安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

2020.02.28

 保存地区圏から外れているが、この理容店(神谷邸)も歴史が古い。母屋と店舗が繋がっており、母屋は1896年(明治27年)の建築である。また、店舗側は昭和30年(1955年)頃のものであり、この写真の通り昭和レトロ感たっぷりの建物である。
 場所は栄町(さかえまち)で松屋二重焼店から市道を渡って保存地区へと向かうところである。ここへ散髪に行ったのは昭和40年代の一度ぐらいだったが、タイル張りの床、皮製ベルトで髭剃りを研ぐ様子、足踏みで上下する椅子、陶器の泡立器などを店主が使用しているのを眺めながら順番待ちしていた。竹原市の資料ではこの頃の店内の様子は現在もそのままとのことだ。
#01
#02
#03
#04
#05
#06
#07
#01-07:理容カミタニ(2020.02.23撮影)


 以下は2011年頃の理容カミタニの店舗である。何だか現在より古く感じるのだが、部分的に補修されながら徐々に朽ちて行く過程を繰り返しているようである。営業は続けられているので、この近くに有ったレトロな銭湯「玉純湯」のように解体されることは無かろうが、これほど魅力的な建物なのに観光客が素通りなのは残念である。
#08
#09
#10
#08-10:理容カミタニ(2011.08.18撮影)

2020.02.15

 大事なお客さんが来そうな時は「モンシェリでケーキこ~てこんにゃいけんかの~」とよく母が言っていた。楠神社から渡逢橋を渡って秋葉神社へ抜ける新町区に「モンシェリ」の旧店舗が有ったのだが、結局、大事なお客が訪れたことは一度も無かったので買いに行くことも一度ぐらいしか無かった。

 これが旧店舗の様子である。ショートケーキが売られていたのは知っていたのだが、テントに書かれている「コーヒー」とは何だろうか?コーヒー豆が売られていたのか、今でいうイートインのように店舗内にてケーキを食べながらコーヒーが飲めたのだろうか。
#01
#01:モンシェリ旧店舗(1997/08/14撮影)
#02
#02:モンシェリ旧店舗(1998/08/08撮影)


  2002年夏頃に扇町へ新たなケーキ店「フレシュール」(現在はナフコ裏へ移転)ができた。その頃に「モンシェリ」が新店舗へ移転する噂を耳にする。2003年の春には「おもちゃのお城きり屋」向いに新店舗ができていた。
 これがその新店舗である。店名は「菓子工房モンシェリ」「pâtisserie Mon cheri(パティスリー・モンシェリ)」へと変わった。今まで気にしたことが無かったが「Mon cheri」の意味は「(女性から男性へ呼びかける)愛しい人」のようだ。英語での「My Darling」と言ったところであろう。
#03
#03:モンシェリ新店舗(2003/05/01撮影)
#12
#12:モンシェリ新店舗(2010/12/29撮影)
#11
#11:モンシェリ新店舗(2009/08/05撮影)
#13
#13:モンシェリ新店舗(2013/01/02撮影)

 2006年の正月にショートケーキを買ったところ、「お年賀」とサービスで生菓子を頂いた。
#04
#05
#04-05:お年賀(2006/01/03撮影)
#08
#04-05,07:お年賀と生菓子(2006/01/03頂く)


 そのショートケーキがこれだ。
#06
#07
#06-07:モンシェリ新店舗(2006/01/03購入)


 気になるのが旧店舗の様子である。解体されずそのままの状態で「売家」となっていたが、長らく訪れなかった間に解体されて新築の一般住宅となっていた。
#09
#09:モンシェリ旧店舗(2008/08/17撮影)
#10
#10:モンシェリ旧店舗(2009/12/26撮影)

