安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

土曜日の実験室

2020.01.20
 4月から西幼稚園、西保育所及び中通保育所が「竹原市立たけのここども園」として統廃合されるのだが、これまで撮っていた写真は西保育所が3枚、中通保育所は1枚程度しかなかった。各園ホームページは存在するが、竹原市役所サーバ内管理または間借りであるため4月からはサイト閉鎖される可能性がある。念のため西幼稚園は内容全てをダウンロードしておいたが、参考に各ホームページのリンクを以下に示した。

西幼稚園ホームページ
西保育所ホームページ
中通保育所ホームページ

西幼稚園については2日前の記事に書いた。西保育所は旧ホームページに記事が有るので何れ本ブログへ引っ越し予定。中通保育所は中通小学校の最後に記載したはずなのだが尻切れトンボ、下賀茂神社の記事はあるが中通保育所が欠落していたので、今回は中通小学校の転載に加えてその続きを載せることとした。なお、中通保育所は西幼稚園と同様に旧場所(中通農協の隣りと裏)があった記憶が有るのだが未解決のままである。

先ず、中通小学校については別の記事で最古の写真が3枚見つかった。1996年に自動車で流しながら本川沿いから撮ったものと、1998年に朝の散歩で正門前から撮ったものである。この頃、中通小学校関連で何か事件が有ったような気がするのだが忘れてしまった。
#30
#30:中通小学校(1996/10/13撮影)

#31
#32
#31-32:中通小学校(1996/10/13撮影)

ここからが旧ホームページからの転載である。中通小学校の写真に続いて中通保育所と下賀茂神社へ続くはずが未記述だったのでその続きを今回追加してみた。


以下は、2009年11月14日の旧HP記事

1377 中通小学校の校庭

撮影月日:2009.08.03

#01
朝の散歩の途中で尾道商店横から中通小へ行ってみることにした。
校庭内に入れるかどうか不安だが、校庭が近隣の近道にも利用されているので大丈夫であろう。
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#02
#03
校庭の入口に中通公民館ができていた。
やけに新しいが、新聞配達でここを何度も通っていたにもかかわらず、ココに何が有ったのか完全に忘れてしまった。
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#04
#09
#05
#12
門もフェンスも無いため校庭に入ることができたが防犯上大丈夫なのか。
校庭のバックに見える朝日山は竹中からの眺めよりも素晴らしい。
竹中校歌は「朝日に映えて朝日山・・・」、中通小は「みどりにもえる朝日山・・・」
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#07
#06
#08
国旗掲揚台だったか朝礼台だったか・・・。
竹小と同じく歴史がありそうな錆びかた。
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#13
#14
#15
校庭には必須の鉄棒とウンテイ。
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#21
#22
竹小と同じく蒸気機関車の動輪。
創立記念に置かれたものだが説明板は朽ち果てて諸元が読めなくなっている。
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#16
#17
#18
#19
#20
これも必須アイテム。
開校は明治6年、金次郎像の建立は昭和12年。
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#24
校庭を抜けて保育所と下賀茂神社へ・・・
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以下が今回の追加分

#23
#25
#26
校庭を抜けたら中通保育所がある。
中通農協の隣りに木造平屋の建物と裏側へ園庭が有ったのだが、そこが廃墟となってからは私の暫く遊び場になっていた。現在は集会所が新築されているが、もしかしたらここが中通保育所の旧場所だったのかもしれない。
もしそうであれば農協のサイレンが定刻に頭上でけたたましく唸るので泣く園児もいたに違いない。
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以下は、2009年12月19日の旧HP記事

1386 下賀茂神社

#27
#28
#29

 撮影月日:2009.08.03
 来週は竹原へ帰省であり今年の更新はこれがラスト。元旦の初詣は磯宮神社へ行く予定であるが、この不況のまっただ中、初詣客数はどうなっているのか。賽銭が1万札の時に鳴る太鼓の音も響く回数が減るであろう。神社といえば中通りの下賀茂神社も近い。小学生時代にはこの境内を越えて山に上がり、友達と一緒に水源地のそばでアポロチョコやベビーラーメンを食べるのが楽しみであった。ここから眺める中通から竹原町の景色が大人になっても時々夢に出でくる。
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以下は、2008年9月3日の旧HP記事

