安芸の小京都 竹原アルバム

このブログは私の故郷竹原のディーブな散策アーカイブです。 1996年から続けていた旧ホームページをブログとして継続中。 (ご注意:観光向けではありません)

在りし日

 自転車で散策中に竹原自動車学校の出入口を過ぎた国道沿いにある「竹とり家」の看板が外されていることに気付いた。GW前の真昼に何かの工事が行われており、店頭のガラスに貼り紙が貼られているのを運転中に見掛けたが、その工事は看板撤去で貼り紙は「閉店のお知らせ」だったのかもしれない。いつ頃の閉店で看板がいつまで有ったのかは分からず仕舞である。(2024/05/14撮影)

 いつのまにか赤い看板が取り外されていた。
#01

 GW前に見掛けた店舗前ガラスの貼り紙はもう無い。
#02

********

 最近撮った写真を即探し出せず、2年前の夏に撮った営業中の写真がこれ。(2022/08/21撮影)
20220821a

 続いて見付けたのがこの写真。ここは2010年末まで「創菜うどん」だったようだ。(2010/12/31撮影)
20101231a

 飲食店には無関係と思われる「パッチワーク」・・・。「創菜うどん」と併設だったのか、それともガラス面を宣伝用として貸していただけなのか。のちの「竹とり家」だった頃から現在までは同様に竹原自動車学校の合宿ポスターなどが多数貼られている。
20101231b

 写真中央の貼り紙を拡大してみたら「本日をもって、閉店致します。・・・」。「創菜うどん」は2010年12月31日で閉店だった。
20101231c

-以上-

 「たけはら竹まつり」の「かぐや姫パレード」を撮りに旧笠井邸の二階を訪れた際、隣り部屋の「たまゆら部屋」(勝手に名付けたが・・・)が「もぬけの殻」になっていた。これまで置かれていた展示物等は何処かへ移されたのだろうか?それとも然るべき場所へ大切に保管されたのだろうか?(2024/05/03撮影)
#01
 
 記帳ノートだけはテーブルに残されていた。
#02

 ここへ並べられていた映画ポスター類も・・・。
#03


 もしや移動先は・・・とこの後に「歴史民俗資料館」を訪れてみたが、無料展示コーナーには「マッサン」しか展示物が見当たらなかった。

*******
 それでは「在りし日」の写真を以下へ。

 「たまゆら部屋」を最後に撮影したのが「雛めぐり」期間中の際に撮ったパノラマ写真のみ。(2024/02/04撮影)
20040204a

 その前は1年前の「竹まつり」で撮った声優サイン入り映画ポスター。(2023/05/03撮影)
20030503a
20030503b
 
 更にその前が1年前の正月明け。マンホール・アート展だったと思われる。(2023/01/08撮影)
20230108a

20230108b
20230108c
20230108d
20230108e
20230108f
20230108g

 「ほり川」
20230108h
20230108i

 「日の丸寫眞舘」
20230108j
20230108k

 「竹鶴酒造」
20230108l

 「普明閣」
20230108m

 「胡堂」
20230108n

 それより前にも年に何度か撮影してきたが、今回は写真を探す時間が無かった。


-以上-

 昨日、「コスモス」に寄るまで全く気が付かなかったが、「竹の駅」の向いにある「花いち古書センター跡(旧ザ・シューズ)」の建物周囲に防塵シートが被せられて屋内では重機が作業中であった。解体なのか修繕なのかは未だ確認できていないが、防塵シートと重機の姿から解体なのではと思われる。(2024/04/21撮影)
#01
 
 場所は国道432号沿いで「コスモス」があるト字路。長らく「テナント募集」の貼り紙が貼られているが、外観が白いまま短期間の仮設的な店舗として何度も使われていた。
#02

 本日も確認してみれば良かったが、すっかり忘れていた。
#03

 ちなみにここが「花いち古書センター」と「ザ・シューズ」だった頃の写真については過去記事「花いち古書センター跡」を参照されたい。

-以上-

 本日の夕方は上市自治会による「神明祭」の打ち上げ。誠鏡の熱燗で酔ってしまって早く寝たいので小ネタ記事でサッサと済ませることにした。その小ネタとは郵便局の傍にある外灯に取り付けられたままの「イズミ」と「ヒツジヤ」のレトロな看板。(2024/02/24撮影)

 なぜか残されたままの懐かしい看板が2点。
#00

 「イズミ」の設置場所は竹原郵便局の横にある外灯柱。#01

 それも廃墟となってしまった「ゆめタウン竹原店」が「イズミ」の時代のものである。
#02
#03

 まだ「イズミ」だった頃の懐かしい写真の中の1枚を載せておく。(1008/08/01撮影)
#08


 そして「ヒツジヤ」は竹原郵便局の交差点角にある外灯柱に設置されている。
#04

 「ヒツジヤ」自体は新町のアーゲード商店街なのだが、店舗跡には未だ看板が残されている。
#05
#06
 
 同様に営業中だった頃の「ヒツジヤ」の写真も載せておく。(2004/05/05撮影)
#07

 懐かしついでだが、竹原郵便局の交差点には「モード大岡」の看板も残されている。

-以上-

 楠通仙場町にあった地蔵湯が更地になったのはいつ頃だったのか?ここを通る度に3階建ての祠を眺めながら在りし日の地蔵湯の姿を思い出してしまう。(2024/01/16撮影)

 隣りに在った仲商店までが消えてしまい、本川から旧々岩瀬書店跡が丸見えになっていた。
#01

 更地になった地蔵湯跡地は、のちにアスファルトが敷かれて駐車場となっている。
#02

 その一角に3階建ての祠が鎮座している。戦後の内湯が少ない頃は、ここの祭礼での「せったい」が有名で子供達が拝み来ていたとの記録が『たけはらの神仏を訪ねて/著:神野勝』に書かれていた。
#03

 改めて祠の各階を見てみると同居の地蔵様が少し増えているようだ。
#04


****** 以下、「在りし日の地蔵湯が消えるまで」 ****
 
[1996.10.13撮影] 最古の黎明期テジカメ(カシオQV-10)による写真。画像が粗いが女湯側に地蔵祠が写っている。
19961013a

[1999.03.25撮影(TKさん提供)] 湯上りのお客さんだろうか?私が最初で最後に利用したのは1970年頃だった。自宅の五右衛門風呂の底がオガライトの強火力に負けて抜けてしまい、修理までの1週間、タオルと洗面器を持って通っていた。その頃は男女の暖簾がある木造だったと思う。
1999032aTK
1999032bTK
 
[2005.05.03撮影] この写真で左手が女湯だったことが分かった。
20010503a
 
[2008.12.28撮影] この頃は営業されていたのだろうか?
20081228a

 この通り祠は建物と一体化。
20081228b

[2010.03.21撮影] 臨時の帰省時に解体中を目撃。祠は防塵幕に隠れて写っていないが建物と密着していたので一時的に退避されたのだろうか?未確認であった。
20100321a
 
[2010.04.30撮影] その年のGW帰省時には更地となって、トタン張りされた祠のみが橋のネキに移設され鎮座していた。
20100430a
 
[2010.08.10撮影] その夏の帰省時にはアスファルトの駐車場になっていた。
20100810a

 この祠に集められた地蔵菩薩の愛称は現在でも「地蔵湯の地蔵さん」でよいのだろか?

-以上-

↑このページのトップヘ