2020.01.26
 旧村上家住宅(通称:旧村上邸)というと何だか馴染みが無いが、それをリノベーションした「竹楽(ちくらく)」ならば分かるであろう。この旧村上家住宅については「竹楽」の出入口に解説がある。それを転記すると・・・
-------------------------------------------------
旧村上邸
江戸時代後期の文政~安政(1827~1856)に町年寄であった菅超右衛門の家と伝えられている。文政年間(1861~)には呉服屋「いづみや」があり、明治9年の文書では吉井平吉郎と寺島平作の名が見え、のち呉服屋(村上氏)となる。江戸時代末期頃の建物は本瓦葦、片側入母屋造り、間口4間、奥行4間のつく二階のある平入りの母屋(ねずみ漆喰壁)と裏の間口4間、奥行4間の妻入り棟を一間の大屋根で接続、母屋の北側に間口3間、奥行6間の本瓦葦妻入りの土蔵がある。土蔵の下にはナマコ壁、庇のある鉄格子の小窓、母屋の南側に瓦葦白壁の塀が続き、大型町屋の拡張をたかめる。この建物の特徴は母屋の屋根が3段である。
-------------------------------------------------
・・・ん~、間取りのイメージが浮かんでこない。やはり、古民家鑑定士の資格をとっておくべきだった。2年間毎に更新試験が有るのだが、勉強して1度でも資格がとれていれば旧村上邸の間取りが描けたに違いない。特に聞きなれない「間(けん)」という尺貫法をメートル法へ変換しないとサイズ感さえもわかない。

この旧村上邸は、NPO法人ネットワーク竹原によって買い取られ竹原の特産品販売として現在まで活用されている。

私としてのこの建物の記憶は、昭和時代では石田医院であった。予防接種か何かで1,2度訪れたが、いつの間にか廃墟となっていた。まだ堀川醤油へ空の一升瓶を持ち込んで量り売りさてもらっていた、豆腐屋(和泉?)で出来立ての木綿豆腐をボールを持って行って買っていた遠い昔から石田医院だった。


-------------------
ここは竹小までの私の通学路だったので院内の様子が窓からいつも覗けていた。診察室は全面水色で木製の薬品入れ、アルマイトの洗面器や医療器具などが有った。その昭和時代の写真をモチーフに当時のデジタル加工技術を駆使??して描いた絵の画像をホームページの表紙にしていた時期が有った。道路は石畳ではなくアスファルトかコンクリートの緩いかまぼこ状、数メートル路上を歩けば犬の糞に遭遇し、木製電柱が並んでいるノスタルジー溢れる光景である。
#00
#00:旧村上邸付近を描いたデジタル絵画(2006/08/24作成)

-------------------
これは「時をかける少女」のCMを観たきっかけで1983年に買ったベータムービーで撮った石田医院の付近である。まだ「石田医院」と「胃腸科内科」と読めそうな看板もある。この時点でもう電柱は見当たらない。

#01
#01:石田医院付近をビデオ撮影(1983/08/04撮影)

-------------------
そして以下からデジカメによる撮影が始まった。1998年頃には「石田医院」の看板は無くなって廃墟となってしまって、窓からは荒れ果てた天井の様子が確認できた。既に石畳か敷かれており、「竹まつり」も恒例行事となっていたが、ここだけが取り残されて周りから浮いた状態であった。いずれは解体されてしまうのでは?と帰省のたびに撮っていたのである。
#02
#02:石田医院跡(1998/05/04撮影)

#03
#03:石田医院跡(1999/01/03撮影)

#04
#04:石田医院跡(1999/03/01撮影)

#05
#06
#05-06:石田医院跡(1999/05/03撮影)


-------------------
21世紀に入った頃から廃墟のままとなっていた石田医院の廃墟が「竹まつり」には竹細工で飾られるようになった。今考えれてみれば、本町通りの中心部にあるこの廃墟を隠すための「覆い」だったのかもしれない。
#07
#08
#09
#07-09:石田医院跡(2003/04/28撮影)

#10
#11
#10-11:石田医院跡(2003/05/03撮影)

#12
#13
#12-13:石田医院跡(2003/12/27撮影)

-------------------
そして 2004年の「竹まつり」前日にここを訪れた時、廃墟だった建物に灯りが灯っていた。いつのまにか屋内がリベーションされて生まれ変わっており、翌日の「竹まつり」には「竹原市在住作家 6人展」のイベント会場として開放され、石田医院の屋内へ再び入ることができたのである。もちろん病院だった痕跡はないが、屋内に隣りの土蔵の扉が有ることをこの時に知った。扉の枠が鳥居状になっているのも古民家としては異質である。
#14
#15
#14-15:竹まつりイベント準備中の石田医院跡(2004/05/02撮影)

#16
#17
#18
#19
#20
#21
#16-21:竹まつりイベントで使われた石田医院跡(2004/05/03撮影)