1263 中通農協裏


1263a
1263b
1263c


撮影月日:2006.01.02

 中通農協(正式にはJA営農センターらしい)の裏に集会所らしき建物がある。1960末年代までここに中通保育所と記憶している木造の建物があり、庭には鉄棒、ブランコやシーソー(ギコトンバッタンと呼んでいた)があった。宿題もせずに夕方までここで遊んでいると傍にある農協のサイレンが17時過ぎになるとでけたたましい音をたてて鳴り始め、近所の犬たちの遠吠えが始まり、遊びほうけた一日が終わる。この保育所がある頃から閉鎖され、恐る恐る誰も居なくなった屋内に入ってみると多くの不用品が残されていた。この中にゼンマイ式の蓄音機や真空管ラジオがあったのを憶えている。ゆがんだ窓ガラス越しに見える園庭は朝日山に沈む夕日を浴びて全てオレンジ色だった。竹原を離れてかなり経ってから中通小学校の校庭と下賀茂神社の参道の間に中通保育所があることを知った。農協裏からここへ移転したのであろうか。
 この集会所?を撮った時にサイレンの下に碑を見つけた。ここで遊びほうけていた頃にもこの碑が策の中にあったことをハッキリと憶えているが、これが何の記念碑なのかはサッパリ分からない。「御大典 記念 後場・・」で最後の2文字が読めない。「御大典」は天皇御即位の式典のことで「後場」は株式市場の午後の取引時間らしいのだが2つの単語の関連性は薄そう。


2020.01.16
 昭和から平成にかけてバタンコと呼ばれていたマツダのオート三輪(T2000)が竹原の街をガタンガタンと爆音を立てながら走っていた。21世紀に入ってからはその姿を見掛けることは皆無となっていたが、あの「竹原びいき」のテレビ東京による旅番組「昼めし旅~あなたのご飯見せて下さい」で健在であることを知る。この番組は再放送だが、番組名は「昼めし旅~広島”定食屋さんのスタミナ○○炒め"&南伊豆"金目鯛みそ漬け焼き”」で、旅人は具志堅用高さん。竹鶴酒造に寄るも休みで取材は交渉不成立。のんびり亭では交渉成立で昼食の「ホルモン焼きと塩レモン唐揚げ」を一緒によばれた。次は「せんべい本舗黒田」で忠孝巌煎餅の試食とお買い上げ。最後に隣りの「遊のやかた きよみ」で書道体験と「大好物たっぷりおばんざい晩ご飯」を一緒によばれた。その番組の冒頭で町並み保存地区のメインストリートを走ったのがこのバタンコである。偶然なのか仕込みなのかは何とも言えないが、いつも車庫の奥のほうで眠っていた車が未だ走れる状態であったことに感激した。
#05
#05:TV番組にも登場(2016/07/25放映)

 そのバタンコの走行中を偶然に撮ったのが以下である。場所は楠通でダルマヤ近くの中山タンス店付近である。竹原でバタンコと言えば「森近製材」だが車体には何も書かれていないので不確定。この辺りにも森近製材が有ったので写真のみでは駐車中に見えるのだが間違いなく走行中なのである。昭和40~50年代は、竹の束を積んで街中を走る「森近製材」を良く見かけたので、福山自動車博物館でT2000のプラモテル(2432分の1)を買って模型が好きな会社の同僚に「森近製材」の車両をウエザリング(経年変化を感じる塗装)をかけて再現してもらったことがあった。
#02
#02:楠通りを走行中(1998/08/08撮影)

これは「竹まつり」中に保存地区を歩いているときに見かけたバタンコで走行中のもの同じ車両である。この車両が16年が経過したテレビ番組へ登場したのか、それとも別の車両だったのか。番組に登場したものにき錆が無く塗装に光沢があるのでレストアされた可能性もある。
#03
#04
#03-04:駐車中(2000/05/03撮影)
 

この時の「竹まつり」では珍しく楠通りが歩行者天国会場となっていた。このような賑わいは後にも先にも無いであろう。他に載せる機会は無なさそうなのでその賑わった会場の様子をここに載せておく。
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#10-11,13-27:楠通りの竹まつり会場(2000/05/03撮影)

