に花のイラストが描かれているが、現在の看板には「花」の要素は無く、また背景の島には灯台があるので高崎沖の阿波島ではない。
20090102b

 そして「スナメリ花ロード」の区間だが、どこからどこまで続いているのかは結局分からず。長浜の国道の峠にあるパーキングにも同様の花壇が有り、北崎の看板とはまた異なる「スナメリ花ロード」看板があることは分かった。

-以上-

 明神から皆実町へと抜ける県道にて湊神社の横脇を通る最中に、左手の山肌に石燈籠が十数基並んでいる光景に驚いてしまった。ここは確か4月上旬頃に重機が入って工事中だった場所。桜が咲いていて近隣住民(明神自治会)の憩いの場所が造られているようだと聞いていた。石燈籠群で思い出したのが、2年前の記事「湊神社の参道に並んでいた石灯籠群」で紹介した仮保管場所(売物件)からの移転先であるが、初期に移転された礒宮ではなく、元々有った湊神社の傍に無事還されていたのであった。これにより、湊神社に残されている10基と、その至近に20基が戻されて計30基の石燈籠が揃ったことになる。(2024/06/25撮影)
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 明神の湊神社からアヲハタ竹原工場方面へ向かう県道の途中、燈籠群が見え難いが湊神社の左脇である。
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 逆方向からなら燈籠群が見え易い。
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 左端から10基。
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 更に続いて10基で隣りの湊神社の10基を含めて全30基となった。
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 燈籠群下の敷地内に解説パネルが設置されていた。
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 拡大してみると竹原の製塩業の歴史著書である『塩が育んだ文化の町 竹原 増訂版』(著:竹原郷土文化研究会)に書かれていた内容と、石燈籠に彫られている寄進年号と寄進者の一覧であった。
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 そして気になるのがこの石柱。どこかで見た記憶が有るのだが、ハネ上げ式の旧明神橋の礎か可動側を吊る重しだったのか、橋の近くに放置されていた石柱かもしれない。(吉名町小泊の移転元に横たわる石柱と思われる写真
 解説パネルには石柱について書かれていないが、頭上には春には桜が咲き乱れ、背後には石燈籠が並んだ住民の新たな憩いの場所にはベンチが必要。そのベンチの役目を果たしているのであろうか。
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 右脇には移設協賛者の石碑。
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 最後に全20基をパノラマ撮影してみたので拡大して数えてみて欲しい。
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-以上-

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