-------------------
これは台風で漆喰壁が剥がれ落ちた隣りの土蔵の様子である。台風の直撃のためか、この年の「住吉まつり」は中止となってしまった。廃墟だった石田医院の屋内がリノベされたことで解体は免れたようだ。以後、ここが観光地として何かのために利用されであろう。
#22
#23
#24
#22-24:台風後の石田医院跡(2004/08/01撮影)

-------------------
2007年の「竹まつり」を訪れた時、窓に貼られた「旧村上邸」の由来と建物の構造について解説された貼り紙を見つけた。ここで初めて石田医院だった古民家が由緒ある建物であったことを知った。
#25
#26
#25-26:旧村上邸であった石田医院跡(2007/05/03撮影)

-------------------
その翌年2008年の「竹まつり」を訪れると旧村上邸が竹原の土産物店「竹楽(ちくらく)」として活用されていた。以後、廃墟感が一掃された風格のある古民家へと生まれ変わって町並み保存地区の主要な土産物店として現在に至っている。
この後については、NOPネットワーク竹原の理事長である佐渡さんが「竹楽」を含めて数多くのメディアに登場しており、ニュース、イベント、旅行番組、そして竹原びいきのテレビ東京系の番組などでご存じであろう。地元では神様的な存在で「佐渡さん有っての竹原市」となっている。佐渡さんか登場する番組については多数録画しており、別途ブログで紹介予定である。
#27
#28
#29
#30
#27-30:旧村上邸が竹楽となった(2008/05/03撮影)

#31
#32
#33
#34
#31-35:竹楽(2010/04/30撮影)

#35
#36
#37
#38
#39
#40
#41
#42
#43
#36-43:竹楽(2010/05/04撮影)

#44
#45
#46
#44-46:竹楽(2011/01/04撮影)

#47
#48
#49
#50
#47-50:竹楽(2011/05/03撮影)

#51
#52
#51-52:竹楽(2013/08/09撮影)

#53
#54
#55
#56
#57
#58
#53-58:竹楽(2017/05/03撮影)


2020.01.23
 私が竹原駅構内エレベータに初めて乗ったのは2019年5月である。エレベータの完成は2013年3月だったので出来てからはかなりの年月が経過していた。これまでの帰省では自動車を使うことが多かったが、歳を重ねるにつれ長時間の連続運転が辛くなり、高速道路の割引制度が無くなってからは飛行機や新幹線に切り替えたことで自動車での帰省はしなくなった。新幹線を使うときの殆どは竹原駅を使うのだが、跨線橋の壁の隙間からちらりと見える三井の煙突や旅館グルマンの看板を見るのが好きでエレベータを使わず階段を上り下りしていた。そのためかエレベータ内がどうなっているのかを知らないまま6年間が経過していたのである。

バリアフリー化が望まれていることを知ったのが2011年の正月明け。竹原駅建物から駅前交番跡へ移転した観光案内処の看板に「みんなの声でJR竹原駅をバリアフリーに!」と書かれていたのを見つけた時であった。
#01
#02
#01-02:観光案内処の看板(2011/01/04撮影)

その時はこの「バリアフリー」の具体的要望が未だ理解できていなかった。駅出入口階段には車椅子などに利用できるスロープが既に用意されていたので、跨線橋へエスカレータやリフトを取り付ける要望のことだと思っていた。
#03
#04
#05
#03-05:竹原駅のスロープ(2011/01/04撮影)

要望が叶えられればこの階段にエスカレータが取り付けられるのだろう。ここは関西圏だからステップ右側に立たなければ後ろから舌打ちされるのでは?等とどうでも良い事を考えていた。
#06
#07
#08
#09
#06-09:竹原駅の跨線橋(2011/01/04撮影)

それから1年以上が経った2012年夏にこの「お知らせ」でエスカレータではなくエレベータが設置されることを知る。設置場所は「池」のようだが、どのような構造となるのかまでは説明では分からなかった。フェンスの向こうにある四角い槽が鯉のいる「池」なのだが、ホーム側の場所によっては電車の停止位置が変わる可能性もある。
#10
#11
#12
#13
#14
#16
#17
#18
#10-18:エレベータ工事予告(2012/08/04撮影)


その年の11月は、まだ改札側では工事は始まっておらず、向い側のホーム上に金網フェンスが設置され配線工事らしき作業がされていた。どうやらフェンス内にエレベータ設備ができるようだ。

#19
#20
#19-20:工事が始まっていた(2012/11/03撮影)