2020.01.15
 竹原関連ブログならば神明掛町通りと久保町通りの角にある竹原電化の看板について何か書かない訳にはいかないだろう。ここは町並み保存地区圏ギリギリ外なのだが、まるで保存地区対象物件なのではと間違う程に時間が止まったままなのである。竹原の自然でやかな「時」の流れを感じたくて訪れた旅人の多くがここの看板「キドスカープ」に魅了されている。
 道の駅からの観光推奨ルートだと、栄町通りか享保町通りを抜けて笠井邸からスタートし、照蓮寺で折り返して、藤井酒造の酒蔵交流館から掛町通りを抜けて戻るので、ここを通る機会は少ない。旧日の丸写真館が目的か、製塩町ホテルへの宿泊、レストラン青での食事ならば確実にここを通るであろう。

 試しに「キドスカープ」でネット検索してみてほしい。殆どの結果が竹原電化の「キドスカープ」に関するものであることに驚くであろう。私のは場合は在りし日の「エイデン」シャッターに描かれていた光速エスパーへフォーカス・ロックしていたので、ここはそんなに写真を撮っていなかった。2010年頃から「何だか気になる存在」となって、その経過を時々見守っているのだが、塗り潰された電話番号だけが徐々に色褪せて晒され始めたことぐらいで、逆に看板自体は褪せるどころか彩度が上がっているように感じる。撮った写真は以下の1998年から2017年までの数十枚なので、その変化(していない様)をざっと眺めてみてほしい。(見え始めた電話番号はモザイク加工した)
#01
#01:竹原電化(1998/05/04撮影)

#02
#02:竹原電化(1998/08/09撮影)

#03
#03:竹原電化(2003/09/28撮影)

#04
#05
#04-05:竹原電化(2006/01/03撮影)

#06
#06:竹原電化(2011/01/04撮影)

#07
#07:竹原電化(2011/08/18撮影)

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#07-10:竹原電化(2013/01/03撮影)

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#11-12:竹原電化(2013/12/31撮影)

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#13-19:竹原電化(2015/05/03撮影)

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#20-22:竹原電化(2017/05/03撮影)

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#23-25:竹原電化(2017/05/04撮影)

以下は自己満足の世界へ入っているのでわざわざ読まなくてよいかも。

 では「キドスカープ」とは?過去記事で少しだけ触れたが、これは日立のカラーテレビ用に開発されたブラウン管の愛称である。もう「ブラウン管」は死語だが、その時代に使われていた「チャンネルをまわす」とか「チャンネルをひねる」の表現はなぜか残っている。「巨大な真空管」と表現しても「真空管とは?」となるのでなかなか説明が難しい。
 テレビの仕組みを軽く説明したほうが良いのだが、もう過去の技術なので詳しく語るのはよそう。中から貞子が這い出して来るような分厚いガラス瓶の画面がブラウン管とでもしておこう。液晶テレビのパネルを拡大すると赤緑青の粒が1組で並んでいるのだが、ブラウン管でも同じである。赤緑青の光り具合で黒白を含む全色が表現できるので、この赤緑青1組が2Kテレビなら水平方向へ約2000組を1本とした線が垂直に約1000本のスダレ状に並んでおり、これを1画面とした写真が1秒間に30枚の速度で差し替えられている。200万画素のスマホカメラで例えれば1秒間に30枚撮った写真を実時間で再生しているようなもの。
 この赤緑青1組それぞれは液晶テレビならシャッターの高速開閉、LED型テレビなら粒の明るさを高速で変化させ色合いを変えているのだが、ブラウン管テレビは電子銃と呼ばれる光線銃で画面内側のガラス面にビッシリ配置した電子が当たると光る蛍光粒を正確に狙い撃ちしている。銃には赤用、緑用、青用の3本が有り、ゴルゴ30も驚くほどの正確さと速さで350組×525本のスダレ状に並んだ1粒を同時に3本の銃で撃っているのである。また器用にも奇数目のスダレと偶数目のスダレを交互に射抜き、電子銃からの電子が当たった粒はその弾の強弱によって光る強さを変えている。目の残像効果と発光の余韻によって結果的に30分1秒に1枚の写真がすげ替わって動画として見えている。
 この電子銃の精度と粒の配置の精度、まっ黒の表現方法に関する技術向上が昭和40~60年代の家電各社で競われていた。この辺りから製品の商標名なのか技術方式名なのかが怪しくなるが、ソニーでは商標名を「トリニトロンカラー」、東芝は「ユニカラー」、松下は「パナカラー」、三菱は「ダイヤカラー」、そして日立は「キドカラー」だった。ブラウン管の技術ではソニーが「トリニトロン」で売りは電子銃「ワンガン・スリービーム」(1本の筒に電子銃が3本が入った技術)、松下の「クイントリックス」や日立の「キドスカープ」である。他のメーカーのブラウン管技術はソニーのシャドーマスク(粒に被せた網目状の枠)を使わない新技術(トリニトロン方式)が幅を利かせていたのか目立っていない。その代わりなのか電源を入れると電子部品が温まるまで画像がなかなか出ないのを改善した日立のポンパ(スイッチポンでパッと点く)などが出始めた頃から商標なのか技術名なのか区別が難解となる。竹原電化の看板にある「鳥」の名前は「ポンパ君」であり、電源を入れてから温まで動かない真空管式の電子回路をトランジスタ回路へと置き換えた技術だった。もちろん真空管の親分であるプラウン管はソリッドステート化(ICやトランジスタ化)できなかったので車やファンヒーター暖機のような余熱手段しかなかった。この頃、更に三洋の「ズバコン」(回すチャンネルがそのまま抜けて、超音波式リモコンとして使える)や、リモコン操作でチャンネルつまみがガチガチと遠隔回転するものなども一般受けしていた。
 私がソニー党だった理由は、何かのテレビ歴史番組で観たデファクト・スタンダードを効かせてユーザーを囲い込む、電球と二股ソケット販促のためは他社による蛍光灯の普及を阻止するような社風の会社ではなく、技術者の「弛まない技術の探求」が大好きだったからである。松下がトーマス・エジソン型ならばソニーはニコラ・テスラ型といえよう。もちろん今でも押入れには小型のベータ式ビデオムービーやとラジオのスカイセンサー5800(竹原の旭電機で購入)などが保存されている。

 さてこの「キドカラー」の「キド」だが、光り具合の「輝度」と電子銃が当たる発光材料の「希土」から名付けられたもので、ブラウン管自体の名称は「キドスカープ」だ。因みに「スカープ」は「スコープ」のことだと思うが、電球や真空管のようなガラスやレンズを使った機器の多くに「スコープ」が付いていおり、原始的な映画の上映装置は「キネスコープ」、電子工学の世界では計測器に「ブラウン管オシロスコープ」や「シンクロスコープ」、その他に「テレスコープ(望遠鏡)」や「マイクロスコープ(顕微鏡)」がある。会社ではこの「スコープ」はプログラミング言語で使われていたが、ビジネスで使うと「サステナブル」とか「ダイバーシティー」を多用する「カタカナおやじ」になるので要注意。

 最期に竹原における「キドカラー」についてトリビアが2つある。1つ目は「日立のポンパ号」が竹原駅に止まったこと。2つ目は「日立の飛行船キドカラー号」が竹原上空を飛んでいたこと。
 蒸気機関車と客車「日立ポンパ号」は日立の宣伝専用蒸気機関車で、車両自体が当時のカラーテレビを連想させる総天然色、車内も宣伝展示がされていた。呉線電化の寸前で未だディーゼル(キハ)が走っていた1970年の頃。平日の19時頃だったと思うが、家族で竹原駅まで訪れてホームに停まっていたポンパ号に乗り込んだ微かな記憶がある。この時、ホームへ渡る跨線橋が水色で木造だったこと、見終わってから駅を出たら駅前交番とシオタの隙間に月食が見えていたこと。その後に「一冨士」で中華そばを食べたこと。
 飛行船「日立キドカラー号」は竹小での授業中に誰かが空に浮かぶ飛行船を見つけて教室内が騒然。授業が中断され窓から覗くと銀色のボティーには竹原電化の看板にある日立ロゴと「キドカラー」の赤文字が入った飛行船が、何やら歌を流しながら西へと漂っていった。窓から隣りを見たら、どの教室からも生徒が体を出していた。これはポンパ号より少し前だったと思う。
 我が家がカラーテレビとなったのは大阪万博の1970年の頃だった。これまで白黒画面に「カラー」と出ていたのがカラーテレビで「カラー」が観られて喜んでいた時代である。「鉄腕アトム」、「どろろ」や「トムとジェリー」は白黒だったが、白黒だった「巨人の星」が途中からカラーになった。海外ドラマとしては原子力潜水艦シービュー号の「海底科学作戦」、「タイムトンネル」は白黒だったが、「サンダーバード」や「ジョー90」、「宇宙大作戦(スタートレック)」や「可愛い魔女ジニー」なとがカラーで観ることができた。この竹原電化はその頃から「キドスカープ」と「ポンパ君」の看板でここに現在も存在し続けている歴史的価値のある建造物なのである。