そして完成予定の2013年3月下旬、工事は2012年10月27日から始まり、年度を跨いだかは確認していないが工事は最終段階で佳境に入っており、市民が待ち望んでいたエレベータの稼働はもうすぐである。外見的には池の有った位置に乗降口ができて、線路上を通路が跨いでホーム側へとつながる構造であろう。
この時、駅出入口の「おかえりなさい」も工事中だったのだが、バリアフリー化に伴ってか文字の下半分に点字ブロックが貼り付けられ、15cm程度向こう側へ新たな「おかえりなさい」の文字が盛られたのがこの時であったようだ。よって、2013年4月以後はアニメに登場していた聖地シンボルの代表的場所である「おかえりなさい」とは別物となった。
#22
#23
#24
#25
#26
#27
#28
#29
#30
#31
#32
#33
#34
#35
#36
#37
#38
#39
#40
#21-40:工事は佳境(2013/03/23撮影)

次の帰省2014年の正月明けにはエレベータは完成。池だった場所にそびえ立つ昇降棟は予想外に大きい。改札口からエレベータの扉を開けて2Fに上がると逆側の別ドアが開いて通路へと出る。通路の先の右側にドアが有り、ホーム(1F)へ降りると乗ったドアから出るクランク型構造だったと記憶している。
#41
#41:運用中(2014/01/04撮影)

#42
#42:竹原駅ホーム全景(2014/05/06撮影)

#43
#43:竹原駅改札口側の昇降口(2017/12/29撮影)

そして初めてエレベータに乗ってみたのが2019年7月だった。閉まったドアの向こうには窓があり、故障時の非常階段も用意されている。よって、乗った扉とは逆の扉が開いて通路へ出る構造であることは間違いなし。関東の駅に追加設置されているシンドラー社製エレベータによくある構造である。確認するのを忘れたがメーカーはどこだろう。
#44
#45
#46
#44-46:エレベータに乗る(2017/12/29撮影)

2020.01.22
 新町交差点から創建ホーム本社ビル角までの商店街のある通りは「中央通り」と呼ばれていた。その名残りなのかこの辺りの新住所名が竹原町中央となった。この通りにはアーケードのある商店街があり、東筋には日の丸写真館カフェ&ギャラリーひのまる、西筋にはヒツジヤ日吉丸鮮魚店市川印舗山田薬局山陽書房が並ぶのだが、最近、歩道を歩いた時に現在も営業中だったのは日の丸写真館カフェ市川印舗ぐらい。そのアーケード南端の山陽書房は竹原を撮り始めた頃には既に閉店となっていた。
 竹原市内の書店で学生時代に私が利用していたのは、旧岩瀬書店(藤井酒造向こうの角)、久保木書店(あいふる中程)、草間書店(忠海駅向い)とこの山陽書房であった。ブックメイトかめおいわせ書店(あいふる)と蔦屋は社会人になってから時々訪れていた。
 草間書店カフェ&雑貨ラ・パンとなり、廃業後のシャッターに瀬戸内の島々が描かれていた久保木書店は別店舗に変って痕跡が完全に消えた。後に駅前へ移転したいわせ書店も数年前に廃業。とうとう店舗建物の看板が現在も残っているのは山陽書房のみとなった。
 学生時代には山陽書房草間書店が辞書や参考書系、旧岩瀬書店が趣味系(初歩のラジオ、ラジオの制作、CQ誌など)と使い分けており、山陽書房になければ久保木書店まで足を延ばした。
 その山陽書房の看板がいつかは無くなるのではと撮り続けたのが以下である。どれもアーケードを歩いている途中だったので全景が無いのが惜しい。アーケードに保護されたのか、なぜか経年変化が殆どない。壁面の看板は鉄筋フレームに各文字が取り付けられており、フレームのネジを外せばそのまま取り外せる構造になっている。
#01
#01:山陽書房(1997/04/28撮影)

#02
#02:山陽書房(2004/05/05撮影)

#03
#04
#05
#15
#03-05,13:山陽書房(2004/08/04撮影)

#06
#07
#06-07:山陽書房(2010/05/01撮影)

#08
#09
#10
#11
#08-11:山陽書房(2018/01/03撮影)

#12
#12:山陽書房(2018/01/04撮影)

#13
#14
#13-14:山陽書房(2018/01/03撮影)

↑このページのトップヘ