2020.01.07
 昨年の10月帰省では、実家の風呂が解体されていたので大広苑(だいこうえん)の風呂を利用した。1960年代に実家に有った五右衛門風呂が抜けた時、直るまでの一週間に使っていた地蔵湯が無くなったってしまったので、それ以後では初めての竹原での外風呂である。宿泊客以外でも利用ができる大広苑の風呂は、2001年4月20日に新館ができた時、ヨーロピアン調大風呂「ビーナスの湯」との名称で併設されたものである。これまでの出張や旅行等で利用してきた各種ホテルの宿泊経験からすると、この風呂はビジネスホテルにある大浴場といった雰囲気である。
 ロビーから階段で2Fへ上がって左側にある扉を開けるとカウンターがある。宿泊外利用料として700円払うと首からぶら下げるロッカーキーとハンドタオルが貰えるので、椅子に座って喫煙できる大休憩室の隅にあるキー番号と同じロッカーを探して裸になって浴室のドアを開けて中にへと入る。ロッカーは会社の更衣室等によくある一般的なタイプであり、キーはブレスレット型ではないので貴重品があるならば首から下げたままでの入浴となる。
 中に入ると左側にはサウナ室があり、更に大浴場のドアを開けると流し場と3槽?の大風呂がある。積まれた椅子と洗面器を取って座面を洗った後に座る。ボタンを手の平でバンっと押すと15~20秒程度水栓からお湯が出る。温度調節や水の蛇口があったかは記憶していない。
 入った時間は17時半頃だったが、先客は3人でそれぞれが3つの浴槽を個々に独占していた。3人が入れ代わり立ち代わりにサウナに入っては浴槽へと戻るというローテーションだった。

 その大広苑の変遷については、これまで何度か記事にしてきたが歴史は古い。大広苑ができる前の土地は1970年頃まで広大な田圃だった。春には一面れんげ畑となり、収穫の秋には稲穂が干されて藁焼きの煙があちらこちらで立ち昇る。ここが私と友人の遊び場となっていた。
 1970年頃に全国的なボウリング・ブームが訪れた頃、この広大な田圃が埋め立てられて「竹原スポーツセンター」が突然できた。その後、駐車場の南側へはバッティング・センターが増設され、その頃にはブームは終焉を迎えていたと思う。それからの順番は定かではないが、頑丈なレーンを利用したのか墓石展示場、BかC級の映画館、結婚式場となり、現在のホテル旅館業へ至っている。ボウリング・ブーム当時は1,2度程度訪れた微かな記憶はあるが、ボウリング自体より裏にあるマシン室には興味津々。倒れたピンが自動的に掃出されて整えられ、ボールはベルトコンベアで床下から元に戻される。その自動機械が開いた窓から常時観察できていた。その時のボウリング・システム会社名が「AMF」であり、アメリカン・マシン・アンド・ファウンドリー (American Machine and Foundry) であったことだけが鮮明な記憶として今も残っている。

 そのボウリング場だった名残りが大広苑のこの看板である。この手の名残りがある看板は関東ではロヂャースグループ(ワコーとジュンテンドーを足したような業態に近い)に多いが、西条ならば賀茂ドライブインが現在はホテルカモとなっているといえば分かり易いかもしれない。その大広苑のシンボルであったボウリングのピンがいつしか取り外され、カラーリングは赤白から緑へと変わって現在に至っている。新館の屋根にも同様の高い位置に看板が備わったので、それより低いこの古い看板はその役目を終えたようにみえるが、駐車場の利用者からは見え易いので役には立っている。それでは最古の写真から現在のものへの変貌を紹介しよう。

#01
#01:大広苑の看板(1997/07/13撮影)
白地で消された部分に何が書かれていたかは憶えていない。写真は黒地だが実際は赤である。また、ピンの首には2本の赤ラインが有ったが、この頃は色褪せてしまっていた。因みに既にボウリング場ではない。

#02
#02:大広苑の看板(1998/03/02撮影)
この写真では看板全面が塗り直されて、結婚式場、ホテル、サウナ、和風レストラン花車が書かれたが、実際には3面のうちの2枚がこれであり、残り1面は白地のままである。

#03
#03:大広苑の看板(2003/05/01撮影)
そしてシンボルとなっていたボウリングのピンが撤去された。

#04
#04:大広苑の看板(2004/08/01撮影)
新館の屋根に新しい看板ができている。

#05
#05:大広苑の看板(2005/01/02撮影)
新館の看板と同じデザインに変って新たに「風呂」が追加された。なぜか「大広苑」の字体が変わっているが新館の字体とは異なる。また左上の斜め線がクローバーへ変わっているのも興味深い。

#06
#06:大広苑新館の看板(2008/12/28撮影)
これが2001年に増設された新館と「ビーナスの湯」である。

No.2020.01.01

 年が明け令和2年となった。いつもならこの時間は礒宮八幡神社で初詣の最中だが今年は自宅で録画した番組を見ながら記事を書いている。竹原で暮らしていた頃は元旦といえば明治神宮のコント55号と芸能人かくし芸大会が楽しみだったが、今回の年越し前後に録画していた番組は早送りで観るまでもなく消去ボタンとなるものばかりだった。絶唱ではなく絶叫、短いフレーズ繰り返し、抑揚の激しいナレーション、ぶつ切りと巻き戻し、効果音と文字の埋め尽くし、恒例ではなくマンネリだったりで平常時のワイドショーやバラエティと何ら変わらないもの。やはりどの局も番組制作の発注先が同じ会社なのだろう。正月を感じさせてくれるのは、年明け直後のさだまさしのトーク番組のみとなってしまった。

 それに月が替わったせいなのか未修復の1ヶ月前の過去記事の画像欠落が始まっているので再び修復作業が必要となってしまった。まだ試行中だがこの「はてなブログ(無料版)」はログ(履歴記録)として使えないことが確定した。また新たなブログ探しを始めなければならない。

 さて、帰省していない以上、新たな除夜の鐘や初詣の写真は無い。ごそごそと探していたら古い雑誌「観光と産業 たけはら」(ブレーン企画:昭和57年)にこれを見つけた。今更だが、いつ頃の写真なのかご存じの方はいないだろうか。写真の文章「当社」が「ブレーン企画」なのか「当神社」なのかはもう分からない。


#00
「観光と産業 たけはら」より


  ちなみに礒宮における旧本殿前の記念写真だが、本殿らしきものが写る写真は以下ぐらしかない。石段に立つ私の後ろにあるのは本殿ではなく本殿手前の門であり、この門の開口から先に微かに見えている屋根が本殿と思われる。現在の本殿前の境内には昔は大きな柱の立派な門が有って、ここでかくれんぼなとして遊んでいた。現在の礒宮は鉄砲水で流された後に再建されたものだが、この門が再現されなかった経緯にも興味あるところだ。新旧共に本殿には普明閣のような欄干があるので門との違いは分かり易い。

#18


 冬の帰省時には必ず礒宮へ初詣に行くのだが、徐々に活気が薄れてきていると感じる。賽銭箱への高額投入を告げる太鼓の音の数、晴れ着姿の群れの数、破魔矢の本数、結ばれたおみくじの数、鳥居まで連なる家族連れの数、そして場を盛り上げる露店商のテント列数。これらの数による初詣の賑わいは2011年を最後に急降下している気がするのだが、以下はその2011年元旦の初詣の様子である。

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 ついでに2012年から2019年の様子も見比べて欲しい。天候や時間帯によっても客の数は違うだろうが、訪れる毎に「あれっ?」と感じている。もうすぐバーチャル神社へバーチャル初詣をして、バーチャル賽銭箱へバーチャル賽銭をリアルでペイする時代が到来するであろう。

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